一人で暇だから




 あなたと過ごしたい




 大好きなあなたと……






 カラリ……、とベランダへ続く窓を開けると、ほんの少しだけ冷たさを含んだ爽やかな風が、ふわりと彼女の柔らかな栗色の髪を揺らしていった。
「いい天気だ〜!」
 雨上がりのすっきりと晴れた5月の青空を仰ぎ見て、谷山麻衣は指先を組んだ腕を上げ、思いっきり背を伸ばした。
 足元には、洗われたばかりの衣類が入った洗濯籠。
 この調子では、すぐに日差しが強くなり、汗ばむ陽気になるだろう。その前にやる事をやっておかなければ、日に焼けてしまう。
 麻衣はおまけとばかりに、もう一度軽い伸びをして、ベランダに出ると洗濯物に手を伸ばした。






 久々のバイトの休み。
 そして、カレンダーは日曜日。大学も休み。
 まったくの自由な時間は久々である。
 麻衣は洗濯をしたあと、ここぞとばかりに部屋中を掃除してまわった。
 しかしいつも掃除はしているし、元々物の少ない部屋だ。隅々まで拭きあげても、そんなに時間はかからなかった。
 麻衣が時計に目をむけると、丁度10時を差している。
 麻衣は一休みをしようと、紅茶を淹れる為にキッチンへ足を向けた。





 きちんと清潔に整えられたキッチン。そこにある棚を開け、綺麗に並べられたいくつもの紅茶缶を端から順に眺める。
「う〜ん……、どれを飲もうかな〜」
 一仕事終えた後は、のんびりと……等と考えつつ、2つの缶を取り出した。
 1つはミルクと相性のいいマロンティー。もうひとつは少しくせのあるアールグレイ。
 ヤカンを火にかけた麻衣は、紅茶ポットとティーカップを2つずつ用意した。






 自分の借りているアパートとは雲泥の差があるマンションの一室。
 けれど、使い慣れたキッチン。
 最近では、自分のアパートの部屋よりこちらで過ごす時間の方が多くなっている。
 この部屋の家主は相変わらず書斎にお籠り中。
 どうやら収集したデータを基にした論文のラストスパートらしい。
 オフィスが休みなのもその為だ。
 麻衣が朝起きた時、ベッドの隣に眠った形跡がなかったから、また貫徹かソファーで仮眠を取ったくらいだろう。
 まったく分けてもらいたくらいの集中力である。
 麻衣はお湯が沸く頃を見計らって、ポットを温めていたお湯を捨て茶葉を入れる。
 そこに湧きたてのお湯を注ぎ淹れて……。
 毎日繰り返す、手馴れた作業。
 それでも毎日毎日、おいしく淹れようと丁寧に一つ一つの手順をこなしていく。
 麻衣はひっくり返した砂時計が落ちると、それをカップに注ぎ、アールグレイをお籠り中の家主に運ぶ為お盆に載せた。






 コンコン……。
 お盆片手に閉ざされたドアをノックする。
 返事は無くても気にしない。というか、最初から返事なんて期待していない。
 麻衣はいつものようにドアをそっと開け、中を窺った。
 書斎にしている部屋は、沢山の文献や資料を守る為、外に向かっての窓がない。
 その書斎で、黒衣を纏った白皙の青年が、部屋を覗きこむ麻衣に視線を向ける事無く、よどみないタッチでパソコンのキーボードを叩いていた。
 書斎の壁際に専門書が詰め込まれた本棚が置かれており、それを背にしてデスクに座っている青年は、麻衣が入ってきた方を向いている。
 それなのに、ちらりとさえ視線を上げようとはしない。
 この部屋の家主こと、仕事中のオリヴァー=デイビス博士はいつもそうだ。
 麻衣は相変わらずつれない青年に少し肩をすくめ、すたすたと青年の座るデスクに近づいた。
「ナル、お茶淹れたよ」
「……」
 返事は当然、ない。
 だが、キーボードを打っていた手が伸び、カップを持ち上げたのでしっかりと麻衣の声も姿も認識してはいるのだろう。
 麻衣は部屋の中をキョロキョロと見回す。
 広いデスクの端に、空になった皿とカップ。それは昨夜、麻衣が片手で食べられるようにと置いていったサンドウィッチがのっていたものだ。
 データの分析や研究、論理の構築に夢中になると、寝食を忘れてしまうナルだが、どうやら山は越えたらしい。
 書斎の隅に配されたソファには簡単にたたまれた毛布があるところを見ると、仮眠もとったようだった。
「よしよし……」
 健康的とはいえないが、2、3日前より人間的な生活に戻りつつあるナルに、麻衣が満足そうに頷く。





