「チェックメイト」
楽しげな声と共に、磨かれた大理石の盤上にかちゃりと置かれた白いナイト。
ヒノエは真剣なまなざしで盤面を睨みつけていたが、ややして大きく肩で息を吐いた。
「……また負けかよ」
どさりと力なく椅子の背もたれに体を投げ出したヒノエを見て、物腰の柔らかい青年が穏やかな笑みを見せた。
「まだまだですね、ヒノエ。また出直しなさい。いつでも相手をしてあげますよ」
ことさら勝利を誇っているわけでなく、勝って当たり前だといわんばかりの余裕。
いつもヒノエは、叔父の彼には敵わない。
「…むかつく奴だよ、あんたは」
ヒノエは軽く舌打ちをして、ぐしゃりと柔らかい髪を掻きあげた。
「おや?性懲りもなく賭けチェスをふっかけてくる、君の相手を時間を空けてしてあげているのに、その言い草ですか?」
生意気な甥に、彼は心外だと愁眉を上げた。
「今日こそやれると思ったんだがな…」
途中までは確かにヒノエが押し気味にゲームを進めていた。
だがそれも後半の彼の一手で、あっさりと覆されたのだった。
「君が僕を負かすには、まだまだ読みが甘い」
「断言かよ?弁慶」
「事実ですから。さて、では君に何をしてもらいましょうか?」
「……ったく。今回もダメかよ…」
忌々しげな呟きを耳にして、弁慶は口元に薄い笑みを刷いた。
「三階の猫のお嬢さんは見せられませんよ?あの子は稀少種ですからね。…しかし、君も小さな頃からあの子に拘りますね?どうしてですか?」
幼い頃から、ヒノエが興味を持つものはたくさんあれど、執着をみせるものはなかった。
そのヒノエが唯一執着し、今もなお拘るもの。
それが先代の時から誰の目にも触れられないようにして育てられている三階の猫だった。
この屋敷に住んでいるたくさんの猫たち。
猫といっても普通の猫ではない。
ここにいるのは人に近い猫族だ。
耳や尻尾、そして特徴的な瞳など細かなところを除けば、見た目は人とあまり変わらない。
プライドの高い、美しい獣。
猫族は人に飼われるけれど、ペットというよりパートナーに近かった。
それに猫族は飼い主を自分で決める。
いくら人が猫族を欲しがろうと、当の猫が嫌がればそれで終わり。
気まぐれなのは猫と同じ。
生きた芸術といわれる彼らを飼うには、まず彼らに認められる必要があった。
そんな猫族を代々扱っているこの家を継いだのは、ヒノエの叔父の弁慶だった。
ヒノエは幼い頃からここに出入りしていたので、おのずと猫たちと仲良くなっていった。
えり好みの激しいといわれる猫族に、ヒノエはいつも普通に溶け込んでいた。
きっと生来の人当たりのよさと、子供同士であるがゆえ相通ずるものがあったのだろう。
先代も弁慶も、猫と戯れるヒノエを好き勝手にさせていた。
しかしそんなヒノエが唯一、立ち入りを許されなかったのが三階だった。
その階に住む猫が一人いるのは知っていた。
外で遊んでいるときに、まるでヒノエを求めるように、バルコニーの柵越しに伸ばされる白い手があったから。
そして可愛らしい女の子の鳴き声がヒノエを呼んでいた。
必死にヒノエをに向かって、手を伸ばして。
その懸命さに、ヒノエも手を伸ばした。
三階に届くはずないのに。
姿は見たことが無い。
名前さえ弁慶は教えてくれない。
けれど10年経った今でも、その声はヒノエの耳から離れないのだ…。
会いたい、その猫に会いたい。
それは未だヒノエの心に残る、子供の頃の純粋な願い。
「…ここにいる猫で顔を見てないのは、三階の猫だけなんだよ」
本当の想いを隠して、ヒノエがぶっきらぼうに言う。
しかし弁慶はそんなヒノエの言葉を、軽く否定した。
「三階の猫以外にも、君が知らない猫は他にもいますよ?」
弁慶から初めて知らされた事実に、ヒノエは僅かに目を見開いた。
「…そう、なのか?」
「ええ。それも三階のお嬢さんに負けず劣らずの稀少種ですよ。……ああ、そうだ」
「なんだよ?」
嫌な予感がする。
弁慶が浮かべた笑みに、ヒノエは眉を寄せた。
「君にしばらくの間、預かって欲しい猫がいます。君の知らない稀少種の女の子です」
「は!?」
「とても綺麗で可愛らしい子ですよ。呼んできましょう」
弁慶は楽しそうに笑って立ち上がった。
「ちょっと待て!オレはいいなんて言ってないぜ!?」
猫を呼ぶために背を向けて部屋を出ようとした弁慶に、ヒノエは慌てて腰を浮かせた。
だが…。
「賭けに負けたのは君ですよ?これは勝者の僕が決めることです」
「押しつける気かよ?」
ヒノエが嫌そうに顔を顰める。
弁慶はふっと目を細めて肩をすくめた。
「人聞きの悪い。君にしばらく預かってほしいだけですよ。まあ、ちょっと意地っ張りな女の子ですが、女性の扱いに長けた君なら問題ないでしょう」
「あんたこそ人聞きの悪い事言うなよ」
「事実でしょう?」
「他の誰に言われても、あんたにだけは言われたくねぇ。啼かせた女の数は、あんたの方が多いはずだぜ?」
弁慶は、かすかに口の端を上げたが、否定も肯定もせず、猫を連れてくるために部屋を後にした。
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