「7月だ〜」
「7月ですねぇ〜」
渋谷サイキックリサーチの調査員と事務員の2人は、紅茶を飲みながらのほほ〜んとつぶやいた。
「もうすぐですねぇ〜」
人好きのする柔らかい笑顔を浮かべつつも、その瞳は何故か底知れぬものを感じさせる眼鏡の青年が、お茶を淹れてくれた小柄な少女に笑う。
「はい、もうすぐです」
「楽しみですね〜」
「………う〜ん、楽しみなんですが、ある意味微妙だなぁ……」
奥歯にものが挟まったような言い方をする少女に、笑顔を絶やさないまま青年が首を傾げる。
「おや?どうしてですか?当日は、お祭り好きな皆さんが集まるのに…」
「うん、それはうれしいんですけどね〜。どうやらその日をはなっから!覚えていないヤツに心当たりがあってさ」
「あぁ…………。それは…」
「いいですよ、安原さん。無理にフォローしなくたって。どーせ、私の誕生日なんてナルにとっては、一瞬でも記憶に残す価値のないものですよーだっ!」
ムカつくっ!!と握り拳で叫べば、ますます空しさが募るばかり。
こうやって安原と話しているのでさえ、所長室に籠っている当人にはまったく聞こえていないのだ。
いや、もし聞こえていたとしても、無駄な事としてすっぱり切り捨てられてしまうだろう。
それが分かっているだけに、安原にもかける言葉がみつからない。
「でも、去年はパーティーを黙認してくれてましたよね」
「ええ、ほんっとうに黙認!所長室から出てきやしなかったよ」
「………」
「騒がしいのが嫌いなのはわかるけどさ、おめでとうの一言も言えないのかっ!あの男はっっ!!」
「……所長ですからね」
安原の一言に、怒りに燃えていた麻衣ががっくりと肩を落とす。
「その言葉ですべて納得できるナルって………。サイッテーッ!!」
「で、どうするんですか」
「はい?」
「ここで一人で文句言ってるのは谷山さんらしくないですよ。今年はどうするんですか?」
「あははははは〜。さすが安原さん。これまではね〜、受身だったから今回は攻めに転じてみようかなっと」
「攻め?」
「はい。地味〜〜〜に自己主張してみます。今年は『特別』ですし!」
「それはいい考えですね〜。『特別』な誕生日に『特別な人からのお祝い』ですか」
いや〜、いいですね〜。青春ですね〜。
と、麻衣とあまり年の変わらない越後屋は、悟りきった笑顔で呟く。
「や、安原さん?なんか老成化がますます……」
「いやだなぁ、谷山さん。それは言わない約束ですよ。ところで、日にちがないですけど大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。あんまり前もって自己主張しまくると、ナルが切れそうだし。適度に頑張ります!!」
「頑張ってください。影ながら応援してますよ」
にこにこ、心底楽しんでいる笑顔で安原は麻衣にエールを送った。
「ナル〜?」
「……」
「ナ〜ル?」
「……」
「ナルナルナルナルナルナ」
「うるさい。連呼するな」
溜息とともに少しだけ苛立たしげなナルの声。
でもそれはいつもの事だから、麻衣は軽く呆れたように肩をすくめただけだった。
「連呼されたくなかったら、返事しなよ」
「………なんだ?」
夕食が終わったナルのマンションのリビング。
いつもどおり、ナルは本を膝に乗せて側にいる麻衣の存在など気にもとめていないようである。
麻衣はソファの下、ナルの足元の床に直接座って紅茶のカップを抱えて彼を見上げた。
「今日から7月だね?」
「……だから?」
「明後日って何の日か知ってる?」
麻衣の質問の意図がつかめず、ナルの秀麗な顔が微かに顰められる。
今日は7月1日。
明後日は7月3日。
