そのカットサロンは、表通りから一歩入ったところにあった。
あともう少しで最後の客の仕上げが終わる頃、カラン…と軽いベルの音がしてドアが開いた。
「いらっしゃいませ!」
お客様のお見送りをする為に、入り口付近に待機していた新人アシスタントが出迎えの声を上げる。
手入れの行き届いた長い髪の彼女は、アシスタントににこりと微笑むと店内に足を踏み入れた。
しかし……。
「申し訳ありません。本日は閉店時間ですので…」
新人アシスタントが、申し訳なさそうに頭を下げる。
すると古参アシスタントが、カウンターからくすくすと笑いをもらした。
「いいのよ」
「え?」
新人アシスタントが、少しだけ驚いて先輩を振り返る。
「彼女はいいの。いらっしゃませ、春日さん」
「いつも遅くてごめんなさい。待たせてもらいますね」
つい先日このサロンに入ったばかりの新人以外は、彼女を知っているらしい。
彼女も慣れているようで、ソファに腰掛けると手の届く範囲にあったファッション誌を膝の上に開いた。
ここは有名人も通っている、人気の美容室だった。
店長は若いが、そのセンスと腕で確固たる地位を築いている。
多くのスタッフを抱えるここは、予約を取りにくいことでも有名だった。
「ほら、出来上がり。綺麗になったろ?」
ドライヤーを置いて、女性客に掛けていたタオルをパサリと取り、彼は鏡越しに軽くウインクしてみせる。
それだけで、若い女性客の頬がほのかに染まり、うれしそうな笑顔がこぼれた。
「店長の腕がいいからよ。やっぱりヒノエにカットしてもらうと違うわね」
ヒノエが翳した鏡に、後ろ頭のスタイルを映しながら女性が頷く。
「当たり前だろ?お客様の髪質はちゃんと把握してるからね。これに懲りたら下手に浮気しない事だよ」
「だって、評判のお店だったんだもの。一回は行ってみたいじゃない。ヒノエにバレるとは思わなかったけど」
ばつ悪そうに僅かに背を丸め、彼女は肩越しにヒノエを見上げる。
ヒノエはそんな彼女へ、溜息交じりの苦笑を見せた。
「わかるさ。カットの仕方が全然違う。まあ、店を替えたっていいけどね。髪が荒れてもかまわないなら」
あっさりとしたヒノエ。
女性客は相変わらずクールなヒノエに、少しだけ面白くなさそうに息を吐いた。
「……わかったわよ。これからは浮気しないから」
「そうかい?」
「そうよ。あっちのマネージャー、かっこいいって噂だったけど、ヒノエ店長の方が腕も顔もずっと素敵だって分かったし」
「見る目があるね」
褒め言葉を当たり前のように受け取り、ヒノエがにっと口の端を上げた。
その自信に満ちた笑みにつられて、女性客も笑う。
「難点は、ヒノエの予約は入れにくいってことよ。いつも予約でいっぱいなんだもの」
「仕方ないだろ。姫君たちが指名してくれるんだからな」
「あ〜あ、それでもヒノエがいいのよね。カットの腕は確かだし、いい男だし。離れられないのよ」
切ってもらったばかりの髪を手に取り、毛先を見つめながら諦めたように呟いた。
少しだけ際どい言葉遊びに付き合って、ヒノエは女性客の肩に手を置いて彼女の顔の横から鏡の中の瞳を見つめた。
「お褒め頂き光栄だね。オレも放さないぜ?」
「お客としてでしょ?たまには時間外に付き合ってよ」
美しく整えられた指先が、ヒノエの顎を擽るように撫でていく。
艶めいた誘いの手にヒノエは少しだけ目を細め、軽く彼女の肩を叩いて身を起こした。
「適当に予約入れて帰れよ。これくらいなら……、そうだな、ぎりぎり持たせて一ヵ月半。一ヶ月後ぐらいがいいと思うけど?」
「わかったわ。空きがあるところに入れておく。またよろしくね」
ヒノエが椅子をクルリと回すと、今回も誘いに失敗した女性はカツンとヒールの音をさせて立ち上がった。
「ありがとうございました」
店内に、客を送り出すスタッフの声が響く。
これが最後の客だった。
予約をしていたのは。
先ほどやってきた女性は、相変わらずソファで雑誌を眺めている。
肩から零れ落ちる長い髪を、時折耳にかけながら。
「さてと……。みんなは帰っていいぜ」
帰っていいというか、さっさと帰れと言わんばかりにヒノエは軽くスタッフを追い払うように手を振った。
すでに店内の掃除は、客の相手を店長のヒノエがしているあいだに手分けして済ませている。
しかし、店内にひとりだけ残っている女性。
事情の分からない新人アシスタントが思わず不思議そうな顔をした。
「帰るわよ」
先輩アシスタントがポンと彼の肩を叩く。
他のスタッフはすでにばらけていた。
「あ、はい……」
「気になる?」
主語はない。
けれど何を指しているかわかった彼は、素直にこっくりと頷いた。
そんな彼に、先輩アシスタントがそっと声を潜めて告げた。
「彼女は、春日望美さん。店長と同い年のOLさんで、店長のカットモデルですって」
「カットモデル?」
今更?
