講座 『シルクロードの謎』
【第6回 ラピス・ラズリの道】
 シルクロードの交易品のなかで最も珍重されたものの1つに宝石・貴石があります。ラピス・ラズリはその貴石に属するものです。
宝石・貴石が珍重されたのは,輝きや美しさはもちろんですが,非常に小さくて軽かったことも理由にあげられます。小さくて無限の価値があるために重要な交易品の1つだったのです。
 ラピス・ラズリは,原石自体にもちろん装飾品としての価値はありません。玉磨かざれば光なしのことわざのように,磨き上げて初めて美しいものになり,それを金や銀などで飾ることによって初めて宝飾品となるのです。その金や銀などの貴金属に細かい加工を施す技術は西アジアに始まり,それが西はエジプト,ギリシア,ローマ,東は中央アジア,中国,朝鮮,日本に伝えられて来ました。

ラピス・ラズリの原石(アフガニスタン産)
 日本ではその象徴的なものが正倉院御物にある紺玉帯と呼ばれるラピス・ラズリのベルトといえるでしょう。ラピス・ラズリが中国にもたらされたということは文献にも記されています。
ただ,中国ではエジプトやメソポタミアとは違い,基本的には玉の方が珍重されたので,詳しい文献が少ないことは否めません。


       正倉院・紺玉帯
 (「正倉院展図録」奈良国立博物館より)

メソポタミア・ウル出土の    
 「スタンダート」のラピス・ラズリ
 ラピス・ラズリの原産地は限られていて,古来アフガニスタンの東北部に位置するバダフシャン地方が主要な産地でした。なかでもアム・ダリアというアラル海に注ぐ大きな河があり,その支流のコクチャ川上流にあるサル・イ・サング鉱山が有名です。産出された原石は,北はコクチャ川からアム・ダリアを通ってソグディアナのサマルカンドやブハラ方面へ,また,南はヒンドゥークシュ山脈を越え,カブールを経てインドやペルシア,メソポタミア方面に運ばれていたのです。
 ラピス・ラズリがなぜメソポタミア方面にもたらされたのかについては,紀元前 500年前後にアケメネス朝ペルシアのダレイオス汾「が,現在のイラク国境近くにあるスーサに宮殿を造るため,ラピス・ラズリを運んだことが碑文に刻まれています。そのラピス・ラズリはすべてバダフシャン地方からのものです。また,紀元1世紀に書かれた『エリュトゥラー海案内記』という文献に,インドの貿易港でラピス・ラズリが輸出されていたことが記されています。このラピス・ラズリも当然バダフシャン地方のものと言えるでしょう。


サル・イ・サング鉱山
(「ラピスラズリの路」       
     古代オリエント博物館より)
 こうしたことを裏付けるように,バダフシャン産出のものがエジプトやメソポタミアばかりでなく,アフガニスタンやイランをはじめとする中央アジアの遺跡から発見されています。そのうち特に注目を浴びたのが,1966年からイタリア調査隊のM・トスィが発掘調査を開始したシャフリ・ソフタの遺跡です。

