水面に顔を出し、ゆっくりと息を吸い込んで、水の精ヒトラは、また水中へ姿を消した。
昔はこうじゃなかった。水底の大きな岩に座ってため息をつく。水の精が、空気を吸わなければならないなんて…。
10年前、まだ子供だったころは、何日潜っていても平気だった。母親に「人間に姿を見られるといけないから、絶対に水の上に顔を出しては駄目よ。水の精は、水の中で生きるものなんだから」と教えられたものだ。
その母親も、5年前に天に帰っていった。死にかかっていたこの池をよみがえらせるために、自らの命を捧げたのだった。それからはずっと、ヒトラが一人でここを守っている。
彼女が生まれたころ、それはちょうど20年前のことだが、この池は、美しく澄んだ水をたたえていた。魚や小さな生き物たちもたくさんいた。山の中の小さな池は、人が来ることもめったにない、静かな場所だった…。
いつのころからだろうか、辺りの様子が変わり始めたのは。山は崩され、次々と家が建っていった。そして、そこから流れ出る水が、池を少しずつ蝕んでいったのだ。
ヒトラの母親の命で、1度はよみがえったものの、今はもう、見る影もない。魚たちは次から次へと死に、石を投げ込むと、おかしな泡まで立つことがあった。
あの事件がなくても、ここはいずれ死んでしまう。涙を浮かべて、ヒトラは再び空気を吸うために浮き上がった。
あの事件。それは半年前の出来事だった。一人の少女が、誤ってこの池に落ち、溺れた。そのときヒトラは、迷ったあげく、彼女を助けてやった。
しかし、妖精は決して人間に姿を見せてはならないというおきてがあった。もし見られたら、自分が消えるか、相手を消すか。ヒトラはしばらく、少女の顔を見つめて考えた。そして彼女は、目を閉じたまま、魔法の杖を振った。永遠の眠り。ヒトラには、少女を死なせることなどできなかった。
妖精はもともと優しいものだ。悪魔とは違う。彼女はそう思った。そして、自分の母親たちに、そんなおきてを作らせた人間のおろかさを嘆いた。
科学の進んだ現代。もし、誰かに見られでもしたら、たちまち大騒ぎになり、下手をすれば捕らえられて研究材料にされてしまう。生き物を愛し、自然の中のいたるところに生きてきた妖精たちは、その現実の中で、厳しいおきてを作らざるをえなかったのだ。
池で子供が溺れて、植物状態になったというニュースは、小さな町をあっという間に駆け巡った。そしてとうとう、池の埋め立てが決まってしまったのだった。
「ヒトラ、こんにちは」
弱弱しい声に顔をあげると、1匹の大きな鯉がいた。
「こんにちは。具合はどう?」
「よくないよ。昨日から何も食べられなくてね。まあ、明日にはここも埋められるんだから、どっちにしたってそれまでの命だがね」
落ち着いた声でそう言うと、鯉はどこかへ泳いでいった。
明日までの命。そのとおりだ。明日になれば、自分も土に埋もれ、死んでいく運命。
妖精なのだから、空を飛んで逃げることもできる。しかし、ヒトラには生まれ育った池を捨てる気などなかった。
その夜、あの鯉は死んだ。彼が、この池の最後の魚だった。
深い悲しみに沈みながら眠りについたヒトラは、母親の夢を見た。
「明日の朝、夜が明けたらすぐにここを離れなさい。貴方には、もっと大きな仕事が残っているわ」
目が覚めたとき、彼女の気持ちは変わっていた。
透明な翼を広げて、ゆっくりと空へ舞い上がる。悪い環境にいたせいか、うまく飛べない。彼女はとりあえず、近くの木へ降りた。
そこは病院の庭だった。窓越しに幾つものベッドが見える。彼女はその中に、あの少女を見つけた。かすかに微笑んだまま眠りつづける少女を。
もういい。ヒトラは思った。あの池は無くなり、自分はどこか遠くへ行こうとしている。それなら、少女を目覚めさせてもいいのではないか?彼女は思い切って、手にした杖を振った。
「貴方とは、いずれまた会う日が来るわ」
最後に少女にそう語りかけると、ヒトラは枝を離れた。いつのまにか降り出した雨が、その透き通った翼をぬらしていた。
第2話ダッチ 行くあてがあるわけではない。ただ翼の赴くままに、彼女は飛び続けた。
青い海を越えると、そこはどこまでも続く平原だった。いくら飛んでも同じ景色ばかり。さすがに疲れ果てて、ヒトラは地面へ降りた。
「なんて広いんでしょう。この世界に、山が見えない場所があるなんて知らなかったわ」
彼女は大きく深呼吸した。
すぐそばで、ぱさぱさという音が聞こえたので、ヒトラははっとして空を見上げた。ゆっくりと高度を下げてくる、1羽の鳥が目に飛び込んできた。美しい羽が日差しを受けて輝いている。クジャクだった。
「こんなところに降りて、何をするのかしら。食べるものなんてなさそうなのに」
しかし、鳥は降りてきているのではなかった。
「疲れているんだわ。ああ、落ちてしまう!」
ヒトラは、思わず杖を振った。ふらふらと落下しかけていたクジャクが、再びすうっと浮かんだ。すかさず彼女も空へ舞い上がる。
「君は?」
驚いた様子でクジャクが尋ねた。
「水の精よ。名前はヒトラ。貴方は?」
「ダッチ。人間に追いかけられて逃げてたら、道に迷っちゃったんだ。どこまで行っても森がなくて、もう疲れた」
ヒトラは腕を伸ばし、ダッチと名乗ったその美しいクジャクを抱きしめた。人間に居場所を奪われた仲間がいたことが、うれしくもあり、悲しくもあった。
「一緒に森を探しましょう。自然がたくさん残っている、平和な場所が必ずあるはずだわ」
そう思いたかった。小さな島国の、小さな池で育った自分には、まだ知らない世界がたくさんあるはず。
山並みが見えてきた。ヒトラとダッチは、ほっとため息をつき、まっすぐそこへ向かって飛んでいった。
林の中へ入ると、ダッチは早速食べ物を捜し始めた。季節は秋。真っ赤に色づいた木の実があちこちになっていた。
ヒトラは川の流れに身を沈め、一息ついた。こんなに長い間、水から離れていたことはない。冷たく澄んだ水が、疲れを一気に癒してくれた。
「これからどこへ行けばいいんだろう」
不安がよぎる。
「何かしら」
ふと見ると、水面に自分以外の誰かの影が映っていた。辺りを見回す。だれもいない。再び澄んだ水へ目を移すと、雪をいただく山々と、そこへ向かって飛ぶ自分とダッチの姿が映っていた。
「水鏡…」
彼女はつぶやいた。にごりきった池で暮らし、忘れかけていた魔法。水鏡に映るのは水の精が知りたいと望んだこと。
「この山へ行けば…」
「ヒトラ、助けて!」
突然の声に、慌てて飛び立つと、ダッチが通りがかりの人間に追いまわされているところだった。
「ダッチ!」
彼女はすばやくクジャクを抱きかかえ、姿を消す魔法を使った。人間が首をかしげ、辺りを見回しているのが見える。
「ありがとう、ヒトラ」
ダッチはまだ荒い息のまま言った。
「ねえ、ダッチ、わたしと一緒にきて。これから始まるすばらしいことに、貴方がとても重要な気がするの」
予言といってもいいほど鋭い、妖精の直感だった。ダッチは大きくうなずいた。仲間はみんな殺された。いまさら故郷へ帰る理由など、彼にはなかった。
「行きましょう。わたしたちを待ってる場所がある」
続く