何かのショーがあるわけでも、イベントを控えているわけでもない。
そんなヒノエにカットモデル?
新人アシスタントの疑問はもっともで、先輩アシスタントが悪戯っぽく付け加えた。
「そうよ。表向きはね」
「表向き?」
「そう。カットモデルと言いながら、彼女の髪型はいつも手入れの行き届いた見事なロング。モデルなわけないでしょ」
「確かに……。じゃあ?」
「もう!鈍いわね!店長の彼女よ!」
「えっ!?」
「……どうしてそんなに驚くのよ」
「いや、意外だと思って……。彼女いるのに、今もいつもの通りお客をタラシてましたが……」
「あんたもはっきり言うわね」
先輩はちょっと呆れたように肩をすくめた。
「閉店後に当たり前のようにいるのよ。カットモデルとでも言わないと、お客に説明がつかないでしょ。だからこれは店長にご執心なお客様用の言い訳なの」
「……俺達には?」
「店長に直接聞いて御覧なさいよ。聞いたら最後、うんざりするくらい惚気られるから」
「……遠慮しておきます」
惚気られたことがあるのか、本当にうんざりした様子の先輩を見て、新人はがっくりと肩を落とした。
「おい!いつまで残ってる気だい?」
いつの間にか、スタッフは話していた二人だけになっていた。
声がした方を振り向けば、ヒノエがソファに座ったままの彼女の髪を一房手に取り、髪の状態を確認しているところだった。
「あ、すみません。お先に失礼します」
二人は慌てて頭を下げると、あたふたとフロアを後にしたのだった。
「別にいいじゃない。誰が残ってても」
らしからぬ強い口調でスタッフを追い返したヒノエを、望美は少し困ったように咎めた。
「イヤだね」
しかし返ってきたのは、短い子供のような言葉。
「ヒノエくん?」
意外そうに望美がヒノエを見上げて首を傾げた。
そんな望美の瞳を見つめ、ヒノエは指に絡めていた望美の髪に唇を寄せた。
「お前との時間を誰にも邪魔されたくないよ。あいつらも少しは気を使えってんだ」
勝手な言い分に、望美が苦笑する。
「仕方ないよ。私はカットモデルなんだし」
ヒノエと付き合いだして初めてここを尋ねた時、ちょうど帰る客と鉢合わせして問い詰められ、咄嗟に出てしまった嘘。
ヒノエは面白そうに笑いながら、否定も肯定もそして助けもしなかった。
それ以来、望美はカットモデルと思ってここに来ていた。
しかし……。
「はあ?お前、それマジで信じられてるって思ってんのか?」
心底呆れたようなヒノエ。
「え?違うの?」
望美は驚いて、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「……お前、ほんっと天然だよな」
「何よ、それ!」
むっと望美が唇を歪める。
「カットモデルが、毎回ほとんど同じ髪型してると誰が思うかよ。普通ならばっさり切られて当然だろ?」
「あ……」
ヒノエの指摘にやっと気付いた望美が、小さく声を上げた。
ヒノエは素直で鈍い彼女を微笑ましく思う。
手にした髪を愛しげに指先で撫でた。
「色も入れない、長さもあまり変わらない。カットモデルとしてありえねーだろうが」
望美のさらさらの髪の感触を確かめていたヒノエが、手から髪を落とし、望美の手を取った。
そしてソファから立ち上がらせる。
「え〜っと……。じゃあ?」
「オレの恋人。ま、隠すつもりは一切無いからな」
「………別にいいけど」
「ほら、髪を濡らすからこっち来いよ」
望美はヒノエに誘われるまま、シャンプー台に向かった。
「さて、どうしようか?」
「どうしたらいいと思う?」
鏡越しに自分の背後に立つヒノエを見上げ、望美が首を傾げる。
ヒノエは、軽く望美の頭を両手で撫でつけ、そうだな……と髪に視線を落とした。
「少し毛先が痛んでるみたいだから切ろうか。あとはサイドにシャギー入れるくらいかな。パーマもカラーもイヤなんだろ?」
「うん…。ヒノエくんがいいと思うようにして?」
「承知いたしました。姫君」
望美の信頼を受けて、ヒノエは機嫌よく笑った。
望美は自分の髪を手際よくカットするヒノエを鏡を通してじっと見つめていた。
ヘアクリップとコームとシザーを使って、ヒノエは躊躇いもせずにカットしていく。
