望美と一緒に暮らし始めてから二度の満月を越え、もうすぐ三度目の満月がやってくる。
 当初は警戒心を顕にしていた望美も、一緒に暮らしてずいぶんとオレに慣れてくれた。
 手を伸ばせば素直に触れさせてくれるし、抱き寄せても体を強ばらせたまま、なんてこともなくなったしね。
 それどころか、気が向けばちょっと不器用ながらオレに可愛らしく甘えてくれるんだ。
 今も、床に座ったオレが背を預けているソファーの上で転寝をしてる。
 望美は俯せてオレと逆方向をむいてるから、可愛い寝顔は拝めないけどね。
 弁慶の屋敷からここに移って来てしばらくの間、望美はオレに寝ている姿を欠片も見せたことなかったんだ。
 望美はいつも気を張っていて、少しでも自分以外の気配や物音がすれば目を覚ましていたから。
 








 オレに対する望美の警戒が解けたのは、オレが仕事で数日間部屋を空けたのがきっかけだった。
 望美は誰もいない場所で、本当に一人で過ごすのは初めてだったんだろう。
 とても淋しかったみたいで、久々に帰宅したオレにこっそりと甘えてきたんだ。
 弁慶の屋敷では、たとえ部屋に一人でいても、敷地内のどこかに望美の知る人の気配はあったはずだからね。
 その時、オレはすごく疲れていて、望美に安らぎと癒しを求めた。
 戸惑いながらも優しい彼女を抱きこんで、その柔らかい肌の温もりを感じながら眠りに落ちたんだ。
 あの日から、オレと望美の距離がぐっと縮まった。








 
 ソファーで気持ちよさそうに寝ている望美の真っ白で長い尻尾が、さっきからオレの肩を叩いてる。
 つややかな毛並みの尻尾は、寝ているからだろう、たまに思い出したようにぴくりと動く。
 その弾みでオレの頬をさらりと撫でていくから、ちょっと煽られてる気分になるけどさ。
 オレの傍らで、すやすやと安心しきって眠る望美を見ると無条件でうれしくなる。
 綺麗で可愛い猫に懐かれるのは大好きだ。
 しかも望美は、オレが知っている猫の中でも抜群に綺麗だから…。
 オレは仕事の手をとめて、肩でゆれる白い尻尾にそっと触れた。









 オレが触れると、逃げるようにぴくりと尻尾が動く。
 追いかけて軽く握ると、また逃げる。
 ……おもしろい。
 彼女は気付いているわけじゃないけど。
 その証拠に、望美は相変わらず体を伸ばして気持ち良さそうに寝息をたてている。
 真っ白で光沢のある美しい毛並みの長い尻尾。
 オレの目の前を挑発するように動く。
 …ふと湧いた悪戯心。
 オレは望美が起きたら渡そうと思っていたものを引き寄せた。









 それは仕事の途中で買ったトリュフチョコレート。
 女の子の間で人気の店なのは前から聞いていたからね。
 偶然通りかかったついでに、チョコが大好きな望美に食べさせてあげようと買ったんだけど…。
 たった数個のチョコレートなのに、まるで宝石を包むように丁寧に施されたラッピング。
 箱を飾るのは店のロゴが上品に箔押しされた、薔薇色のサテンのリボン。
 その端を軽くひけば、リボンはするりとテーブルに波打って広がった。
 オレはそのリボンをとって、あいかわらずオレの肩で遊ぶ尻尾に目を向けた。
 オレの体に沿うように懐いた尻尾。
 人肌の温もりを探して、甘えるように常にオレに触れている。
 それが可愛くて愛しくて、オレは尻尾の先に軽く口付けを落とした。
 そしてオレは望美に気付かれないように、手早く薔薇色のリボンを尻尾の先に結んだんだ。
 彼女を起こさないようにゆるく、だけど。
 真っ白な尻尾に赤いサテンのリボン。
 鮮やかな色彩のコントラストが、オレの目を楽しませる。
「…うにゃ…ん」
 小さくぐずるような鳴き声。
 そして今までオレの肩にあった尻尾が大きく振られた。
「起きちまったか?」
 ソファーを振り返れば、望美がまだはっきり開かない目をこすりながら、片肘をついて体を起こしているところだった。
 望美はソファーの上で四つんばいになってから、腕を思いっきり前に伸ばしてしなやかな背伸びをした。
 猫のやわらかい伸びはいつ見ても綺麗だ。
 寝起きの儀式を済ませた望美が、ぺたんとソファーに座って身繕いを始めた。
 寝乱れた長い髪をゆっくりと手櫛で梳く。
 オレの悪戯に気が付かないまま、機嫌よく尻尾を揺らして…。
「望美、チョコ食べるか?」
 オレはリボンが解かれたあとに残った、白いシンプルな箱を望美の膝に置いた。









