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2001年 1月
交流会での体験発表より
「リンパ浮腫の手術を受けて」 K.Hさん 
 31年前右乳癌で手術をした。5年前に左乳癌も手術した。6年前にマッサージ器で低温やけどをして手術してからリンパ浮腫になった。スリーブ、メドマー、エスベリベン内服で治療していたが治らなかった。世羅中央病院で手術ができると聞いて9月29日、全身麻酔で5時間の手術を受けた。リンパ管が見つかりにくく難しかったそうである。術後発熱があり抗生物質を点滴して良くなった。もともと右腕は5cmくらい大きかったが2cmは小さくなった。でも仕事をすると又腫れてくる。その後交感神経の神経のブロックをするようにすすめられている。リンパ浮腫があると肩凝りも頭痛もおこり不自由であるので、乳癌の術後のケアーが大事であると思う。
「乳癌を乗り越えて思うこと」 S.Mさん
 H8年6月銀婚式の前日入浴時に胸にしこりを発見し、すぐ癌だと思った。広大原医研外科へ入院し早期発見早期治療で手術を受けた。その日から癌人生の始まりだった。体は癌でも心まで癌には侵されないぞと思った。家族の支えがありここまでこれた。お寺なので人の死に接してきたがそれまでは三人称の死であったが、初めて一人称の死として死を認識した。それまでは毎朝仏様に「今日一日皆が元気でありますように」と拝んできたが、「今日も目がさめることができました」と感謝の思いに変わった。二宮尊徳の「夜があけたら日の暮れることを忘るるなかれ。人生まれたならば死ぬることを忘るるなかれ。」を心に、太陽が沈むまで照らし続けるように自分も最後まで輝いていたい。人の為になることをしたい(宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のように)。子供が4人いるが誕生日のプレゼントの替わりに誕生の時の話をすることにしたところ、それからは子供からプレゼントをしてくれるようになった。子供に家事を分担させ今では役に立っている。天寿は命の長短ではなく、どのように命を使ったかである。自分もその意味で天寿を全うしたい。
「リンパ浮腫の手術を受けて」 H.Iさん
 5月9日中国新聞に記事が出ていたとY.Yさんに教えてもらい、世羅中央病院を受診した。子宮癌の後足が腫れた人が多く乳癌の人は意外と少ないといわれた。自分は乳癌で4人目の患者で、3人目の人はすごく良くなって帰って行った。手術はやはり5時間くらいかかり大き目の静脈にリンパ管を4本つないでもらった。それまでは痛くて困っていたが、術後みるみる腫れも痛みもひいた。これまでの脂肪がついて脂肪腫れが残っているのでスリーブを1年することになっている。その後山で転んで足を骨折して、手をよく使ったので少し腫れてしまった。手術によって手首は23cmが18cmに、前腕は30.5cmが25cmに、上腕は36cmが31cmになった。手術が成功して喜んでいます。
「たとえ食べれなくても」 A.Tさん
 H4年乳癌と告知をされ頭の中が真っ白になり夫や子供をどうしようかと思った。その時は自分の人生もこれで最後だと思ったが、思ったより小さく手術をしてもらえた。間もなくのぞみの会ができていろいろ勉強し、薬をきちんと飲むのが大事だと思い、抗癌剤を年間内服した。3年後子宮筋腫になり、子宮と卵巣を手術したがその時は苦しくなかった。5年後膵腫大が発見され、膵管造影や機能検査で25%の機能しかないと言われた。食事療法をしているが繊維質はダメで食べると痛くなる。何をたべたらいいか食べる物がなく、お米でお腹を膨らませている。
 今はとりあえず生きていればいいと思っている。病気になり悪いことばかりではなく、友人に恵まれたし、気持ちが優しくなった。これから恩返しをしたい。生きていることに感謝したい。これからも病気に追い越されないで頑張って行こうと思っています。
