心の翼で


3月12日 ペット

わたしの部屋には、鳥篭が一つ置かれている。中にいるのは、九官鳥のハイディー。去年の6月に我が家にやってきて以来、ずっと一緒に暮らしている。

小さいころから、わたしの周りにはいつも動物がいた。セキセイインコをたくさん飼っていたこともあったし、短い間ではあったが、文鳥も飼った。けれど、同じ部屋で寝起きをともにしたのは、小犬のころのシオラと、今いるハイディーだけだ。

ペットが心を癒してくれるというのは、本当らしい。どんなに落ち込んでいても、ハイディーの「ハイちゃん、かわいいねえ」という声を聞くと、それだけで和んでしまう。どんなにいらいらしていても、シオラに手をなめられると、優しい気持ちになれる。

ときどき、彼らは幸せなのだろうかと思うときがある。シオラは、1日に何度も散歩に連れ出してもらえるし、夜には自由運動もさせてもらえるから、ましなのだろうとは思う。けれど、ハイディーや青ボウシインコのラッキーは、ずっと籠の中に入れられたままだ。

2度ほど、ハイディーを部屋の中で放したことがあるが、飛び回って、窓にぶつかってしまったので、それからは出していない。自由に飛び回りたいのじゃないだろうか。わたしなんかに飼われて、この子は幸せなんだろうか。考え込んでしまう。そして、そういう時は、ハイディーにいつもよりたくさん話し掛ける。彼は日本で生まれたのだから、森を知らないはずだ。だから、これはこれで、そんなものだと思っているだろう。そう思うようにしている。そして、「そんなもの」の中で、少しでも幸せを感じられるようにしてやりたいとも思っている。

昨日、テレビで、密輸される動物たちの特集をやっていた。珍しいカメやワニ、山猫やオランウータンまでいた。わたしは、憤りのあまりに泣いてしまった。

珍しいペットを飼いたいという人の気持ちが、わたしにはよく分からない。珍しい犬種を飼いたいと思うことは、確かにある。現に、我が家のシオラは、ボーダーコリーという、それほどメジャーではない種類だ。けれど、それとこれとは違うと思う。

密輸される動物たちは、もともとは野生で暮らしていた動物たちだ。人に飼われるようにはできていないのだ。擬人化して言えば、彼らは自由を愛している。そんな動物たちを、無理やり捕まえて飼うのだから、いつかは無理が生じてしまうだろう。そして、結局彼らは捨てられてしまうのだ。

人間とは、いったい何だろうか。ペットといわれる動物たちと、わたしたち、いったいどこが違うのだろう?ペットは、心を癒してくれる。それは、わたしたちの動物としての心が、ペットたちと通じ合うからではないだろうか。人間の遺伝子とショウジョウバエの遺伝子は、考えられていたよりも違わなかったそうだ。そんなものだ。人間も、動物だ。

たった一つだけ、ペットといわれる動物たちと、わたしたちが違うところ。それは、人間は、ペットたちの未来を考えてあげることができるということ。せっかく、人にだけ与えられた力なのだ。思い切り使わない手はないだろう。そうして初めて、人はペットを飼う「人間」というものに慣れるのじゃないだろうか。

3月7日 感性について

最近、涙もろくていけない。愛媛丸のニュースは、見るたびに泣いてしまうし、今朝なんか、ギリシア神話を読んで、涙が出そうになった。

わたしはもともと泣き虫だった。それに、なぜか本やテレビの番組に異常に入り込んでしまう性質もある。そのいちばん極端な例が、ドラえもんを見られないこと。いつも失敗ばかりしているのびた君に、すっかり感情移入してしまって、つらくて見ていられなくなってくる。

なぜこんな風になってしまったのかしらと、ときどき考えていた。でも、答えはなかなか出なかった。

結局、思い切り納得できる言葉を与えてくださったのは、わたしが大学で受けた、「ヨーロッパ史B」の先生だった。四苦八苦しながら、どうにかこうにか書き上げたレポートを提出すると、先生はすぐにそれを読み、感想を言ってくださった。そして最後に、「これからも、感性を持ちつづけてください」とおっしゃった。

「感性は諸刃の剣なんですよ」。先生はおっしゃった。「感性の鋭い人は、実はすごく苦しいんだ。世の中には、醜いことが多すぎるから」。そうも言われた。本当の意味を、わたしが理解できているかは分からない。けれど、この言葉は好きだし、何か、謎が解けたような、すっきりした気持ちになれた。

「障害をもって生まれてきた人は、神様に、その代わりになる何かを与えられている」などと、よく聞くことがある。そうかもしれないと思うような話も、たくさん知っている。そして、そんなことを考えれば考えるほど、わたしは寂しくなったものだ。

なぜか、全盲=耳がいいという考えが、世の中(大げさすぎ!)に広まっている気がする。確かに、耳で情報を得るしかないのだから、そうかもしれない。ピアニストや声楽家など、音楽をやっている人も多い。ところが、わたしは慢性中耳炎で、晴眼者の母に聞こえる音も聞こえないことがある。嗅覚も、なぜかほとんど麻痺してしまっている。

わたしは、何を与えられたのだろう?そんな、悔しさのような思いがいつもあった。先輩がピアニストになって、テレビに出たりすると、うらやましくて仕方なかった。

けれど、あの言葉で分かったような気がする。わたしに与えられたのは、鋭い感性だったのかもしれないと。つらいことが、人よりたくさんあるけれど、わたしはそんな自分を、ちょっと誇れるようになった。この「諸刃の剣」を、これからも磨いていきたいと思う。

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