講座 『シルクロードの謎』
【第4回 ヒッタイトの鉄】
 トルコでの鉄器文化を研究されている中近東文化センターの大村幸弘さんの研究成果をもとに、ヒッタイトの鉄についてお話ししましょう。  大村さんは、『鉄を生みだした帝国』(NHKブックス)という著書のなかで、鉄を生みだしたのはヒッタイト族であると言っています。彼らがオリエントで初めて製鉄の技術をマスターしたことは、学説的にも肯定されているところです。そのヒッタイト族は製鉄技術を独占し、外部に洩れないようにしていましたから、それが国外に広まったのはヒッタイト帝国が滅びた紀元前1200年以降のことです。
 では、それ以前にヒッタイト帝国が鉄をどこで作っていたのかを考えてみたとき、そのヒントとして粘土板文書のなかにしばしば出てくるタウルス山脈の南側、シリアの国境近くにあるキズワトナという地名に注目する必要があります。しかし、大村さんは、キズワトナがシリアとの国境近くにあるとは考えにくいと言っています。なぜなら、そこはまさにエジプトとの攻防の地であり、そんなところに製鉄地があるのはおかしいというのです。彼はトルコでの発掘体験から、製鉄地はヒッタイト帝国本丸近くのどこかにあったはずであると考えました。
ヒッタイト帝国時代のオリエント
(出典:世界歴史の旅 トルコ・山川出版社より)
    
 トルコのアナトリア高原中央部を赤い河という意味のクズルウルマック河が黒海へ向かって弧を描いて流れていますが、ヒッタイトの都ボアズキョイ(古代名ハットウシャ)はその弧の内側にあります。ですから、製鉄地もそのボアズキョイの近くのどこかにあったのではないかと考えました。そこで、ヒッタイトの都で出土した粘土板のボアズキョイ文書に「アリンナ」というの地名が出てくることに着目し、そのアリンナの町を探し当てれば、そこが製鉄地なのではないかと推測しました。さらに、「アリンナの太陽神」という表現でも出てくることから、そこには太陽神のための神殿があったはずであり、製鉄地は神殿を伴っていたに違いないと考えたのです。

 ヒッタイト帝国の都・ボアズキョイ遺跡

ボアズキョイ文書
(出典:鉄を生みだした帝国・NHKブックスより)
   
 また、王様がそこでマツリゴトを行うために、「アリンナによく出かけ、翌日に帰った」という記録があることから、そうであれば行動範囲は1日行程内であると考え、候補地を30〜50km内にしぼってみました。つまり、ヒッタイトの都であるボアズキョイから50km以内で、なおかつ神殿のあるところ、そこがアリンナであると考えたのです。その手がかりとなったのは粘土板のボアズキョイ文書に、「我が祖父のアリンナの太陽神に黄金のスタンダードがあった」と記されていたことです。
ボアズキョイから30〜50・の範囲
(出典:鉄を生みだした帝国・NHKブックスより)