望美はヒノエが仕事をしている姿が大好きだった。
ヒノエの操るシザーが、魔法のように髪を綺麗にカットする。
「そんなに熱く見つめられるとたまんないね」
ちらりと鏡越しに向けられた流し目。
望美がくすりと笑う。
「……馬鹿言ってる」
「ホントだぜ。オレはお前の視線ひとつでどうとでもなるからな」
「嘘ばっかり。……結構切るんだね?」
ヒノエが繰り出す甘い言葉をあっさり流し、ぱらりぱらりと落ちていく髪を見ながら、望美が少し不安そうに呟いた。
ずっと伸ばしている自慢の髪。
ヒノエがいつも褒めてくれるから、ますます自分の髪が好きになった。
あまり短くしたくない。
そんな望美の思いを分かっているヒノエは、安心させるように鏡の中の望美に綺麗な笑みを向けた。
「長さはそうでもないぜ。もう暑くなるから、少し梳いてるけどな」
「そっか…。よかった」
「お前が好きな長さは知ってるよ。安心しなって」
「うん。そうだね」
仕上げが近くなると、ヒノエは望美の後から鏡を覗き込みつつ、左右の髪を同時に一房撫で下ろして長さの確認を繰り返す。
「よし。カット終了」
ヒノエは望美の服やミュールに切った髪が落ちないよう、ケープを大きく広げて外すと、クルリと椅子を回した。
そして手を差し出す。
「どうぞ、姫君?」
ちょっとおどけた気どり方。
まるで騎士のように差し出された手に、望美は軽く笑いながら手を重ねた。
「ありがとう…」
望美はヒノエに支えられて立ち上がった。
髪に地肌に、あたたかなシャワーがかかる。
「……ねえ、ヒノエくん」
「ん?」
「顔にカバーかけてくれないの?」
いつもならガーゼを顔にかけてくれるのに、ヒノエはそのままお湯を使い出した。
望美は、忘れているのかと思ってヒノエにカバーを求めた。
しかし。
「ダメ」
即座に返ってきたのは却下の言葉。
分かっていてカバーをしなかったらしい。
望美は目を閉じたまま、嫌そうに顔を顰めた。
「……どうして?」
「望美の顔が見えないから」
「そんな理由ありなの?顔に水がかかっちゃうよ!」
水ならいいが、シャンプーとかだったら最悪だ。
望美はヒノエの勝手な言い分に抗議した。
しかしヒノエはかまわず手を動かしていく。
「お前、オレの腕を疑うわけ?」
「疑うわけじゃないけど。シャンプーは最近してないでしょ?」
「まあね。この店出してから、お前だけしかしてないかな」
「カットの予約でいっぱいだもんね。私、ちゃんと予約して時間内に来るよ?そうしたらヒノエくん、遅くならなくていいし」
いつもいつも望美の髪をカットしてくれるのは閉店後。
ヒノエの帰宅が遅くなるのを気にしていた望美は、少しでも負担を軽くしようと、普通の客として来店することを提案した。
そのとたん、ヒノエの顔が不機嫌になる。
目を閉じている望美には見えなかったけれど……。
「………お前さ、オレの楽しみ奪うわけ?」
「は?」
少しだけ望美を責める様に落とされた声のトーン。
望美はどうしてヒノエの楽しみを奪う事になるのか分からなくて、小首を傾げた。
「時間内に来るってことは、オレはカットとブローの仕上げしかできねぇ。お前に他のヤローが触れるなんざ、許せねぇな」
「……ヒノエくんところのスタッフじゃん。ヒノエくんがカットしてくれれば、他は別に誰でもかまわないけど?」
スタッフの腕もいいって噂だしね。と望美は目を閉じたまま屈託なく微笑む。
ヒノエはそれがますます面白くない。
手際よく丁寧に望美の髪から泡を洗い流し、トリートメントを手に取ったヒノエは、改めて望美の無防備な顔を見下ろした。
「……お前さ、この体勢でそんな可愛くねぇこと言う?」
「だって、大変でしょ?いつもいつも遅くな…っ!」
望美の声は、不意に唇に触れた何かで奪われてしまった。
驚いて目を開けると、目の前にヒノエの端正な顔があった。
ヒノエの野生の豹のような瞳が、望美の瞳を覗き込んで、面白そうに細められる。
「ん…」
顔を背けようとした望美だが、一瞬早く髪に差し込まれた手が、それを許さず柔らかく望美の地肌を刺激してきた。
望美は真っ赤になって、胸に置いていた手でヒノエの肩を押し返した。
