バスルームから上半身裸でタオルだけ引っ掛けて出てきたヒノエは、テーブルの上に置かれたリモコンでテレビのスイッチを入れた。
とたんに流れてきたのは朝のワイドショー。専門家でも当事者でもないゲストコメンテーターの分け知り顔な偏った持論が流れてくる。
まるで世間の総論のように語られるそれは、マスコミが作り上げる一方向からの情報に過ぎない。
視聴率を稼ぐため、何かを悪役にして責め立てるそれはすべてが正しい情報なのだろうか?
別の見方をすれば、また別の意見も出てくるのではないだろうか?
嘘と噂と憶測がほんの少しの真実と入り乱れて報道される側に立つヒノエは、いつも不思議に思いながらワイドショーを観る。
濡れた髪を乱暴に拭いていたヒノエは、芸能コーナーへと切り替わったワイドショーに不快げに眉をひそめ、タオルを椅子の背に放り投げるとチャンネルを変えた。
明け方までかかった打ち合せから帰ったばかりのヒノエが観たいのは、事実のみを伝えてくれるニュースだ。
疲れた頭に人の意見まで入れる余裕はない。簡潔に世の中の情勢が知りたいだけ。
ましてや芸能ニュースなんて興味もない。
芸能のトップニュースとして『グリフォン』の相方である弁慶が、熱愛報道で追い掛け回されていてもだ。
落ち着いたアナウンサーの声が、ニュースと各地の表情を伝えてくる。
今朝はこの冬一番の強い寒気の所為で氷点下まで気温が下がったためか、暖房を入れた室内の温度もなかなかあがらない気がする。
ヒノエはソファーに投げ出していたシャツを、風呂上がりの素肌にさらりと羽織った。
これから一眠りして、午後から雑誌の撮影だ。
それが済んだら、スタジオで曲づくりとスケジュールが詰まっている。
ヒノエはミネラルウォーターのペットボトルを傾けながら、現場到着時刻から起床時間を逆算していった。
その時、テーブルに置いていたヒノエの携帯が震えだした。
マナーモードにしていたため、着信音は鳴らない。
昼夜が少しずれているヒノエに、朝っぱらから連絡とは珍しい。
ヒノエは欠伸を噛み殺しつつ、携帯を開いた。
そして届いたメールを見て、ふ…とヒノエ表情が柔らかくほころぶ。
『おはよう、お疲れさま』と始まるメールをくれた相手は、ヒノエの大切な恋人だった。
『おはよう、お疲れさま。まだ寝てるのかなぁ?起こしちゃったらごめんね。今日は成人式です。晴着を着付けてもらったので、せっかくだから写メ送ります。振り袖を着ると、なんだか緊張して背筋が伸びます。少し大人になった気分。』
そのメールに添付された画像には、美しい振袖に身を包み、長い髪をすっきりアップにしてはにかむ望美が写っていた。
「そっか…。望美、成人式か」
二十歳の誕生日は祝ったが、忙しさにかまけて望美の成人式を忘れていた。
だいたい曜日や日にちがよくわからなくなるのだ。
そういえばニュースでも成人式の話題が出ていた気がする。
ヒノエの学年の成人式は去年だったが、彼自身音楽活動をする上で年齢を非公開にしている関係上、改まって何かをしたりはしなかった。
だから余計に頓着がなかったのかもしれない。
しばらく望美からのメールを見つめて考え込んでいたヒノエだが、やがてぽちぽちと携帯のキーを操作し始めた。
「望美!有川くん!久しぶり!!」
「きゃー!久しぶり!!」
いつもと違う装いでも、友達との再会は賑やかなもの。
幼馴染みと一緒に成人式の式典会場に来ていた望美は、中学や高校時代の友達と久々の再会を喜んでいた。
普段の格好よりも自由の利かない振袖姿なのに、それでも飛び跳ねるようにしてはしゃぐ彼女たちを、将臣は自分の男友達と苦笑しながら眺めていた。
「有川くんも久しぶり。やっぱり望美と一緒なんだ?」
高校時代、付き合っているとの噂が常にあったほど仲の良かった望美と将臣。
大学に進んでも相変わらずの二人に、面白がってからかいの声がかかる。
すると必ず将臣が口の端を皮肉気の上げ言うのだ。
「じゃじゃ馬のお守りも大変なんだよ」
と。
でも望美の負けてはいられない。
「血の気の多い将臣くんの手綱を握っとかないといけないのよ。ホント、苦労するわ」
と言い返す。
万事その調子だから、その遠慮のない関係でまた噂が広がっていくのだ。
本人たちは昔から何も変わらない仲なのに……。
「有川くん、写真お願い!」
「へいへい」
おしゃれをした女の子には敵わない。
将臣は言われるまま、並んで写真を一緒に撮ったり、望美と友達の写真を撮るためにシャッターを切ったりと、何気に便利に使われていた。
「将臣くん」
友達と話していた将臣の袖が、ちょいちょいと遠慮がちに引っ張られる。
振り向けば望美がにこにこ笑って立っていた。
その満面の笑みは嫌というほど見覚えがあり、将臣は顔を顰めた。
