ゲーム業界に対する研究文

<一回目 即戦力>

子供達がなりたい職業の中に必ずあるゲームクリエイター。
子供でなくとも、ゲーム業界に就職したいという人はたくさんいるハズ。
私もその一人である。
私はよく求人雑誌やホームページで募集要項を見ているが、
どの募集要項を見ても、殆ど”即戦力求む”という文字がでてくる。
”業界未経験可”も、言い換えた”即戦力を求む”である。
一般の企業みたいに”初心者可”というところは少ない。

自分が会社の社長なりをやる場合、初心者を雇うより即戦力になる
実力者を雇ったほうが効率はいい。あたりまえの理論だ。
しかし、ゲーム業界に限って(限った事ではないが)この”即戦力”が
あまりにも多すぎる。
私なりの理論だが、これの理由を上げてみる。
1・締め切り
2・1に対する初心者の教育問題
3・仕事内容に対する耐久力

まず、1の締め切りから。
物事には大体モノを納品する締め切りというものがある。
それまでにモノが完成していないといけないのだ。
ベテランがやっている仕事の中にポンと初心者が入った場合、混乱するのが
普通のオチである。

プログラマを例に取るとしよう(作者がプログラマ志望なので)。
まず、締め切り寸前でごったがえしている中に初心者プログラマが
入る。
いきなり企画書(または仕様書)を見せられた後、いきなりソースを見せられて
いきなり、あれやれ、これやれと言われる。
いくらプログラムの知識があったとしても、プログラムというのは普通、
作った本人以外は理解しにくいものである。
できないでやめてしまうか、プログラム自体の構造を壊してしまうかの
どちらかである。
そんな事になった場合、今までの苦労が水の泡になりベテランの苦労が増える。
もちろん、締め切りにも間に合わなくなり、会社自体の信用もガタガタである。

初心者で、普通に仕事ができる人もいるかもしれないが、
そんな人は稀だと思う。

第2に”1(締め切り)に対する初心者の教育問題”。
忙しいから教育できない。これだけである。
手取り足取り教えるとかそういう問題ではなく、
極端な話、物(ツール)の使い方から社交辞令まで自分で何とかしろ。
というのである。

入ろうと思う人達もバカではない。
分からなければ聞くなり調べるなりするハズだ。

最後に”仕事内容に対する耐久力”。
これは各職さまざまであるが、開発全てに言えることを述べてみる。
就業時間が不規則であり、家になかなか帰れない。
面接に行って大抵聞く言葉がある。
”残業がかなりありますが大丈夫ですか?”
これである。
忙しいと、休日出勤はあたりまえ。
毎日終電近くまで残業する事になったり、
会社泊まりになったりする。
(残業手当をくれないところもあったりする)
”そんなの平気です”と言う人もいるだろうが、開発現場の人間はどれだけの
辛さか知っているし、そんな事を言う人でも”耐えられない”ことも知っている。
なので、ヘタに無理させて病気になられるとかえって開発者の迷惑になる。
また、会社に入ったのはいいが、入ったとたんに、
予想以上の辛さに仕事をやめてしまったりすると、
穴埋めする為に今いる開発者の負担を重くしてしまう。
それによって、連鎖的に開発者がやめていくことも考えられるからだ。


ゲームを造りたいが、経験が無い。
経験がないとゲーム業界に入ることができない。
しかし、何処も経験者や即戦力を求める。
八方塞であり、どうしようもないのが現状である。

企業というものは、慈善事業でやっているわけではない。
その言い分もわかる。
しかし、新しい人材を育てず、エジソンやアインシュタインみたいな
天才が現れるのを口を開けて待つ(というかそれしか育てない)のはいい事なのだろうか?
または他のIT企業(嫌だなこの言い方)で腕を磨いて出直して来いと
言うのが業界の正しいあり方なのか?

