月山富田城
(島根県広瀬町)


島根県東部に位置する広瀬町は『山陰の鎌倉』と呼ばれ、古くから城下町として栄えました。
その繁栄を支えたのが、今回ご紹介する月山富田城です。

月山富田城は文治元年(1185)に出雲国守護として入国した佐々木義清によって築城され、
以後、山名・京極・尼子・毛利・堀尾と城主が変わりましたが、
慶長16年(1611)に廃城となるまで、山陰地方の軍事上、政治上の拠点でした。

特に、最盛期には中国地方の11カ国を領有した尼子氏の時代には、
城下町もおおいに賑わいました。


さて、城は麓から月山頂上に向かって
『千畳敷』『太鼓壇』『奥書院』『花ノ段』『山中御殿』『三の丸』『二の丸』『本丸』と
郭(くるわ・平坦地)を連ねた複郭式城郭になっています。

登山口は麓の『道の駅』にあります。駐車場はたっぷりあるので大丈夫でしょう。
なお、中腹の山中御殿まで車で登れますが、駐車スペースがほとんどないので、
麓で駐車したほうがベターだと思われます。

登り始めて5分くらいで、最初の郭の千畳敷に到着です。
桜の樹が敷地一面に植えてありました。花見には良いでしょうね。

次の太鼓壇には、この人の銅像が立っています。

『願わくば我に七難八苦を与え給え』で有名な山中鹿之助幸盛です。
鹿之助は尼子家の家臣で、毛利氏との戦いで活躍しましたが、
尼子家滅亡後は遺児・尼子勝久を奉じて再興に奔走しました。
天正5年(1577)織田信長の力を借りて、播磨上月城で再び毛利氏と戦いますが、
翌年に落城し、捕虜になってしまいます。
安芸に護送される途中、備中甲部川(岡山県高梁市)で謀殺されました。

生涯を尼子家再興にささげた鹿之助は、地元が生んだ英雄として親しまれています。


太鼓壇を後にして、奥書院・花ノ壇へと登っていきます。
花ノ壇は、当時花が多く植えられていたから付けられたとのこと。
発掘された柱穴を基に復元した建物が2棟建っています。

花ノ壇。背後の山の頂上が本丸です。


花ノ壇を過ぎると、いちばん広い郭の山中御殿に到着です。

  

(左)大手口、(右)塩谷口の城門跡
石垣の上には櫓が立っていたそうです。

  

山中御殿
大手口・塩谷口・菅谷口の3つの登城ルートがここで合流します。
建物跡も確認されており、軍事上・政治上の中心地だったと考えられます。
とにかく広いです。出陣のときにはここに兵士たちが勢揃いしたんでしょうね。


ここから本丸へは20分くらい。・・・らしいんですが、ここで時間がなくなってしまい引き返すことに。
今度来たときは頂上を極めたいです。


城の周辺には尼子氏ゆかりの遺跡が点在しています。
城の北麓には『新宮谷』というところがあるんですが、
ここは尼子氏の時代、尼子一族・国久が率いていた『新宮党』の館がありました。
尼子家最強の軍団として恐れられていましたが、時の当主・尼子晴久が毛利元就の計略にだまされ、
館を急襲、新宮党を全滅させました。
この事件をきっかけに尼子氏の勢力の衰えは決定的になり、晴久の子・義久の代に
毛利氏によって滅亡に追いやられてしまいまうのです。

新宮党一族の墓
ちなみに鹿之助が尼子家再興のために担ぎ出した勝久は誅殺を免れた新宮党の遺児でした。

新宮谷にはこの他、山中屋敷跡、尼子一族の墓、堀尾吉晴の墓などがあります。
また、広瀬町には県有形文化財の『富田八幡宮』などもありますので、是非どうぞ。