 麻衣は淹れたての紅茶のカップを口元にもっていく青年をじっと見つめた。
 麻衣よりも白い肌、黒い髪、そして深く透き通った深い黒瞳。すっきりとした顎のラインと筋の通った鼻梁、少し薄めの唇。あまりに整いすぎていて、無表情な出来のいい人形のようだ。





 けれど麻衣は知っている。体温などないように白く整った、黒衣の美青年の体温が意外に高い事を。麻衣自身の体温より少し高いそれを、麻衣は自分の肌で知っている。
 麻衣の視線の先。眼鏡の向こうの理知的な瞳は、ディスプレイを見つめ、時折デスクの上の資料に手を伸ばして必要な箇所を即座に探し出す。
 その所作すべてが流れるようで、麻衣は飽くことなくしばらくナルを見つめていた。






 普通の人であれば、無言でじっと自分を見つめる視線に耐え切れなくなるだろう。
 だが彼は違う。
 麻衣がじーっと見つめていようと、騒いだり暴れたりして仕事の邪魔をしない限り関知しないのである。
 すでに論文はナルの頭の中で出来上がっているのであろう。
 キーボードの音はリズミカルに静かな部屋に響いていた。





「………暇だ」
 ナルを見つめていた麻衣がぽつりと小さく呟く。
 しかし麻衣の前にいる青年は、自分の仕事を嬉々として進めており、まったく相手にしてくれる気配はない。
 それはここしばらく続いている状態だ。何を言っても、何をしようとしても邪魔者扱い。
 もっともナルが仕事をしていなくても、相手にしてくれるかどうかはわからないが……。
 ナルをじっくり見つめていた麻衣はふと何かを思いついたようで、にっこりと悪戯めいた笑いを浮かべると足を踏み出した。





「……………麻衣」
 一瞬、キーボードの音が途切れたと思ったら、今まで一言も口を開かなかった青年から、冷気をはらんだような低い声で名を呼ばれた。
「な〜に〜?」
 でも返事をする麻衣の声は間抜けたもの。
「邪魔だ。退け」
 冷たく一言言い放ち、再び指がキーボードを打ちはじめる。
 その整った指先を見ながら、麻衣はますます腕に力を込めた。
「ヤダ」
「……麻衣」
 呆れと少しの苛立たしさを含んだテノールが静かに麻衣を呼ぶ。
 それでも麻衣はそこから退こうとしない。
 ナルの肩にかかる重さ、そしてナルの胸の前で軽く組まれた細い指……。
 麻衣はナルの背後に立ち、彼の肩を軽く囲うように腕をまわしていたのだった。
「邪魔をするな。僕は忙しい」
「あたしは暇だもん」
「………」
 即座に返ってきた答えに、ナルが深々と溜息を落とす。
 そしておもむろに麻衣の両手首を掴み、自分の胸の前で組まれた指を引き離してしまおうとした。
 しかし……。
「むーっ!!」
 解かれようとする指を力いっぱい組み合わせ、振りほどかれないように渾身の力で麻衣は抵抗した。
 しかも指が離れない事にばかり意識がいって、ますますナルの首を抱きこむような体勢になっていったのだ。
 力の限り抵抗され、しかも首を締めんばかりに抱きついてくる麻衣。
 ナルは麻衣の手を離し、もう一度呆れかえった息を吐きながら後を振り返ろうとした。
「麻……」
 ナルの声が途中で途切れる。
 いや、ナルの声は麻衣に奪われてしまったのだ。





「……いきなり何をする」
「ん?何ってキスじゃん?」
 首を背後の麻衣に向けた瞬間、麻衣がナルを覗き込むように首を傾け軽くそれを触れ合わせたのだ。
 整った美貌、眼鏡越しの深い闇色の双眸を間近から見つめ、麻衣はにっこりと笑う。
「僕は何故突然そういうことをするのか、理由を窺っているのですが?谷山さん?」
 馬鹿丁寧な物言いだが、それだけナル呆れかえっているのだ。仕事の邪魔をされて怒っているともいうが……。
「したかったら。それだけじゃダメ?」
 あっさり、何を聞くんだとばかりに麻衣が言う。
 その答えに、ナルの唇からはこれみよがしの溜息が零れる。
「馬鹿に付き合っている暇は無い」
「なんだよ〜、ナルだって仕事馬鹿じゃんか!!」
「………」
 それに反論する気がないのか、反論出来ないのか、ナルは背中に懐く麻衣を無視して再びパソコンに向かった。
 ディスプレイには、麻衣には読めない横文字の専門用語がびっしりと並んでいる。
 よく目が疲れないよな〜、などと麻衣はぼんやりと考える。
 これ以上相手にするのも馬鹿馬鹿しいと思ったのだろうか、ナルは麻衣の腕を退ける事を諦めているようだ。
 少し肩に負担がかかるが、騒がれて論文の邪魔をされるよりマシだと思ったのかもしれない。
 カタカタと白い指がキーボードを叩く。