初心者を育てるというのは、いろいろなリスクを背負う事になる。
しかし、それに釣り合う以上のリターンのある教育をする事によって、
価値が生まれてくるのではないのだろうか。

水溜りみたいに”業界人や経験者”のみが停滞している業界に、
新しい流れをつくり水を供給してくれる企業を、私は求めている。

<二回目 専門学校>

ゲームに関する専門学校をいくつか聞く。
ゲームを作りたい、学びたいから専門学校などに行く人もいるだろう。

就職の為に専門学校へいている人、または通おうとする人に言う。
専門学校での知識は”大して役には立たない”のである。
知識が使えないわけではないが”専門学校の知識”が使えるだけでは
ダメなのである。
例えば、専門学校でアニメ絵を習得したので、デザインの仕事をしようと思った。
しかし、それアニメ絵以外のデザインができなければ、何処も相手にしてくれない。
アニメ絵だけの仕事が回ってくるはずがないのだから当然である。

最初に批判的な意見を述べたが、専門学校を責めているわけではない。
”専門学校へ行く=ゲーム業界への最短距離”という大いなる勘違い方程式を
改めて考えてもらおうと思ったからだ。

これは近道でもなんでもない。
専門学校で教わる技術というのは、基礎+αくらいであり、
そこからどれだけ技術の応用と向上のための努力ができるかが、
本当の”近道”なのである。

就職率の高さや名声欲しさに学校へいくだけだと、逆にしっぺ返しを食らうだろう。

また、ゲーム業界での人の価値というのは
”初心者=専門学生<業界以外の専門職経験者<業界経験者”
となっている(持論)。
専門学生のほうが知識もあるし、技術もある。
それなのに初心者と同等であり、ゲーム業界以外の人以下とはどういうことか?
実は、技術というのは業界以外の専門職につくことでも十分得る事ができる。
嫌でも身につけないと、仕事にならないからだ。
その上、学生と社会人を比べた場合、悲しいかな、世間では社会人のほうがいい目で
見られることが多い。
経験の差、社会の適応さが目に見えて分かるからだ。

例えば、自分が企業の人事(採用係)になってみよう。
状況はプログラマを募集したとし、やる気と技術力は同じであったとする。
ゲームの専門学校に通っていて、今回の就職で初めて仕事をする応募者と
専門学校に通った事はないが、ゲームに関わらなかったがプログラマの仕事を
過去に経験した応募者がいたとしよう。
どちらを採用したいと考えてみれば、大抵の場合は、後者の方を採用する。
理由は簡単。
いくらゲームの専門学校にいたからといっても所詮は素人。
右往左往されるくらいならば、状況を把握できる経験者のほうが欲しい。
忙しいから募集をかけているのであって、新卒者を育てる為に募集を
かけているわけではないからだ。

それともう一つ、専門学生を取りたくない理由がある。
専門学生が気をつけるところであり、業界関係者がよく誤解するところでもある。
業界関係者はある意味思い込みっぽいかも知れないが。
それは”協調性”である。
仲のいい友達だけでゲームを作るのではない。
時には、気の合わない人とチームを組むこともあるだろう。
”気が合わないからチーム組むのは嫌”ではすまないのである。

このままだと、現在学生の人はどうすればいいの?という疑問が残る。
昼間は学業で忙しいのに昼間会社勤めなどができるはずが無い。
それならば、自分がやりたい仕事に近いアルバイトをするなり、
(極端な話、どんな仕事をしてでも)世間を見、
それによって自分の個性や社会適応性に磨きをかけたほうがいい。

ゲーム業界の人たちが初心者を取りたがらないのだけが悪いのではない。
学校というぬるま湯につかりっぱなしで努力を怠り、学校の力(コネ)だけで
仕事につこうという甘い考えをしている学生も悪いのだと、私は思う。

<三回目 ゲーム機という名の器>

最近、アメリカでX−BOXの発売についてマスコミが大いに騒ぎ(2001年11月末現在)、
それに伴って、PS2やゲームキューブの反応を大々的に取り上げられている。
それが悪いとは言わないが、
ただ、どの記事も一体何を基準にして面白いとか、良いとか言っているのだろうか?
性能?綺麗なCGが表示できる?
どの話を聞いても、ゲーム本来の面白さではなく、
ゲーム機の性能を面白さに変換して評価している気がしてならない。

過剰な性能をフルに使いこなす事(CGや3D機能等)、また、
そんな性能を誇ったゲーム機でゲームを作ることが、
いつの間にやら面白いゲームを作る条件になったのではないだろうか。

結局、それは作る過程の技術というだけであって
”技術の高さに比例して面白くなる”とは、必ずしもならないのである。

ゲーム機というのは所詮、器に過ぎない。
表現するためにそれ相当の性能は必要だが、
テレビゲーム本来の面白さというのは、ゲーム機に依存しない。
極端な話、ファミコンでもゲーム本来の面白さを発揮する事が可能なのである。

だからといって、今ファミコンで面白い物を出せばいい、と言うわけではないが・・・。
この辺は、営業(またはマーケティング)の問題になるので、それは次回にでもやりたいと思う。