「なんだよ?」
「ちょっと用事があって抜けるけど、ここで待ってて?」
「………何で?」
「帰りが不便でしょ、将臣くんの車じゃないと」
「…………お前…」
「じゃ、待っててね〜」
望美は将臣の返事も聞かず、さっさと手を振って急ぎ足で新成人の人波に消えていった。
「将臣、お前、春日にアシ扱いされてんのか?」
友達の呆れ顔を見るのももう慣れた。
「……うるせーんだよ、アイツ。ったく……」
将臣はやれやれと肩を落とした。
「浴衣が金魚なら、振袖は錦鯉か?」
車の中から歩道を歩いていく新成人の女性を横目で見ながら、ヒノエはポツリと呟いた。
慣れない足取りで誇らしげに歩く娘たちは、いつもとは違った輝きを放っていた。
真っ白い襟巻き、華やかな振袖、揺れるかんざし。
真っ直ぐ前を見て眩しいほど美しく微笑む彼女たちは、光の中を歩いている。
その先にたくさんの困難が待ち受けているだろうけれど、どうかこれからもその笑顔が曇らないように。今日の喜びを忘れないように……。
そう祈りながら、ヒノエはふと頭の中を過ぎったメロディーを口ずさんでいた。
フロントガラスの向こう。
度の入ってない眼鏡越しに見つけた一人の新成人。
「さて、行くか」
ヒノエはドライビングシートから身を起こすと、カチャリとドアを開けた。
「望美」
「ヒノエくん、ホントに来たんだ……」
車から降り立った姿を、望美は信じられないものを見たように瞳を見開いて呟いた。
会場の裏道にあたるとはいえ、人がいないわけじゃない。
なのにヒノエは帽子も被らず、いつもどおりの姿で現れたのだ。
「当然。一生に一度しかない成人式なんだぜ?望美、おめでとう」
ばさりと無造作に渡されたのは、ピンク色で纏められた可憐な花束。
望美はびっくりしながらそれを受け取り、ヒノエを見上げて照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう…。うれしい……。でも、ヒノエくんが来てくれたのが一番うれしい」
「喜んでもらえて何よりだよ」
望美はその花束に顔を寄せて、花の甘い香りを吸い込んだ。
そして少しだけ申し訳なさそうな上目遣いでヒノエを窺った。
その視線に気づいたヒノエが不思議そうに首を傾げる。
「ん?」
先を促され、望美はおずおずと口を開いた。
「もしかして朝のメール、余計なことだったかな?」
もし着物姿の画像なんて送ったのが原因で、忙しいヒノエがわざわざ来てくれたのかと思うと申し訳なくてたまらなくなる。
だがヒノエはそんな望美の不安を軽く笑い飛ばした。
「違うよ。オレが望美の晴れ姿を見たかっただけ。だから出かけるついでにちょっと立ち寄っただけだよ」
本当は取れるはずの睡眠時間を削って出てきていたが、それは言わなくていい。
たった一度しかない成人式の望美を見たかったのは事実だし、仕事に行くついでなのも本当だ。ただかなり早く部屋を出ただけで……。
ヒノエの言葉で幸せそうに笑う望美が、心から愛しいと感じる。
いつもと違う装い。
でもいつもと変わらない笑顔。
ヒノエは手を伸ばしてそっとその頬に触れた。
「ヒノエくん?」
「いつにも増して綺麗だね。望美」
「ふふ。お世辞でも褒め言葉は素直に受け取るわね、ありがとう」
「本気なんだけどな」
「うれしいよ、ヒノエくん。……しまったなぁ。将臣くん引っ張ってくればよかった」
「将臣?」
望美の唇から紡がれた男の名前に、ヒノエの顔がぴくりと引きつる。
将臣とは何度か顔を合わせたことがあるヒノエだか、彼が幼馴染みの気安さで望美に接するのが理性でわかっていても気に食わない。
そんな将臣の名前が出てきたから、不機嫌になるのは当然だ。
しかし望美もヒノエの雰囲気が変わったことに気づき、慌ててその理由を説明した。
「ヒノエくんとの写真を撮ってもらいたかったの。将臣くんならヒノエくんを知ってるし……」
そう言いながら、望美は持っていた小さなバッグからデジカメを取り出した。
「ヒノエくんだけでも撮ろうかなぁ」
望美はデジカメの電源を入れると、片手でヒノエにレンズを向けた。
するとディスプレイの向こうのヒノエが腕を伸ばすのが見え……。
「あ…」
ひょいとそのデジカメを取り上げられてしまった。
「せっかくだ、一緒に撮ってもらおう」
「え?」
言うが早いか、ヒノエは周囲を見回すと、ちょうど通りかかった振袖姿の女の子に声を掛けた。
「ちょっ!」
望美が止める隙もなかった。
いきなり声を掛けられた女性は、戸惑いながらも快くカメラを受け取ってくれたのだ。
「笑顔、引きつってるぞ」
「ヒノエくんは満面の笑顔だよね」
並んでポーズを取りながら、軽口をたたき合う。
碧い着物で着飾った女性は二度シャッターを切ってくれ、ヒノエへとデジカメを差し出した。