ヒノエは喉の奥で笑いながら、あっさりと身を離す。
「ヒノエくん!」
「可愛くない事を言う唇は塞いじまうに限るね」
悪びれもせず、ヒノエが軽いウインクを見せた。
「バカ!」
「いてっ」
望美の報復の拳が、ヒノエの横っ腹にヒットする。
ヒノエは体を僅かに曲げ、声を上げて笑った。
「そんなことすると、お店替えちゃうんだから!」
「それは困るな。…足りなかった?」
「だ〜か〜ら〜!!ほんっとにもう来ないわよ?それか予約入れてやる!!」
「お前の時間はこの時間だよ。それ以外は受け付けないね」
「じゃあ、ちゃんと仕事して」
「オレの勤務時間は終わってるぜ?」
「…仕事じゃないの?」
「これはオレの趣味」
「どんな趣味よ?」
「オレの手で望美を綺麗にするんだよ。……いい趣味だろ?」
「……勝手にして」
どう言ったってヒノエに敵わない。
望美はヒノエの甘い言葉に諦めたような溜息を吐きつつも、ほんの少しだけ頬を染めていた。
丁寧なタオルドライ。
ヒノエが定期的に手入れをしてくれるため、望美の髪はとても綺麗な艶をしている。
日々の手入れの仕方もヒノエが教えてくれた。
長い髪が自慢の望美の為に。
髪を軽く掻き混ぜるようにして、ドライヤーがかけられる。
毛先が頬に当たってくすぐったい。
望美はくすくす笑いだしてしまった。
「どうした?」
「ん〜?ちょっとくすぐったかったのと、ヒノエくんの手が大きいなと思って」
「そう?」
「うん。ヒノエくんの大きな手で頭を触られると、ちょっと小顔になった気がするよ」
「なんだそれ?」
予想も出来ない望美の感想が面白くて、ヒノエが笑う。
「ヒノエくんの手って、私の頭を片手で掴めそうなんだもん。自分の頭蓋骨が小さいような気がしてさ」
「お前、面白すぎ。頭蓋骨ってすげーこと考えるよな」
「そっかな?」
「お前は小顔だよ。心配すんなって」
「ん、ありがと」
気持ち良さそうに目を閉じる望美。
それはヒノエだけに見せる、リラックスした姿だった。
「ヒノエくん、お金…」
「お前さ、毎回毎回オレの話聞いてんの?いらねーつってんだろ?」
それはいつも繰り返される、儀式のような押し問答。
ヒノエは決して望美から料金を取らない。
営業時間外で、これは仕事ではないと言って。
本来ならば、ヒノエは技術料に指名料も加算されるはずなのに。
ヒノエの技術は超一流だ。
望美には、それを恋人だからと当たり前に受け取る事が出来なかった。
「でも……」
「仕事じゃないって言っただろ?」
話は終りとばかりに、ヒノエが軽く望美の頬に触れる。
いつもそれで望美が負けてしまうのだ。
望美は少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「……ありがと」
その一言が、ヒノエの一番の報酬なのだった。
「ヒノエくん、ご飯食べた?」
最後に店内の整理をするヒノエを見ながら、望美が声をかける。
「いや?夕方に少しパン食った程度」
やはり毎日、食事が出来ないくらい忙しいらしい。
望美はヒノエのハードスケジュールを心の中で心配しながら、それを口にはしなかった。
ヒノエにはヒノエのやり方があると知っているから。
ヒノエが望美のすることに、滅多に口を挟まないように、望美もヒノエの仕事に干渉はしない。
それが二人の間にある暗黙のルールだ。
「私もご飯、まだなんだ。折角だから付き合ってよ。気になるお店があって」
望美はヒノエを心配する言葉の代わりに、彼を食事に誘った。
今日のお礼を兼ねた食事会だ。
ヒノエもそれは分かっていて、気持ちよく頷いた。
「いいぜ、姫君のお誘いなら、なにをおいても最優先ってね」
「じゃあ、決まり!」
「ちょっと待ってな。支度してくる」
「うん。急がなくいいよ、けっこう遅くまでやってるお店だから」
裏へと走っていくヒノエに、望美が慌てて声をかける。
そう言っても、きっとヒノエはすぐに戻ってくる。
そして手を差し伸べてこういうのだ。
「行こうか、姫君…」
誰よりも魅力的な笑顔で、望美を見つめながら……。
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