第2回 日野山城時代の吉川氏
吉川興経の養子になった元春は天文19年(1550)年に小倉山城へ入城し、吉川家の当主となりました。
元春21歳のことでした。
元春は手狭になった小倉山城から本格的な山城である日野山城(千代田町)に本拠を移し、
さらに居館を志路原(豊平町)へ定め、政務にあたりました。
吉川元春とその弟・小早川隆景はともに苗字から『両川』と呼ばれ、
主家である毛利家を助けて各地を転戦しました。
主に隆景は山陽方面を、元春は山陰方面の戦略経営を任されていたようです。
特に、元春は武略に優れていたといわれ、数々の武勇伝が残っています。
その一つが厳島合戦の中の逸話です。
弘治元年(1555)、元就は山口の陶晴賢を厳島(宮島)に誘い出し、奇襲をかけました。
その際、陶軍の武将が退却するために厳島神社周辺の民家に火を放ちました。
社殿が延焼する危険を感じた元春は
『弘中(陶軍の武将)を逃がすとも苦しからず、神殿に火を移すな』
と命令し、すぐさま配下を消火活動に当たらせました。
激戦の最中に部下を消火に当たらせるというのは、常人にはできないことで、
これをやってのけた元春は、その冷静沈着さと敬神の念を天下に知らしめました。
その後、毛利氏は中国地方を統一し、さらに四国、九州へも勢力拡大を目指しましたが、
豊臣秀吉に屈服し、中国地方のみの領有を認められました。
天正14年(1586)11月15日、元春は秀吉の九州攻めに従軍し、豊前小倉の陣中で没しました。
享年57歳。遺体は安芸国海応寺(豊平町)に葬られました。
さらに、翌年の6月5日には元春の長男の元長も九州攻めの途中、日向国都公里で病没。
40歳の若さで没した元長には子供がなく、元春の三男・広家が吉川家を継ぐことになりました。
それでは、今回は元春・元長時代の史跡をいくつかご紹介していきたいと思います。
吉川元春館跡(広島県豊平町)
元春の隠居所として1580年代前半に造られた館跡。
発掘調査で建物や井戸・庭園などの跡が見つかっており、
また、輸入した陶磁器や木簡なども出土し、当時の人々の生活や文化、技術がうかがえます。
入り口には館跡をぐるっと囲んでいる立派な石垣がそびえています。
現在も発掘調査ならびに史跡公園にするための整備事業が継続中。
完成したら是非行ってみたいものです。
吉川元春・元長墓所(広島県豊平町)
元春館跡の裏手にあります。
吉川氏の本拠が岩国に移ってから一時墓所は荒廃しましたが、
明治以降の元春の贈位をきっかけに修復したとのこと。
右の写真、右側は元春、左側は元長の墓です。
万徳院跡(広島県千代田町)
吉川元長が宗派にとらわれない寺として天正3年(1575)ごろに建立しました。
東西80m、南北45mの境内からは本堂、庫裏、風呂屋、門などの建造物の他、
庭園や水道設備の遺構が見つかっています。
吉川氏が岩国に移ると、万徳院も移転しました。
小川に沿った参道を歩いていくと境内を囲む石垣が見えてきます。
境内には庭園跡、建物の跡、風呂屋の復元建物があります。
右は少し離れたところにある本堂を復元したガイダンスホール兼休憩施設『青松』です。
前回と今回とご紹介した吉川氏関連の遺跡がある豊平町・千代田町・大朝町と広島県では
連携して中世遺跡保存整備事業を進めているそうです。
これからどんなふうに整備されるのか楽しみですね。
というわけで、今回はここまでです。
次回は岩国に移った後の吉川氏についてやってみようかなと思っています。
・・・でも岩国って土地鑑ないからなぁ・・・
下調べに時間が掛かりそうですね。
ではでは、次回をお楽しみに
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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