「サンキュ」
「いえ…。あの、間違ったらごめんなさい。グリフォンのヒノエさんじゃないですか?」
頬を染めて恐る恐る尋ねるその女性に、ヒノエは困ったように笑った。
「あー、オレ、よく間違えれられるんだよね。そんなに似てるかなぁ?」
「似てますよ!声もそっくり!」
「骨格が似てると声も似るっていうもんなー。でもさ、そんな芸能人がこんなとこで彼女と記念写真なんてありえなくない?」
「それもそうね」
「写真ありがと」
ヒノエはいけしゃあしゃあと嘘を吐き、彼女たちを納得させてしまった。
笑いさざめきながら立ち去っていく親切な彼女たちを見送り、望美は深々と息を吐いた。
「嘘つき」
「嘘も方便って言うだろ。ほら」
デジカメを望美に返すと、さっそく画像チェックをしている。
「オレにもくれよな」
「うん、もちろん」
望美は頷いてカメラをバッグに仕舞いこんだ。
「さて、行くか…」
晴れ渡った空へ腕を突き上げ、思いっきり背伸びをする。
吸い込む冷たい空気が、寝不足の身体をしゃんとさせてくれた。
「来てくれてありがとう、ヒノエくん」
「どういたしまして。ま、オレが望美の着物姿見たかっただけだけど。あ、携帯で撮らせろよ」
「別にいいけど」
「せっかくだから弁慶に自慢してやろう」
取り出した携帯で、照れくさそうにおすましする望美を撮る。
「…………別に弁慶さんは見たくないかもしれないじゃない」
「そんなことないって、噂の彼女だしな」
望美の言葉に返事をしながら、自分の撮った画像を満足そうに望美に見せる。
「噂の彼女?あ、そういえば、弁慶さん、最近熱愛報道されてたよね。一般の女子大生とお付き合いしてるって」
「そうそう。女子大生と熱愛」
「意外だったな〜。弁慶さんのイメージって社会で自立した女の人とお付き合いしてそうだから」
「………ガセだからな」
「え?嘘なの?」
「ったりまえだろ?だいたい女子大生って…………。なあ、望美」
「ん?」
「お前、気づいてない?」
「何が?」
「弁慶の相手」
「知らないよ?だって弁慶さんとそんなに話すわけじゃないし、偶然会った時くらいだもん」
「へぇ……」
ヒノエの顔にしてやったりな笑いが浮かんでる。
望美は不思議そうに首をかしげた。
「なに?私の知ってる人なの?でも女子大生って……」
「お前」
「はい?」
「お前だよ、弁慶の相手の女子大生?」
「はぁ???」
驚きすぎて大きく開いた瞳は転がり落ちそうなほどだ。
ぱかんと開いた口といい、滅多にお目にかかれない望美の間抜け面にヒノエは思わず噴出してしまった。
「おもしれー顔」
「何よ!!それより私ってどういうこと!?」
ヒノエと付き合うようになってから、弁慶とも連絡を取ったりすることもあるけれど頻繁にではないし、二人っきりで会ったりすることも無い。
それなのに何故熱愛報道?
「お前、オレの部屋に来るときに弁慶とばったり会わなかったか?」
「え?ああ、あるある。二週間前くらいヒノエくんのところに遊びに行った時、丁度弁慶さんが帰ってきて声を掛けられたから話しながらマンションに…………、って、ええ!?」
その事実に思い当たった望美は、一気にヒノエが言わんとしているところを理解した。
「……もしかして?」
「ああ、原因はそれらしいな、アイツ曰く。弁慶は面白がってノーコメントを貫くつもりらしいけどな」
「否定しようよぉぉぉぉぉ」
望美は情けない叫びを上げつつ、頭を抱え込んだ。
「アイツはそんなヤツだよ。否定しても追い掛け回されるのわかってるから無駄なことはしない。お前に何があるわけじゃないし、気にするなって」
「悪いことしちゃったなぁ……」
「まあ、アイツはともかくとしてお前もオレのところに来るとき、少し気をつけろよ。オレは構わないけど、お前が嫌なんだろ?」
「うん、わかった」
「じゃあ、オレ行くわ」
ヒノエはそう言うと、車のドアを開けて身体を折るようにして乗り込んで、軽く手を振ってアクセルを踏んだ。
望美は走り去っていくヒノエの車を見送りながら、腕の中の花束に視線を落とした。
大人への一歩を踏み出す儀式。
つまらないものだという人もいるけれど。
それでも未成年として扱われていた時代に決別する大切な儀式。
はっきりとした自覚なんてないけれど……。
でもしっかりと自分の道を歩くヒノエに恥ずかしくないように、これからも一歩一歩進んで行きたい。
迷っても後退しても、広い視野で自分の道を踏みしめて……。
「理想だけどね。……頑張ろう」
望美は小さく呟くと、誓うように手の中の花に口付けを落とした。
<終>
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