「にゃんv」
 チョコレートが大好きな望美が、瞳を輝かせて箱を見、そしてオレに視線を移してにっこりとほほえんだ。
 こんな全開の笑顔も、最近やっと見せてくれるようになったんだよな…。
 弁慶が意地っ張りと言うだけあって、望美はなかなか心を許してくれなかったから…。
「紅茶淹れてきてやるよ。チョコがあるからストレート?」
 望美に好みを聞くと、こっくりとうれしそうに頷いた。ついでにリボンが大きく揺れた。








 キッチンで望美の紅茶と自分のコーヒーを淹れる。
 望美がこの部屋似来るまでは、紅茶なんてほとんど淹れた事がなかったのにな。
 オレが飲むのはほとんどコーヒーだし、自分のプライベート空間であるこの部屋に人を呼んだことはなかったんだ。
 ところが今じゃ、望美の為にかなりうまく紅茶を淹れられるようになった。
 望美がおいしそうに飲んでくれるのがその証拠。
 オレはカップを二つ持って部屋に戻った。








「にゃ〜!!」
「ん?」
 部屋に戻ったとたん、眉間に皺を寄せた望美がオレをにらんでひとつ鳴いた。
「ああ、気が付いた?」
 赤いリボンはまだ望美の尻尾を飾っている。
「にゃ」
「可愛いだろ?」
「……」
 オレに悪戯されたのが悔しいのか、不機嫌そうに唇を尖らせる。
 でも本当は、そんなに怒ってない。だって、望美の澄んだ目はただ恥ずかしがってるだけだからね。
 オレはテーブルにカップを置いて、床に腰をおろした。
 ゆるく結んでいたリボンは、もうほどけかけている。
「紅茶、熱いぜ」
 熱いのが苦手な望美のために、一言そえた。
 うっかり舌を火傷したら大変だからな。
 望美もそれはわかってて、まだカップに手をのばさない。
 かわりに、自分の尻尾のほどけかけたリボンに指を掛けた。
 サテンのリボンは、するりと簡単に解け落ちる。
 そして何を思ったのか、解き取ったそのリボン片手に、望美がオレを手招いた。
「何?」
 呼ばれるまま、オレはソファーに座る望美に少し近づく。
 望美はソファーの上から、床に座るオレを見下ろし、にこにこ笑いながらオレの髪に触れてきたんだ。
 あー、これはやられるな、と思ったけれど、望美があまりに楽しそうだから逃げるのはやめた。
 望美は細い指先でオレの髪をいじってる。
 リボンを結ばれるとわかっていながら、望美に付き合ってる自分がおもしろい。
 望美以外だったら、きっとオレはするりと逃げてる。
 でも望美が躊躇いなくオレに触れてくれるのが嬉しくて、オレは望美の好きにさせその笑顔を見ていた。
 幼い頃はあの猫屋敷で、よくこうやって猫の女の子たちと遊んだっけ。
 男の子たちとは悪戯しまくって、何度大人達を怒らせて呆れさせたことか…。
 あの頃、望美はあの屋敷にいたのだろうか?
 オレと遊んだ猫達は、もう誰もあの屋敷にいないけれど…。









「にゃん!」
 出来上がりーっと、望美がぱっと腕を開く。
 望美はオレの髪を簡単に編み込み、その先をリボンで留めていた。
「……ひどいな」
 享受していたとはいえ、似合わぬリボンを結ばれて、オレは苦笑混じりで髪をかきあげる。
 すると望美もゆるく結んでいたのか、リボンは結び目はそのままにふわりと床に落ちた。
 オレはそのリボンを指先で引っ掛けてすくい上げた。
「昔を思い出したよ」
「んにゃ?」
 オレの呟きを拾って、望美が不思議そうに首を傾げた。
 さらさらと望美の肩から髪が零れ落ちた。










