のぞみの会-講演会・勉強会
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講演会 2001.10.28 尾道 & 2002.01.19 広島
「がんと共に生きる」・・再び白衣を着て思うこと

呉共済病院在宅医療療養指導管理室
婦長 荒金 幸子 氏

 昭和62年に胸のしこりを発見し、呉の病院で手術を受け放射線治療のあと、2ヵ月後に職場復帰した。しかし救急が勤められないほど体が動かないので、辞表を出したところ上司に「そういう思いこそが看護の心ではないか」と諭され思いとどまった。
 平成1年在宅医療が始まり、がん患者のケアは自分こそできるのではないかと、在宅での看護に取組んでいた。しかし平成2年6月の検診で肝臓移植が発見された。GOT.GPTが4桁でCEAが629と高値で、CTで冠動脈周囲に7cm大の腫瘍と肝臓全体にがん細胞が播種性に散在していた。しかし簡単に自分の命をあきらめ切れなかった。内科へ転医し、「あなたの命にかかわることだから、どこで治療したいか自分で選んでください」と言われ、セカンドオピニオンにあたるようにいわれた。家族のことをいろいろ心配していたが、姑は再発転移を聞いたときに「自分のことだけを考えなさい」と言ってくれた。この言葉により「病気を治してこの家に帰ってくる」と決意した。

平成2年7月岡大病院へ入院し、免疫療法を受けることになった。第一外科のなおもと先生は「この治療で皆元気になっていますよ」と言ってくれ、ここへ来てこれで治るのだと強い希望が持てた。しかしこの時主治医から夫と姑が聞いた言葉は別のものだった。主治医はこの夏を越すのは無理だ。余命を告知したほうがいいと告げていた。しかし姑は「待ってください。本人は治そうとしてきているので、言わないでほしい。」と頼んだのだった。この事実を知ったのは4年後のことだった。あの時、告知されていたら今の自分はなかったと思う。当時まだ39歳で、自分のためにまだ生きていない、こんなことでは死ぬことはできないと思った。
抗がん剤免疫治療を続け、10日で髪の毛も全て抜けた。毎日40度の熱が出て悪寒戦慄のためこたつ布団にくるまっていた。そのとき見回りにきた看護婦さんに声をかけてほしかったのに、見ただけで行ってしまわれた。患者の立場になり自分の今までの看護を振り返ったとき、自分は今まで患者の心に答えていただろうかと反省した。そして「もう一度1年でいいから生かしてください。本当の看護をやり直させてください」と祈った。
 2ヵ月後CEAは著名に改善し、主治医に「長く医者をしているがこんなに良くなった患者はみたことがない」と言われた。
 しかし入院して4ヵ月後のある日横になるとしんどく、胸部X線を撮ると肺が真っ白だった。白血球が減少して肺炎になっていたのだった。呼吸不全で気管挿管されICUへ」収容された。とても希望が持てない状態だったが、一日5mmよくなればいいと目標を持って頑張った。主治医の森本医師はいつも笑顔だった。先生の顔を思い浮かべると自分も笑顔になった。このとき自分が笑顔になると相手も笑顔になるのだとわかった。
 ある日岡大の教授が訪問してくれて、「あなたはいろんな体験をしますね。これを看護に生かしてくださいよ。」と言われた。これで私はもしかしたら元気になれるのかなと思えた。平成2年12月8日やっとICUを出た。その時「一般病棟に出られるとは思っていなかった」と言われた。
平成3年1月7日ついに岡大を退院した。なおもと先生が「あなたの中に神のようなものがいて二度も奇跡を起したのでしょう。」といった。自分ではその神とは、自分を支えてくれたすべての人だったと思う。振り返ると、
「心まで病まず、人との関わりの中で笑顔を忘れない自分がいた。」と思う。

 尊敬するデーケン先生の言葉に次のような言葉がある。
人間が豊かな生活をするには三つの世界が要る。

「仕事の世界」「祈りの世界」「カーニバルの世界(ユーモアの世界)」

 今現在自分がここに居られるのは、

「希望を捨てなかったこと。
 もう一度白衣を着たいと思っていたこと。
 笑顔を忘れなかったこと。」
     が大きな要因だったと思う。

 これからも仕事を続けていき、患者様の足元に灯りをともすことこそ、自分の心の中にも灯りがともることだと思う。多くの人との関わりの中に生まれる「ひとあかり」を頼りに生きて生きたい。

荒金さんの治療内容(化学療法)は以下のものでした。

5FU(フルオロウラシル)
CPM(シクロフォスファミド):エンドキサン
INF-α(インターフェロン):
EPI(塩酸エピルビシン):ファルモルビシン
TNR-α

以上、荒金さんの講演を浜中が要約しました。
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