別に依頼人が来るとか、論文の締め切りとかでもない。
「…………」
「……やっぱり欠片も記憶にないわけね?」
眉を寄せたまま沈黙してしまったナルに、わかってたけどさ〜、と半ば投げやりに麻衣が呟く。
そしてわざと音を立てて、持っていたティーカップをテーブルに置いた。
「研究馬鹿って分かってるけどさ〜。まっっったく思い出してもらえないのってな〜んか空しいわけ。私としてはっ!」
がうっ!と吠えて、麻衣がナルを睨みつける。
「……」
いきなり麻衣に噛み付かれたナルの眉間の皺は、彼の困惑と共にますます深くなる。
麻衣はナルの表情で、まだ思い出さないかっ!と握り拳を作った。
「自力で思い出すのは、絶対無理!だろうけど!!改めて聞かれたときくらい思い出して欲しいわけよ……。
でも無理だろうな〜。最初から記憶されてないだろうからな〜。
ナルだからな〜」
「回りくどい言い方はよせ。何なんだ一体…」
「7月3日!私がナルに思い出して欲しい事っ!ほんっとうに分かんないの?」
「………」
「言っとくけど、仕事じゃないからねっ!この研究馬鹿!!」
「……………誕生日か?」
長ーい沈黙の後、呆れ果てた深い溜息に混じってナルの薄めの唇から吐き出された「答え」
けれどナルの表情は、一気に不機嫌度を増している。
「……つまらないことって思ってる?」
「…………別に」
押し殺した溜息。そして話は終わったとばかりに、ナルの視線は再び膝の上の本に落とされた。
「あっ、そう。別に気に留めるほどのことじゃないってわけ?ああ、そうっ!!」
ふざけるなっ!と麻衣が怒鳴ろうとした瞬間。
「…結局何が言いたいんだ?」
不機嫌さを滲ませつつも、ナルが心底不思議そうに問い返してきた。
その予想もしないナルの問いに、麻衣の目が点になる。
「へ?」
「僕はお前の誕生日を思い出した。それで何故まだ怒ってるんだ?」
「え……っと?」
「僕が誕生日を忘れてたから怒ってたんじゃないのか?」
「うっ……う〜ん……?」
確かにナルの言うとおりである。
麻衣はナルがまったく麻衣の誕生日を忘れていたのが気に入らなかったし、ムカついていた。
改めて聞いても中々思い出さないから、ますます腹が立った。
で、今は?
麻衣は、うう〜ん、と首を傾げて腕を組んで考え込む。
「……思い出した後の態度?」
「僕に聞くな。じゃあ、どういう態度だったらよかったんだ?」
どういう態度?
ナルがどんな反応を示したら、自分は満足したんだろうか?
………………………………………………。
頭が思考するのを拒否した。
麻衣の顔が何ともいえない表情を浮かべる。
先ほどのリアクション以外を考えようとしたとたん、背筋に悪寒が走ったのだ。
「あ〜、ダメだ。哀しいかな、ナルはナルでしかない……」
「馬鹿か、お前は。当たり前だ」
ぺちり、と額を指先で叩かれ、痛いと声を上げる。
本当は痛くないけれど。
「らんぼーものっ!」
「谷山さんほどではありませんが?」
「なんだとー!」
麻衣が膨れて振り上げた拳が、ナルに振り下ろされることはなかった。
代わりにナルが抱えていた分厚い洋書の上に落とされる。
「麻衣」
麻衣と話しながらも、文字を追っていたナルだが、さすがにページの一部を隠されてしまうとそれも出来なくなる。
柳眉を寄せ、ナルが手をどけろと麻衣を睨む。
その他者を一気に凍らせるような、漆黒の冷たい視線も何のその。
麻衣はナルが持っている洋書を奪い取ると、彼の足に抱きついたのである。
「麻衣っ!」
スキンシップが苦手な博士が、ネコのように纏わりつく恋人を叱り付ける。
だが叱られたはずの麻衣は、満面の笑顔でますますナルにじゃれつく。
