ネットが広げる世界


障害から個性へ  もしわたしがプロフィールに、「生まれつき目が見えない」と書かなかったら、いったい何人の人が、わたしの障害に気づいたでしょうか。ずいぶんシンプルなページだなあと思う人はいるでしょうが、「この人は目が不自由なのかもしれない」と感じる人は、ほとんどいないはずです。それがインターネットだと、わたしは思います。

 みなさんは、障害をもった人と接するとき、どんな気持ちになりますか?どんな人であれ、同じように接しなければならないということは、だれもが分かっていることだと思います。でも、いざ目の前にその人が現れると、とたんにどう接していいのか分からなくなってしまう人が多いのではないでしょうか。たとえば、目の見えない人と話すとき、「見るという言葉を使っては失礼かもしれない」とか、「映像的な話は避けたほうがいいだろう」とか、どうしても考えてしまうのが人情と言うもの。そんなことを気にしているうちに、会話はぎこちなくなってしまいます。

 ところが、これはわたしの場合ですが、目が見えないからといって、そのようなことで傷ついたりはしません。テレビはわたしたち視覚障害者も「見る」と言いますし、映像の話でも、ある程度は言葉で理解し、楽しむことができます。むしろつらいのは、相手がそういう話題に触れないようにしていると気づいたときなのです。親切のつもりでそうしてくれていると分かっていても、自分は特別な人間だと思われていると感じたり、余計な気を使わせてしまう自分が情けなくなったりします。

 このように普段の生活では、どうやっても「目が見えない」ということが前面に出すぎてしまうのです。わたしは初めてで会った人の中で、虹子という一人の大学生として意識される前に、「目の見えない人」という大きな殻に閉じ込められてしまうのです。これこそが障害だと、わたしは思います。確かに、いきなり障害者と会って、戸惑うなと言うほうが無理な話です。福祉などの仕事についていない限り、出会うことはあまり無いはずなのだから。

 では、インターネットはどうでしょう。相手は見えず、文字だけでやり取りする世界です。うまくすれば、性別すら変えることができます。

 初めて掲示板に書き込みをしたとき、他の人へのものと同じ口調でレスが返ってきました。たったそれだけのことがどんなにうれしかったことでしょう。わたしは初めて「目の見えない女の子」ではなく、「虹子」という、総合的な一人の人間として見られたのですから。

 はじめのうちはそれでよかったのですが、だんだん日がたつにつれて、なんとなく寂しくなってきました。髪形を変えたのに、だれにも気づいてもらえなかったときのように。そして、わたしは勇気を出して、自分は目が不自由なのだと書いてみました。とてもどきどきしました。これでわたしは、またもとの「目の見えない人」に戻ってしまうのではないか、と。心配はいりませんでした。わたしは何事もなかったかのように、「虹子」として見られつづけることができました。それどころか、ときどき、わたしの目のことを忘れてしまっている人さえいるのです。

 今、わたしは初めて訪れたサイトで書き込みをするとき、そこの常連さんになりたいという気持ちがあれば、初めから自分の目のことを書くことにしています。ネット上で「障害」は、わたしの個性の一つにすぎなくなったのです。そんじょそこらの人にはない、誇れる個性に。インターネットは、こんな力も持っているのです。

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