(離れるとなると、意外と感慨深いものだな)
誰もいない土曜の午後の教室。
月森は昨日まで自席だった場所に立ち、静かに2−Aの教室を見渡した。
締め切った窓の向こう。遠く聞こえてくるのは、グラウンドにいる運動部の掛け声と、休みの日も練習に出てきている音楽科の生徒が奏でる楽器の音。
静かに目を閉じれば、過ごし慣れた教室のざわめきが聞こえてきそうだ。
月森は明日、日本を発つ。
ヴァイオリンをこれまで以上に学ぶ為ウィーンへと行く。
留学の手続きはすでに済ませているが、今日は恩師に最後の挨拶に来たのだった。
海外への留学は、幼い頃からずっと心に思い描いてきたことだ。
月森自身の希望としては、中学を卒業すると同時に渡欧したかった。
だが様々な事情が重なって、この星奏学院音楽科へ進んだ。
今となって考えれば、その時の選択は自分にとってベストだったと思う。
卓越した才能とサラブレッドと呼ばれるに相応しい血筋、冷たいほどに整った美貌ゆえ、心無い中傷を受けてきたことも多いが、この学院で学んだことは月森にとって大きな糧となっていた。
その最たるものが学内コンクールだった。
ファータの祝福は月森の上にも降り注いでいたのか…。
初めは他のコンクールと変わらないと思っていた。
どんなものでもコンクールと名の付くものは、優勝しなれば意味が無い。
そう思っていた。
けれど……。
初顔合わせの場で、音楽科ばかりの参加者の中に混じった異質の存在。
普通科からの唯一の参加者、日野香穂子。
最初は他の参加者と変わらないと思っていた。
いや、むしろ音楽に対する態度が曖昧で不快に思っていたくらいだ。
しかし彼女はこの学園で初めて月森を月森自身として見てくれたのだ。
『ヴァイオリンってこんな綺麗な音がするんだね』
驚きと興奮で頬を紅潮させて月森に語った彼女の顔が忘れられない。
血筋など関係なく月森自身の音を聴いて、素直な感想を語ったその顔を……。
それからコンクール参加者として同じヴァイオリン奏者として、少しずつ話す機会が増えていって。
月森は彼女に忘れかけていた気持ちを思い出させてもらったのかもしれない…。
そして大切な想いを、彼女がいたからこそ知ることが出来た。
「蓮くん、見っけー!!」
ガラリと教室のドアが開くと同時に聞こえた、元気いっぱいの声。
月森の追憶を邪魔したそれは弾むような足音とともに近づいてきて、驚いて立ち尽くす月森の腕を笑いながら掴んだ。
「蓮くん捕獲完了!」
「…香穂子」
月森は戸惑いを浮かべて、にこにこと笑う恋人を見下ろした。
彼女と共に過ごした日々。
コンクール参加者から友人、そして恋人へ…。
二人の関係は少しずつ変わっていた。
「どうしてここに?」
休みだというのに、きっちり制服を着ている香穂子を月森は不思議そうに見つめた。
その視線を受け、香穂子は照れくさそうに笑った。
「昨日電話で話した時に、蓮くん学校に挨拶に来るって言ってたでしょ?だから私も来てみたの」
「…どうして?」
「んー。蓮くんの最後の制服姿を見たかったからかな?」
「たったそれだけの事で?」
制服姿が見たかったなんて、月森には思いもよらない言葉だ。
香穂子は苦笑を浮かべながら、それだけでもないんだけどね、と小さく呟いた。
2−Aの教室を出て、二人で廊下を歩く。
いつもは音楽科の生徒がいる廊下も、今日は無人だ。
コンクール参加者に選ばれ、リリに魔法のヴァイオリンを半ば強制的に貰うまで、普通科の香穂子はほとんどこの廊下を歩いたことがなかった。
でも今は違う。
練習室に行く時、月森に会いに来る時。
ここは香穂子にとっても、いつの間にか歩き慣れた廊下になっていた。
校舎を出て正門へと足を向ける。
「月森先輩!」
突然、後ろから呼び止められ、月森と香穂子は出てきたばかりの校舎を振り返った。
そこに立っていたのは音楽科の制服を身に纏った女の子。ブルーのタイは一年生の証。
「…何か?」
たった一言で先を促す月森は、どこかぶっきらぼうで冷たい印象を与える。
月森らしいといえばそれまでだけれど、もう少し柔らかく言ってあげればいいのにと香穂子は心の中で苦笑した。
「あの…、これ……」
赤く頬を染めた女の子が、勇気を振り絞って差し出した手に握られていた小さなブーケ。
白と青の花で纏められた清楚なそれは、きっと月森のイメージだろう。
「え?」
「これ、月森先輩に……」
差し出されたものに驚いて固まってる月森の背中を、香穂子がこっそり押す。
(受け取ってあげて)
月森だけに聞こえる小さな声で囁くと、月森はようやくそのブーケに手を伸ばした。
「ありがとう…」
「いえ、あの…、留学されてもこの学院のこと忘れないで下さい!」
「……ああ」
「ウィーンに行っても頑張ってください。失礼します!」
物凄い勢いで頭を下げた女の子は、真っ赤な顔をしたまま踵を返すとばたばたと走り去ってしまった。
まともな返事をする間もなかった月森は、呆然と女生徒が消えていった校舎を見つめていた。
その様子を一歩下がって見ていた香穂子が、かわいいね…と笑顔で呟いた。
「ステキな贈り物を貰ったね、蓮くん」
「香穂子…」
月森の手に収まった小さなブーケ。