イランの遺跡位置図
(「古代ペルシア展」四日市市立博物館より)
 シャフリ・ソフタはガズニやカンダハルを通る南ルートにあたるのですが,ここからラピス・ラズリの原石の塊と装飾品に加工するための道具が大量に発見されたことにより,ここがラピス・ラズリの一大加工場だったことがわかりました。また,カーネリアン(紅玉髄)やトルコ石などの原石も多数出土しているので,ラピス・ラズリだけでなく,その他の貴石の加工もなされていたこともわかりました。シャフリ・ソフタはイラン国内ですが,アフガニスタンとの国境近くにあります。アフガニスタンの南部には東北から西南に向かってヘルマンド川が流れており,その下流域をスィースタン(バルーチスタン)地方と呼んでいます。この地方は現在アフガニスタンとイランとに二分されています。シャフリ・ソフタは,そのイラン側のシースタン地方にある城壁に囲まれた都市遺跡です。遺跡からは50数基の窯跡なども発見されたことから貴石だけでなく,土器の一大加工場であったこともわかりました。
 次に,イギリス系イラン人のC・ランベルク・ガズロフスキーがシャフリ・ソフタの南にあるテペ・ヤフヤーの発掘を行いました。ここは紀元前約4000年から集落のあったところですが,ここでもラピス・ラズリの加工されていました。スーサは紀元前3000年代のエラム国ですが,この国と結び付きが強いということは位置関係からも理解できます。スーサはラピス・ラズリが必要なとき,シャフリ・ソフタやテペ・ヤフヤーで加工されたものを利用したことが,この2つの遺跡の考古学調査からわかってきたのです。
シャフリ・ソフタ遺跡
(「古代ペルシア展」四日市市立博物館より)
 次に北ルートですが,カスピ海の東南端に石材の集積地だったテペ・ヒッサールがあり,ここでもラピス・ラズリの塊,ビーズをつくるドリル,未完成品などが発見されています。テペ・ヒッサールもシャフリ・ソフタやテペ・ヤフヤーと同様,加工職人がいたことは間違いありません。ここで加工されたものはメソポタミアの方面で取引され,さらにシリアやエジプトなどにも運ばれていったと考えられます。

 ところで,従来ラピス・ラズリの道は今述べた南ルートと北ルートの2つが考えられていましたが,1972年以降のアラビア半島における考古学調査により,テペ・ヤフヤーをさらに南下してペルシア湾に出て,そこから海上ルートにより西はメソポタミアやエジプト,東はインダス川流域の方に運ばれたルートのあることがわかってきました。最近,このアラビア半島が非常に注目されています。
 
ペルシア湾・オマーン湾周辺の地図(「西南アジア」昭文社より)
 テペ・ヤフヤーからアラビア半島のオマーン半島へは直線距離で 約300Hですが,そのオマーン半島を中心にバーレーン,カタールの遺跡が,近年,外国の調査隊によって調査が進められています。遺跡からはメソポタミアで使われていた土器やいろいろな貴石も出土しており,なかでもラピス・ラズリを例にとると,海上を使ってホルムズ海峡へ出て,西と東に向かうルート,つまりメソポタミア文明とインダス文明とを取り持つ仲介的な役割を果たすものがいたことがわかってきました。したがって,当時は陸上だけでなく,海上交易も盛んに行われており,そこには文明と称すべく大きな活動をしていた民族のいたことが段々と明らかになってきたのです。今後の発掘調査と研究の成果から,ラピス・ラズリの道がもっと明確なものになるだろうと思われます。

 次に東方に目を向け,中国にラピス・ラズリがどのような形で伝来したかを見てみましょう。ラピス・ラズリに関しては中国の書物にも見られ,また,早くから装飾品として用いられていました。1969年に現在の江蘇省の蘇州からいろいろな宝石がちりばめられた硯箱が発見されましたが,そこにラピス・ラズリが使われています。硯箱は重さ約 3.5kgの豪奢なもので,現在南京博物館に保管されています。ラピス・ラズリが使用された中国の傑作品の一つで,後漢時代(110年代)の明帝の墓から発見されたものです。

敦煌莫高窟第321窟飛天図
(「シルクロード」日本放送出版協会より)
 それから,莫高窟の 321窟の宝雨経変図に描かれた青は非常に美しいものであると中国の学者は言っています。そして,その顔料を分析してみるとラピス・ラズリであることがわかりました。ラピス・ラズリが多く使われている理由の1つに,敦煌が国際貿易都市としての機能を持っていたことがあげられます。ラピス・ラズリが大量に使われたのは隋唐時代ですが,のちの西夏時代になると,これに代わって岩碌青という違った岩石が使われるようになります。中国のラピス・ラズリは,バダフシャン地方のものがパミール高原を越えて東トルキスタン即ち西域地方に伝わり,そこからさらに中原地方へもたらされたものと考えられます。そうすると,バダフシャンと中国とを結ぶルートも,ラピス・ラズリの道として重要な交易路といえます。
 このように見てくると,ラピス・ラズリには中央アジアのバダフシャン地方を中心にアジアの西と東を1本に結ぶラピス・ラズリの道があったと言えます。
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