「……あとどれくらいで終わるの?」
 ナルの滑らかに動く長い指をぼんやりと見ながら、麻衣が彼の耳元で尋ねる。
「………」
「ねえ…、ナル?」
「…………」
「暴れてやる!!邪魔してやる!!」
 声こそ大きくないが、ナルに麻衣の本気を感じさせるには十分な感情の込められ方。
「……今日中には終わる」
 返事をしないナルに焦れた麻衣の脅しに、ナルが深く深く息を吐く。
 ここで無視をしたら、本当に暴れて邪魔をするのは目に見えている。
 それくらいなら、一言返事をしたほうがいいに決まってるのだ。
「夕飯は一緒に食べられる?」
「……努力する」
「ん〜、じゃ、いいか…」
 一体なにがいいのだろうか。
 ナルには分からない納得をしたようで、麻衣はするりと腕を解いた。
「麻衣」
「終わらなくても夕飯には出てきてね。もう限界だよ?」
「……食事は抜いていないが?」
 抜いていないというか、抜けないようにされている。
 麻衣が片手でも食べられるものを、ナルに押し付けてくるのだ。
 仕事に没頭してしまえば、時間の経過も忘れてしまうナルだが、さすがに時間を惜しんで食事を抜きまくった挙句、麻衣に文句を言われるのは避けたかった。
 というか、麻衣に絡まれたほうがよっぽど時間のロスになるのだ。
 そのくらいなら、麻衣の怒りをかわないように過ごすだけだ。
 もっとも、麻衣自身が邪魔ならプライベートゾーンにも入れなければいいのだが、そこがナルの甘さでもあった。
 押し切られたら溜息を吐きつつも黙認してしまう。
 少なからず煩わされると分かっているのに……。
 それでも、ナルは麻衣だけは切り捨てられなかった。





 麻衣はナルの言葉に、ほんの少し驚いて目を見開き、そのあと微苦笑を洩らした。
「だ〜れ〜が、ナルの栄養状態が限界だって言った?限界なのはあ・た・し!」
 予想外の答えにナルの眉が顰められる。
「麻衣が?」
 麻衣は腰に手を当てて、どうだといわんばかりに頷いた。
「さっき言ったでしょ?暇だって」
「………」
「話相手になってよ」
「今話しているが?そんなに暇なら、誰かのところに行ったらいいだろう。僕を巻き込むな」
 取り付く島もないナルに、麻衣が反論する。
「じゃなくって!一人の食卓って淋しいじゃない。誰もいないならともかく、ナルがいるのに一人でご飯食べないといけないんだよ?……あたし、一人で食べるのあまり好きじゃない」
 最後は呟くようにポツリと言って、麻衣は俯いた。
 母子家庭だった麻衣。たった一人の肉親だった母親を亡くしたあの日から、ずっとひとりで食卓についていた。
 誰も話す相手のいない食卓。テレビが無駄な笑いを撒き散らしても、麻衣の寂しさは拭われるどころか増すばかり。
 それでもひとりだから仕方ないと諦めていた。
 それなのに……。
 近くにナルがいる。とても大切で大好きなナルが。
 一緒の部屋で同じ時間を過ごしているのに、仕事を愛する彼は書斎から出てくる気配さえみせない。
 本国イギリスSPRでのナルの立場をわかっているから、我儘で邪魔をしたくなかった。
 でも……。
 淋しさは募っていく。
 ご飯を作って、ナルの書斎に運んで、自分はひとりで誰も座らない椅子を前にして食卓に着く。
 たまらない孤独を感じる瞬間だった。
 麻衣は小さな胸の痛みを堪え、一瞬伏せた顔に明るい笑顔をのせて顔を上げる。
「だからねっ」
 そんな麻衣をナルはちらりと見、それからまた傍らのデータに手を伸ばした。
「和食がいい」
「えっ?」
 脈絡のないナルの言葉に、麻衣が不思議そうに首を傾げる。
 ナルは無表情のまま、手に取ったデータの紙を捲る。
「ナル?」
「あっさりとした和食がいいと言ったんだ」
「ナル……」
「分かったら出て行け。これ以上邪魔をするな」
 ナルは冷たく麻衣を追い払うように言い放ったが、言われた麻衣の顔にほんわりと笑みが浮かんだ。
「うん!ありがとう、ナル!」
 弾むよう礼を言うと、麻衣は喜びを露わにして書斎を出て行った。
 静けさの戻った空間に、ナルの苦笑と小さな溜息だけが残った。







 一人で暇だから
(一人が淋しいから)




 あなたと過ごしたい
(あなたを感じたい)




 大好きなあなたと……
(大切なあなたを……)
  
 










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