渡せるか渡せないかわからないのに、月森の為に用意してくれていた彼女はどれだけ月森を想っているのだろう。
寄せられる想いに鈍い月森は気づいていないようだけれど…。
「あの子、勇気がいっただろうな〜。蓮くん、無愛想なんだもん」
「おい…」
「事実でしょ?」
あまりの言われようだか、反論の余地はない。
月森は無言の抗議の意味も込めて、深い溜息を吐いた。
でも香穂子はそれを気にすることなく、月森の手の中にある女生徒の想いが込められたブーケに顔を寄せた。
「いい香り…」
「ああ、そうだな……」
まだ花が綻ぶ春には遠いが、月森の手の中だけ一歩早く色鮮やかな春が来たようだった。
「今日が蓮くんの卒業式だね」
「え?」
「今日はね、蓮くんだけの卒業式だよ。おめでとう、蓮くん」
月森を見つめる香穂子の微笑みはどこまでも優しくて、不意に月森の胸に愛しさと切なさがこみ上げる。
自分はこんなにも愛しい存在を置いて旅立つのだと…。
「香穂子……」
儚げに笑う香穂子になんと言えばいいのか分からない。
戸惑いを浮かべる月森だったが、香穂子はふっと視線を月森の後ろへ向けると何かを見つけたのか、吹っ切るように切なげな笑みをぱっといつもの表情に変えた。
「あ、天羽ちゃんだ!おーい!天羽ちゃーん!!」
どうやら香穂子はカメラ片手に歩く天羽を発見したらしく、ぶんぶんと手を振って天羽を呼んだ。
「お、月森くんと香穂!」
香穂子に呼ばれて気づいた天羽が、二人に向かって手を振り返す。
「天羽ちゃん、写真撮って〜」
「OK!」
「香穂子!」
唐突な香穂子の提案に月森が驚きの声を上げた。
すると香穂子がにっこりと反論を許さない満面の笑みを月森に向けた。
「卒業式に記念写真は付き物でしょ?」
「まさか?」
「そう、ご名答。考えたら蓮くんと一緒に改めて撮ったことないなと思って。コンクールとかコンサートの写真はあるけどね」
「香穂、リクエストは?」
香穂子の求めに応じて早速カメラを構えた天羽が、悪戯っぽくウインクする。
香穂子は月森の腕をぐいっと引っ張って組み、困惑する月森を見上げて言った。
「蓮くんとのツーショット」
「りょーかい!」
「香穂子…」
どうしていいのか分からない月森が眉間に皺を刻んで戸惑っている。
それをファインダー越しに見ていた天羽がおもしろそうに笑っていた。
「月森くん、もっと愛想よくしなよー」
「……無理を言わないでくれ」
天羽の指摘に月森の顔がますます険しくなる。
それを見て、月森と腕を組んでいた香穂子が口元に手を当ててくすくすと笑い出した。
「愛想笑いする蓮くんって考えられない」
天羽も神妙にうんうんと頷いてそれに同意する。
「あー、それは確かに。愛想笑いする時点で月森氏じゃないね」
「……酷い言われようだな」
「事実だもん」
香穂子にきっぱり断言され、月森が深く息を吐く。
その掛け合いをファインダーを通して見ていた天羽が笑いを多分に含んだ口調で月森に注文をつける。
「おーい、月森くん!笑わなくていいからさー、その不機嫌な表情どうにかしてくんない?」
「……悪かったな」
天羽の求めに、月森はほとほと困ったのか渋い顔だ。
香穂子は軽く月森の腕を引っ張って彼の注意を自分に向けるとにっこり微笑んだ。
「無理しなくていいよ。それが蓮くんなんだから」
「香穂子…」
ありのままでいいと言ってくれる香穂子に、月森の口元が柔らかく綻ぶ。
その瞬間に響くシャッター音。
「ねぇ、これ新聞に使っていい?月森氏留学スペシャル」
「ダメー!!」
月森がすかさず却下を食らわそうとしたその一瞬先に、香穂子の声が響く。
するりと月森から腕を解いた香穂子が絶対ダメだからねと天羽に念を押している。
月森自身に断られると思っていた天羽は香穂子の勢いに少し驚きながらも、もったいないなあと笑うだけだった。
「じゃあさ、代わりにインタビューさせてよ」
「今更か?」
「違う違う。月森君が国際コンクールで優勝したら一番に、だよ」
まるで優勝することが決定しているかのような言い回し。
だが月森は腕を組んで軽く頷いた。
「考えておく」
「否定しないところが月森氏だよね。いっそ気持ち良いよ。よし!!いい写真撮れた!これ現像したら月森くんの分も香穂に渡せばいいね?」
「ああ……」
「よろしくね、天羽ちゃん」
「任せといて。じゃ、あたしは陸上部の取材に行くから。香穂、月森くんまたね〜」
「うん、ありがとー!」
天羽はいつものように別れの挨拶を口にし、足早にグラウンドへ向かっていった。
「またね……か」
「蓮くん?」
「いや。なんでもない」
いつも何気なく使っていた挨拶。
でも月森が星奏学院高等部に登校することは二度とない。
それでも天羽はいつもと同じように「またね」と笑った。
その何気ない約束が果たされるのはいつのことだろう…。
「帰ろっか?」
「ああ。送っていこう」
「ありがと」
月森と香穂子は最後だからと特別な何かを語るわけでも無く、いつも下校するように二人で肩を並べて通い慣れた道を歩き始めた。
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