のぞみの会-講演会・勉強会
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「女性のがんに関するトーク」: 柳原和子、馬庭恭子、浜中和子

柳原さんの話: 多くの仲間が亡くなっていく中で、自分はどうやって死のうかと考えていた。昨年末に肝臓に三度目の再発があり、それを苦痛に耐えながら、ラジオ波で焼いてもらった。その後さらに傍大動脈リンパ節に多発転移、脾臓にも転移がみつかった。そのショックで「もういい、もう生きていたって」とつぶやいたとき、主治医の肝臓専門医が「それは最も愚かな選択ですね。」と言った。主治医があきらめないので、ここまで頑張ってこれたと思う。そして脾臓にラジオ波をかけ、傍大動脈リンパ節には放射線治療をした。どんな医師が必要かと考えたとき、総合力のある医師が必要だと思う。患者とともに闘う伴走者としての医師が必要とされている。自分がわからないことに関しては謙虚である医師こそ名医だといえる。振り返ってみて、自分はとてもわがままな人間だと思う。「治りたい」と言えない状況で、「治らなくったっていいじゃないか」と言い聞かせて生きてきた。治らないといわれてから、どう生きるかが問題だ。自分には確信しているものがある。それは山歩き、祈る事、菜食、玄米、そして人とのつながり。「生きていくことの素敵さ」を実感している。「がんを得たことは素敵だ」と意志の力で言い続けたい。死を意識したときの恐怖心を認めること。怖さは人間としての基本的な気持ちである。自分の中の弱さに素直になることが大事だ。
医者と患者が共に議論をすることが必要だと皆さんに訴えたい。

馬庭さんの話: 自分が卵巣がんになったとき、なにが自分を支えてくれたかというと、浜中さんが持ってきてくれた柳原さんの「がん患者学」の本だった。この本をバイブルのように手元に置いて歩んできた。抗がん剤の副作用で手足がしびれて、訪問看護師として何ができるかと考えたとき、行政の場でがん患者の声を直接届けようと思い、市会議員になった。一方で婦人科癌の患者さんのサポートをするために「ウィメンズ・キャンサー・サポート」を立ち上げた。セカンドオビニオンをどうしたらいいかなどの相談が沢山ある。癌になったことで生きなおしができた。癌になって出会えた人がいる。自分はがんになって良かったと思っている。自分の命の自分のものなので、自分はこう生きたいんだと伝えることが大事だと訴えたい。

浜中会長の話: 13年前に乳がんになり、医者の立場と患者の立場の両方がわかる人間として、乳がん患者会を立ち上げ活動してきた。マンモグラフィ導入のための署名活動を展開し、おかげで全国に250台のマンモ搭載の検診車が配備され、広島県にも二台の検診車が新たに配備された。またがん患者団体支援機構の理事として、がん患者大集会の開催や、全国の患者会と手をつなぎあって、がん専門医の育成、未承認薬問題、がん情報センターの設置などについて要望するなどの活動をしている。広島県病院に臨床腫瘍科が設置され、国立がんセンターに研修に行くことになっている。四月から、セカンドオビニオンが保険で認められるようになったので、遠慮しないで、主治医に言っていい。がんになったら、孤立しないで、家族や友人とのつながりを大事にして、賢い患者になって患者会などを利用して情報を集めて、もし再発しても最後まであきらめないでほしい。



中村ブレイス 中村俊郎社長の講演 『空想の翼で駆けて』

中村さんは昭和23年2月20日生まれで、大ファンの長嶋茂雄さんと同じ誕生日です。さらに、ねずみ年で、B型で、末っ子で、助役の息子であるという多数の共通点があります。
生まれは島根県大田市大森町で、大森町は500人弱の小さな町ですが、石見銀山で有名で、現在世界遺産に登録する手続きをしています。中村さんは島根県の教育委員長として、世界遺産に携わる仕事をしています。このピンクリボンキャンペーンの日は、ちょうどその会議が島根県であるはずでしたが、その大役を置いて、このキャンペーンに参加して下さいました。
18歳の時に、京都の義肢装具の会社に勤めました。そして、23歳の時には短大の通信教育を受けて、アメリカに留学して勉強したいと思い始めました。その事を両親に話すと、「それはとても良いことだ。たとえお金がなくても自分で作って行けば良いではないか。」と励まされたそうです。
いよいよサンフランシスコに単身で渡り、誰も知る人がない所で、ある会社の副社長に出会いました。中村さんの一生懸命の気持ちが通じたのか、その方があちこちへ紹介をする為の名刺をくれたそうです。そして、アメリカの工場で初めて人工乳房に出会いました。そのときに、いつか日本の女性の為に、自分がこの人工乳房を作りたいと思ったと、打ち明けられました。夜は英会話学校へ通い、一生懸命努力していたその矢先、交通事故に遭ってしまいました。気がついた時にはなんと霊安室に寝かされていたのでした。その時、自分は命が助かった事に感謝して、「自分を殺さないでくれてありがとう。」と思ったそうです。
26歳の時に、大森町へ帰り、両親の家の傍の納屋を改造し、一人で中村ブレイスを立ち上げました。お客は誰一人なく、周りは「いつ夜逃げするだろうか。」と見守っていたそうです。ある日、叔父さんが「コルセットを作ってくれ。」と頼みに来ました。作成したコルセットはとても良く合い、叔父さんは軽くて使い易いものを作ってくれたと喜んで帰って行かれました。これが唯一の売り上げでした。その事を父親に話すと、「1月に1万円の売り上げがあれば、2月には2倍にして、3月には3倍にすれば良いのではないか。」と言われました。一人一人のお客さんを大事にして、一つずつ積み上げていけば良いと思い、父親の励ましを心に頑張っていきました。
そして、ある青年を初の従業員として雇うことになりました。しかし、その青年は、初日に11時に会社へ来て、15分後には「疲れた。」と帰って行きました。翌日には30分、その次は休んで、その次の日は1時間働く、という状況でした。周りは反対しましたが、中村社長は最初に来てくれたこの青年を育てなかったら、これからも人を育てることができないだろうと思い、辛抱強く、彼が仕事をするのを待ちました。結局、通常の8時間勤務になるまで、7年かかったそうです。
そして、その青年がある時、京都の展示会に行った時にシリコンの灰皿を土産に持って帰ったことから、それをヒントにシリコンの足底板を作って特許を取りました。この足底板は今でも中村ブレイスの中心製品で、これによって日本や世界で売り上げを伸ばしています。
その後、シリコンで人工乳房を作ることになりました。人工乳房は「vivifyビビファイ」と言い、vividビビット(生き生きとした)に由来して、この人工乳房をつけた患者さんが再び生き生きとして生活できるようにとの願いが込められています。この人工乳房を待ってくれている人がいる限り、この仕事を続けていこうと思っています。 
(文責  浜中和子)
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