「私の転医体験」 T.Yさん
 H10年5月右胸から出血しX市民病院を受診し、検査の結果乳癌と告知され、全摘術と放射線治療をするといわれた。その時は自分が全く無知だったので医者にすべてお任せしますという気持ちだった。5月17日手術を受け、リンパ節の4/15に移転があったといわれ、抗ガン剤(CEF)を2クールとリュープリン注射をすることになった。入院中左胸にもしこりがあるのを発見し主治医のA先生に訴えたが骨の一部だと言われた。放射線治療の途中でベッドがないので退院してくれといわれ7月18日退院した。外来で抗ガン剤の点滴をした後頭がフラフラしたのでそのせいかと聞くと「点滴をしたのか。カルテには書いてないけど」と言われビックリした。秋に左胸の異常を数回訴えたが取り合ってもらえなかった。H11年3月5日どうしてもおかしいと思い診察を受けたところ、A先生は「なんでこんなになるまで放っておいたのか」と言い、左胸も全摘するように言われた。大変ショックを受けセカンドピニオンを求めようと決心し、浜中先生に相談した。以前もらったパンフレットがとても良かったので、広島市民病院に紹介状を書いてもらったがカルテやレントゲンなどは持たしてもらえなかった。
 広島市民病院の檜垣先生は患者の身になってくれるいい先生だった。左胸の生検手術を受けたが、乳輪に沿って皮膚を切りガンの周囲を3cm離して取り、その日のうちに帰宅できた。先生が「すぐに全摘手術と決めるのではなく、女性にとっては一生のことなのでしっかり検査をしてから治療方針を決めます。」と言われ、これが乳癌手術のあるべき姿だと感銘を受けた。組織の端には癌はなく全摘術はしなくてすんだ。放射線療法は地元のB病院へ紹介してもらい、科学療法(CMF療法)もB病院で受けている。
 左胸を残させてもらい本当に喜んでいる。昨年は友人と温泉旅行へ行くことができた。皆もどうしても疑問があるときはぜひセカンドピニオンを受けて欲しい。
「再発転移を乗り越え、明るく楽しく笑顔で生きたい!」 I.Kさん
 5年前(40才)乳癌になり、この2年間転移再発を繰り返してきた。この間会の皆が励ましてくれて嬉しかった。初めて例会へ出席した時は皆が明るくてびっくりしたが、家ではどうして自分が癌になったのだろうと思い泣いていた。しかし入院して主治医の先生に出会い、毎日顔を見せてくれ、毎日質問に答えてくれたので、この先生を信じて頑張ろうと思えるようになった。
 術後生まれ変わった気持ちになり、生きていることを皆に感謝し、今を大切にしようと思い、試練を乗り越えることができた自分に自信がわいた。退院後自分のしたいことをしようと思い次のようなことをした。
1)リハビリとして浜田省吾のCDに合わせて踊った。彼のコンサートに行きファンクラブにも入った。
2)2年間広島のパン作りの学校へ通い講師の免許を取った。
3)英語の勉強を再開し英検2級に合格した。
4)パソコンでe-mailをしてオランダに親友ができた。
 しかし抗ガン剤を3年でやめたところ局所再発し、手術と放射線治療を受けた。その後放射線性肺炎になりステロイドを1年間内服した。さらに肺と肝臓に転移が多数見つかり、3回目の入院となり10ヶ月間抗ガン剤の点滴をした。H12年9月の検査で転移の像は0になったが、自分はガンが0になる時は私が死ぬときだと思っている。ガンは私自身の細胞であるから一緒に生きていこうと思っている。だから私にとって今がとても大切である。11月に大学1年の長男とアメリカへ行ってきた。息子と一緒に旅行できたことに感動した。くじけては立ち上がりこの5年間頑張ってきた。家族に感謝しこれからも明るく楽しく笑顔で生きたい。
 最後に皆に玄米食をおすすめしたい。自分は玄米食と玄米パンで元気になれたと思います。

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