略歴

 

癸卯(みずのとう)332日?

古くは万葉ゆかりの長門島と呼ばれていた倉橋島に生まれる。

 家は祖父、父親ともにフカセ釣りをしていたので、幼い頃からフカセには親しんでいたが、

 小学5年頃、父親がフカセ釣りを辞め、18の頃祖父も辞めたので、私が再び始めるまでフカセ釣りから遠ざかっていた。

 

倉橋小、倉橋西中、倉橋高校と地元の学校に通う。

いろいろな海釣りをやっていたが、特に、「浜チヌ」と言って、シャコ(ボケとかアナジャコとも言う)を使って砂浜からのチヌ釣りにハマッていた。

 高校の頃、開高健の釣り紀行「オーパ!」に出会い、以後、「いつかは“アンバサダー”を」と思うようになり、今では9個も買ってしまい使わないで眠っているものまである始末だ。

 

18になると、外の世界が見てみたいと、岡山に移住する。

そして、そこにある半田山という山の登山を始める。

 正規ルートの『万年坂(つづら坂とも言う)』、最短ルートで難所の『心臓破りの坂』、一番安易な『留年坂』の3ルートから、

『留年坂』ルートを選び登山をした。

 

この頃は、なぜか社交ダンスをやっていたのだけど、昨今のようなブームはなかったので、カッコ悪いような気持ちがあり、真剣にやっていなかった。

時が流れ、映画で取り上げられ、テレビでもHNK以外で放送されるほどブームになったけど、そのころにはほとんどステップを忘れていた。

また、人に誘われて旭川にセイゴやスズキを釣りに行くことがあったが、ギギと呼ばれる毒魚ばかり釣れて、本命を見ることはほとんど無かった。

昨今のルアーブームが当時あればもっと良い釣果にめぐり合えていたかも知れないと、「自分の腕を棚に上げて」思っています。

また、この頃、生まれて初めて30cm以下のセイゴを見た。倉橋近辺ではそんな小さなセイゴを見ることは無いので珍しく思えたのを覚えている。

 

21のとき、苦節?4年にして半田山の登頂に成功する。

この年から翌年の12月まで、富山県新湊を皮切りに山口県柳井、大阪住吉、和歌山県御坊、大阪府岬、

富山県高岡、横浜、名古屋、尼崎、和歌山県海南、広島県竹原、茨城県鹿島、横浜、千葉県市原、

川崎、新湊、愛知県知多、そして福島県浪江と釣とは無縁の放浪の旅をする。

 今、考えれば、こんなにあちらこちらへと行ったのに、行く先々で釣りをすることができなかったのが悔やまれてならない。

 

23になって、家業の漁業を本格的に手伝い漁師になる。

しかし、釣は時たま、ハゲとかメバルとかギザミとかを釣る程度で、鯛釣りはしていなかった。

 

27から 鯛のフカセ釣りを始める。

 初めは近所のリタイヤした漁師から船(進、20年、2.5)を譲り受け、「日勝丸」という名前を付けて出漁していた。

 二年目から船(20年、4.3)を乗り換え名前を「日美丸」に統一し、11年乗った。

 今現在、3代目(10年、4.3t、FRP)に乗る。

 

 人となり

 “短気で我儘、天邪鬼”と人は言うけれど、本人はいたって普通だと思っている。