新機種にゲーム業界の希望を託すことに文句は言わない。
だが、”テレビゲーム本来の面白さ”を見ることなく
過剰なCGや3Dという、表現だけで物事を修飾したゲームを作成しようとしたり、
いらぬ芸術思考(詳しくは下記に記載してある)を持ってゲームを作成するならば、
どんな機種に希望を託しても無駄である事を認識してもらいたい。


ところで、過剰な〜というのは具体的に物事を指しているのだが、
いらぬ芸術思考というのは、どういうものを指すのか。
まず、芸術とはどういうことか、というのを見ておこう。
芸術を辞書で見たところ”美を表現する事”とある。
最終的には”美”という言葉まで分析しなければならないのだが、
今回は意味だけでかまわない(そこまで行き着くほどではないからだ)。
では、改めていらぬ芸術思考とはどういうことかを説明する。
こぎれいな御託をうだうだ並べて
(自分の表現したかったのはこれだ!ポリシーは曲げられない!がよくある例)、
最終的には開き直り”分かる人にだけ分かればいい”と言う考え方。
自分達以外がやるという考えではなく、
あくまで自分やそれに同調している人”だけ”が、やりたいという考え方
(私はこれをユーザー思考と言い、ユーザーの気持ちになって作るとはまた違う考えである)。
これらがいらぬ芸術思考である。

分かる人が高く評価すれば、それにユーザーが引っ付いてくると勘違い
(または夢みている)し、そんな作品を、勝手に自分の芸術作品と結び付けているのだ。
その為、周りがついていくことができず、引いていくのにも気が付かない。
そして、しまいには、それが自分”達”(業界全体)の首を絞めていくのにすら気が付かないのである。
きっぱり言えば、そういう人に限って、
”作ることしか頭にない”
”周りの意見は一切聞かない、聞く耳持たない”
”自分正義”
という、営業には一番向かないタイプである(営業だけの問題ではないが)。

「作ったから評価してくれ。
 そして、この面白さを分かってくれる人だけがついて来ればいい」
では、いつまでたっても進歩しないし、過剰に市場に出回るだけで、
余計にユーザーを困らせるだけである。

へたな可能性を掘り進むより、まず、基本的なことを押さえるべきだ。

<四回目 音楽に関する疑問点と解釈>

自分自身、音楽に関してえらそうに言える立場ではないのだが、曲を作っているある人の
セリフを聞いたとき、疑問が湧いた。
僕:「どうして、インパクト重視の曲は良くて、歌詞重視の曲はいけないのですか?」
ある人:「歌詞重視の曲をつくるなら、詞を書けばいい。」
うろ覚えだが、こんな事を言っていた。
普通に考えると、なるほどと納得することだろう。
しかし、自分が捕らえた考え方に解釈すると
「歌詞重視の曲は詞が命。そこを重点的におけば、そんなもの簡単にできる」
「それよりも、インパクトをもたせる曲を作るほうが難しい」
である。
過剰解釈かもしれないが、自分にはこう取れた。

事実、歌詞がよくて、心地よいコードを置いていけばそれなりのものができるだろう。
しかし、”それなり”である。

曲だけで勝負するならば、インパクトはあったほうがいいだろうが、歌詞が入ってくるならば
話は変わってくる。
”歌詞を殺してはいけない”
である。
いくら曲自身にインパクトがあったとしても、歌詞を殺しては台無しである。
「歌詞がいい曲=歌詞の力」
だけではない。
歌詞の力を曲が後押しするように盛り上げているから、
歌詞の力が何倍にもなって伝わるのである。

つまり、歌詞重視の曲は、歌詞を殺さないで、いかに盛り上げるかの技術が必要であり、
上記の「歌詞重視の曲をつくるなら、詞を書けばいい」はかなりの暴言である。

研究文とまったく関係ないじゃないか。と言う声もあると思う。
芝居やゲーム、オペラも結局は同じ。
要はたとえが違うだけで、中身自体は同じ”中身を殺す曲は意味がない”なのである。

言い訳として「全体のバランスが大事」という言葉も存在するが、、
「バランス」ではなく「いかに相手にイメージを伝える」かが、大事なのである。

文を載せられないのが残念なのですが、無限コンチェルト(グレックベア著)にも
似た感じの文がありました。

ご意見やご感想をお待ちしています。

  lute@do7.enjoy.ne.jp 虎神 竜斗(こがみ りゅうと)

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