女の子はいつだって夢見てる。
 御伽噺のように、自分だけの王子様が現れると……。





(怖い、気持ち悪い)





 吐き気がする。
 まるで心臓が耳の横にあるように、自分の激しい鼓動が聞こえる。
 望美は震えながら硬直している自分の身体を叱咤して、少しでも位置を変えようとしたが、すし詰め状態の満員電車の中ではそれもままならなかった。
 自分の身体の上を、意思を持っていやらしく蠢く手。
 痴漢だと分かった瞬間、望美の喉は声を出す術を失ってしまった。
 声をあげようとしても、恐怖で喉から先に出ないのだ。
 怖くて、気持ち悪くて、震えが止まらない。






(助けて)





 じわりと涙が浮かぶけれど、声をあげて助けを求めることも、逃げることも出来なかった。
 望美が抵抗できないのをいいことに、後ろから伸ばされた手の動きがますます大胆になる。
 望美は恐怖に慄き、唇を噛み締めて、ぎゅっと目を閉じた。
 滲んだ涙が、頬に一筋零れ落ちる。






(助けて。誰か、私を助けて…)






 望美が乗っているのは快速だから、いくつのも駅を通り過ぎるだけで、いっこうに停車する気配はなかった。
 震える身体を抱きしめて、ただ耐えるだけの時間。
 痴漢の被害にあったら、絶対に突き出してやると思っていたのに、被害者になってみればそんな余裕はなかった。
 ただ身体を触られるだけじゃない、心も体も襲われているのだ。
 声を上げたり抵抗したりしたら、何をされるか分からなくて、怖くて、何も出来ない。
 早く駅に着いてと願うけれど、流れる時間は果てしなく長くて気が遠くなるようだ。






(誰か、誰か…。お願い…)






 突然がたんとカーブで電車が大きく揺れて、車内の乗客の身体も一緒によろめく。
 その弾みだろうか?望美の身体がいささか乱暴に押されて、よろめいた時に出来た僅かな隙間に誰かが割り込んできた。
 無理な割り込みに、望美の周りの乗客がこれみよがしな舌打ちをする。
 しかしそれと同時に、望美に触れていた不埒な手が離れた。





 そして……。






「おはよ。お前が乗ってたのに気づかなかったよ」
 まるで友達に話しかけるように背後から掛けられた声。
 聞き覚えのない声に、望美は震えながら恐る恐る自分の後ろを振り返った。
 そこには赤い髪の男子が、優しく笑って立っていた。






(この人知ってる)
 望美は自分の視界に突然現れた彼を呆然と見上げ、埒のないことを思った。
 彼はこの沿線の学生なら、皆知っていると言っても過言ではないくらい、超有名人。
 この路線を使わなくても、女子高生達はきっとほとんどの人が彼を知っている。
 彼は望美の通う女子高がある駅より二つ先の駅にある、有名な名門進学校の生徒だ。
 一流大学を目指す、真面目な生徒ばかりが通う高校で、彼は外見も行動も異色だった。
 赤い髪と個性的なピアスが似合う人。
 第二ボタンまで外された詰襟の学生服からのぞくのは、シルバーのチョーカー。
 クロムハーツのアクセサリーに負けないくらい、彼自身の個性も輝いていた。
 名前は『藤原ヒノエ』だと、友達に教えてもらった。
 彼の美貌は芸能人よりもレベルが高く、彼女の座を狙っている女の子は多いとの噂だ。
 そして彼自身、女の子が大好きだとも聞いた。
 彼がフリーの期間はほとんどなくて、頻繁に彼女が変わるのでも有名だった。
 だからだろうか?誰とも長続きしないと言われる彼は、元カノとのトラブルも少ないと、彼のファンだと自称する友達が言っていた。
 また元カノの中には、ヒノエと付き合っていたことをステイタスと考える女も少なくないと……。






 そんな人がなぜ?






 望美も毎朝こっそりとヒノエを探す。
 彼は本当に綺麗で格好いいから。
 どこの駅から乗っているのかは知らない。
 ただ、望美よりも先に電車に乗っていて、望美よりも後の駅で降りる。
 満員電車で、彼の姿を探すのは難しいけれど、まるで朝の儀式のように望美は車内を見回すのだ。
 彼を垣間見れたら運がいいような気がして…。
 でも今朝は見つけられなかった。






 じっと彼を見上げたまま動かない望美をどう思ったのか、ヒノエはその整った顔に、ふわりと人好きのする笑顔を浮かべ、少し前かがみになって望美に顔を寄せた。
「もう大丈夫だから」
 望美にだけ聞こえるように、そっと囁かれた言葉。
 望美は驚いて息をのみ、目を見開いた。
 彼は望美が耐え難いほどの嫌な思いをしているのに気づいたのだろうか?
 気づいたからここまで来てくれた?
 望美が立っていた位置から、ヒノエは見えなかった。
 でも、今、彼は望美の後ろでかばうようにして立ってくれている。
「……あ」
「怖かったろ?声は出さなくていいから……。少し我慢してて」
 ヒノエは望美の顔の横に手を付き、なるべく誰とも身体が触れないようにガードしてくれていた。
 望美はほっと安堵の息を吐き、僅かに頷いて静かに顔を俯けた。






 あれほど長く感じた時間が、ヒノエが現れてからは、あっという間。
 望美の学校がある駅のホームに、電車がスピードを落としつつ滑り込んでいく。
 見慣れた改札が見えたところで、望美はヒノエに礼を言おうとして、彼を振り仰いだ。
 しかし運悪くドアが開き、ドアのところに立っていた望美は、降車する人波にバッグをさらわれバランスを崩し、たたらを踏んでホームに降り立った。
 時間に追われ、一気に改札に向かっていく人の波に逆らいきれず、望美の身体はどんどん電車から離れていく。
 それでもこれだけはと、望美は電車を振り返った。
 ホームに鳴り響くベル。うるさいくらいのアナウンス。
 望美は人に押されて前へ進みながらも、首を伸ばして電車の中にヒノエの姿を探した。
 人ごみの向こうにちらりと見えた赤い髪。
 望美はその姿に向かって叫んだ。
「ありがとう!」
 望美の声が届いたのかどうかわからない。
 でも、礼が言いたかった。
 一瞬だけ見えたドアの向こうの彼が、微笑みながら頷いたように感じた。











(終)