アラジャホユック遺跡
 そのスタンダードはどのように使われたものかよくわからないけれど、トルコの首都アンカラのアナトリア文明博物館にはアラジャホユック出土のスタンダードが展示されてあり、そのアラジャホユックはボアズキョイから北東に30km行ったところであることを考えあわせ、さらに、「アリンナの太陽神のスタンダードを自分たちのために作る」、「アリンナの町の鍛冶師たち…」といった粘土板の記載を根拠に、アリンナが製鉄地であり、アリンナはアラジャホユックであると推察したのです。
 もう一つ大切なことは、紀元前1300〜1250年頃にかけて、ヒッタイト帝国の王ハットゥシリ3世が、エジプトの王ラムセス2世から手紙をもらい、返事を書いていることです。それは「まだ作業を行っていないので、出来たら送りましょう。今は短剣だけを送ります」という内容のものでした。これはヒッタイトでしか鉄が作られていない証拠となるものです。
 では、この製鉄地がどこかを粘土板文書から考えてみると、「アリンナに近づいたとき、王は手を洗うために水飲み場に入って行った」という記載がみつかりました。そこで、今までのところをおさらいしてみると、1日で行ける行程で、スタンダードが沢山あり、神殿のあるところ、それはアラジャホユックしかないと断定したのです。こうして大村さんはヒッタイトの製鉄地を特定したのですが、その考え方は強引で大胆なものでした。ですから、それだけでは頷かない人もいました。そういう人たちは、「鉄を作っていたことを外部に洩れるような書き方はしないのではないか、また、むしろ製鉄地をある程度誇りにした書き方をするのではないか」と言っています。なぜならば、「良質の鉄はキズワトナの私の倉庫できらしております」という記載は、鉄がどこにあるのかを明らかにするものですし、製鉄を秘密にしている者が、シリアに近いキズワトナにあるとか、今は時期ではないとかを、よその国の王様に明らかにするのは秘密ではなく、誇示したものであったとも思われるからです。果たしてヒッタイトが秘密にしていたかどうかは、もう一度原点に返って見直してみる必要はあるでしょう。
 しかし、大村さんに異論を唱える人たちも、アラジャホユックが製鉄地であったことは否定していません。なぜかと言えば、スタンダードはアラジャホユックから一番多く発見されていますし、製鉄に伴ってできる鉄滓も出土しているからです。ですから鉄がここで作られていたことは間違いないのです。
 次に、粘土板に「水飲み場で手を洗った」という記述があります。現在水飲み場はほかの場所に移っていますが、元々はアラジャホユックの門のところにあったことがわかりましたので、アラジャホユックがアリンナの町であることは間違いないと、大村さんは言っています。古くからヒッタイトの鉄を研究している人も、大村さんの説を大筋では認めているところです。


現在の水飲み場

アラジャホユック出土の鉄剣
 では、アラジャホユックがなぜ鉄の産地かですが、アナトリア文明博物館にアラジャホユック出土の鉄剣やピンなどが展示されていることがヒントです。そのピンは何で作られていたかというと鉄とニッケルです。つまり隕鉄を使ったということです。技術的には先住民のプロトヒッタイトがもっていたものを、ヒッタイトがその技術を利用したものと言われていますが、紀元前4000〜3000年紀に隕鉄を使って作られていたということがピンによってわかったのです。そこでアラジャホユックが古来製鉄地であったと推定できるのです。ところで、鉄剣の方は隕鉄なのでしょうか、鉄鉱石なのでしょうか。以前は隕鉄で作られたものと言われていましたが、鉄鉱石の可能性もあります。アナトリア文明博物館にあるアラジャホユックの鉄剣は、紀元前2300年頃の青銅器時代のもの、つまり早い時期のものと言えます。それゆえにアラジャホユックが最古の製鉄地の一つであったと言えるでしょう。
 そこに着目して、大村さんは推論したのですが、ただ、これだけの要件があったのに、また、これを追求した人も多くいたでしょうに、なぜアラジャホユックがわからなかったのでしょう。それはアリンナの町が特定できなかったからです。しかし、それも不思議と言えば不思議です。ということは、それぐらいヒッタイトについて追究する人が少なかったということなのかもしれません。鉄はヒッタイト帝国が生み出したものですが、それを探っていくには考古学調査と、そこから発見される粘土板文書などを拠り所にすることが基本と言えます。

     
      鉄剣が出土したK墓      
 大村さんは強運の持ち主と言えるでしょうが、西アジアでの発掘調査には大胆な推測も必要であるということです。現在、オリエントの地ではトルコのほかに、シリアを筑波大学や古代オリエント博物館、エジプトを早稲田大学などが考古学調査を行っていますが、そこには大胆さと、もう一つは日本の繊細な発掘技術が求められています。今でこそイギリスやドイツも考え方が改められて、表土から徐々に丁寧に掘り下げていっていますが、その手本となったのは、日本の繊細で真摯な調査方法だったのです。現在では西アジアの多くの国はあまり外国の調査隊を受け入れず、自国で調査をやるのが原則となっていますが、そうしたなかで日本隊による発掘調査が認められているのは、こうした細かい調査方法で実績を作ってきたからなのです。大村さんは、こうした基本に忠実に、現在もトルコのカマン・カレホユック遺跡で発掘調査を行っていますが、それはアナトリア考古学における鉄の解明に貢献するもので、大きな成果を期待したいところです。
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