大好きな恋人に、沢山の愛しさとほんの少しの嫌がらせを込めて……。
やがて、麻衣の頭上で小さな溜息。
(勝った…)
麻衣は心の中で、ガッツポーズを決めた。
「ナル。明後日、私の誕生日なんだよね」
「それはさっき思い出しただろう?」
「うん。辛うじてナルの記憶の端にはあったみたいだね。それを明後日、また思い出してよ」
「?」
「一言でいいんだ〜。祝って欲しいの。大好きな人、皆に。子供から大人になる節目の誕生日だから、いつもより特別!」
「特別?」
「うん……。保護者がいらなくなるの。やっと自分一人で立てるの。そのお祝い」
いろいろ迷惑かけてるからね〜。後見人さんには。
そう言って、悪戯っぽく舌を出して笑う麻衣。
中学の頃に天涯孤独の身になった麻衣には、後見人という身元保証人がいたのだが、なるべく迷惑を掛けたくなくて早く一人前になりたいと願っていた。
一人でしっかりと地に足をつけて歩いていきたいと………。
ナルはそんな麻衣を静かに見下ろし、そしてその整った指先で柔らかな明るい髪を撫でた。
「お祝い、夕方皆でしてくれるんだって」
「……………オフィスは遊び場じゃないんだがな」
「固いこと言わないの〜」
「常識だと思いますが?谷山さん?」
「休憩時間と思えばいいんだよ。どうせナルは籠っちゃうんでしょ?」
「うるさいのは嫌いだ」
「ナルには期待してないけどさ……」
でもね、と麻衣は自分の髪に触れていたナルの指先に自分の指先を絡めた。
「ナルにも祝って欲しいんだよ?」
「……僕に馬鹿騒ぎに加われと?」
心底嫌そうに顔を顰めたナルを見て、麻衣が声を立てて笑った。
「そんな無理無茶無謀なこと言わないって。かわりに20歳になる時に一緒に居て?」
「……日付が変わる時か?」
「違うよ。私が生まれた時間。私にとっての節目だから、その瞬間を見ていて欲しいんだ」
「あ、そう」
あっさりとしたリアクション。
麻衣の唇がムッと尖る。
「……馬鹿にしたね?思いっきり馬鹿だと思ったでしょう?」
「別に……」
「いーや、絶対思った!いいじゃん、たまには乙女チックでも!付き合えっ!これは命令!!」
びしっ!と命知らずにも、麻衣がナルを指差す。
その礼儀知らずな態度に、ナルは間髪入れずペシッとその手を叩き落とした。
「痛い!」
「無礼者には丁度いい。お前は僕に指図する気か?」
「誕生日なの。私が一番っ!!」
「誰が決めた」
「私が決めたっ!」
どうだっと、つんと顎を上げて開き直る麻衣に、ナルが深々と息を吐く。
「………何時だ」
「え……とね……」
そして告げられた時間に、ナルは再び吐息。
「起きていられるのか?」
「頑張るもんっ!ナルは平気だよね。どうせいつも遅いんだし」
「……オフィスで居眠りするなよ」
「はいは〜い!!気をつけます」
ご機嫌な返事。
だが……
「…………」
「何よ。その思いっきり不審そうな目は」
「別に……。麻衣、お茶」
「了解!約束だよ。ナル!」
抱きついていたナルからパッと離れ、立ち上がってパタパタと足取り軽くキッチンへと向かう麻衣。
そして急に思いついたように、クルリと振り返った。
「?」
「またしばらく同い年だね。ナル」
「…………」
だからどうした、とは言わない。
どうせ聞いたところで、麻衣の思考は分からない事が多いのだから。
ただ……。
麻衣が笑っているのならそれでいい。
麻衣が自身の節目を迎える瞬間に、お互いだけをその瞳に映して過ごす。
それは自分達が思うより、甘美な時間なのかもしれない……。
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