「小さい頃、よくこうやって屋敷の猫達と遊んだからね…。懐かしいなと思ってさ。」
 オレは指に引っ掛けたリボンをくるりと回した。
「お前はいつからあの屋敷にいたんだい?」
 オレが何気なく聞くと、望美は少し困った顔で頭を傾けたんだ。
 その表情を見て、ピンとくる。
 もしかして…?
「弁慶に口止めされてるのかい?」
 すると望美はひとつ頷いた。
「…あいつ、マジで望美の事はオレに教えないつもりか?」
 はあ…っと息を吐いて、オレは望美を預かった日を思い出した。
 弁慶は望美への接し方や注意事項は、細かくこれでもかってほど指示したくせに、望美自身のことはなにも教えちゃくれなかった。
 望美がどんな稀少種なのかも。
 彼女が屋敷へ来た日のことさえも。
 曰く、「君には預けるだけですから、彼女のことは知らなくていいのですよ」と。
 でも預かっただけとはいえ、一緒に暮らしてるんだ。
 やっぱり気になるじゃないか。
 そんなオレが望美に直接聞くことを予想していたのか、弁慶はきっちり望美に口止めしてやがる。
 望美が彼女の本当の主である弁慶に逆らえないのは知っている。
 あの屋敷のどの猫も、腹黒い弁慶を信頼しているからね。
 あいつは猫にだけは優しいからな。
 だからオレは望美自身のことをストレートに聞くのはやめた。
「じゃあ、質問を変えるよ?お前は小さい頃のオレを知ってる?」
 望美は少し迷ったみたいだが、そのくらいは答えてかまわないと思ったのだろう、控えめにコクリと頭を動かした。
 望美はオレとあまり年はかわらない。
 幼いオレを知っているって事は、望美も小さな頃から屋敷にいたってことだ。
 もしかすると、あの屋敷で生まれたのかもしれないな…。
 しかしそんなにも長い間、頻繁に出入りしていたオレにその存在を気づかせなかったとは。
 どれだけ注意を払って、望美は育てられたのだろうか?
「あの屋敷にいた猫は、三階の猫以外、全部知ってると思ってたんだけどね…。望美の同族の黒猫も知らなかったし、いったいあいつは何人隠してるんだ?」
 ちらりと望美に視線を流しても、彼女はわずかに目を細めるだけ。
 答えられないってことだね。
「三階の猫は知ってる?」
 その質問には、望美は素直に頷いた。
「どんな子だい?」
 しかし望美はにっこり笑うだけで、もうそれ以上何を聞いても三階の猫のことには返事をしなかった。
 どうやらこれも弁慶の予想範囲内だったらしい。
 しっかりと望美に口止めしてやがった。
 まあ、オレも三階の彼女の事を、無理に望美から聞き出そうとは思わないけどね。
 三階の彼女には、いつかかならず逢うとオレは決めているから…。
 あの鳴き声の彼女に…。









「にゃ〜?」
「ん?」
 今度は望美がオレに何かを聞きたいのか、問い掛けるようにひとつ鳴いた。
 そして指を三本たてて、瞬いて見せる。
 それだけで望美が何を言いたいのかわかる。
 彼女は他の猫にくらべて、伝達能力が優れているから、会話に困ることはないんだ。
「どうして三階の猫にこだわるかって?」
「にゃん」
「う〜ん、どうしてかな?……あの鳴き声がずっと気になってるからかもしれないね」
 望美に聞かれ、オレは改めて三階の猫について考えてみた。
 あの日の記憶が脳裏によみがえる…。









「あの日、バルコニーの影からオレに向けられた声も手も、とても印象深くて。幼心に初めて切ないって感情を覚えたよ……。必死に手を伸ばして、本当に彼女は切なそうに鳴いていたんだ。
はっきりと姿は見えなかったけれど…、バルコニーの柵越しに伸ばされた小さい手とちらりと見えた耳と…。……オレは三階の猫に、あの時何を求めていたのか聞きたいんだ。あの屋敷から逃げたかったのか、それとも他に何か言いたかったのか……。彼女を見たのは、あの一回だけだったけどね…」
 オレの話を聞きながら顔を曇らせた望美の髪を、そっとかきあげた。
「お前も、あの屋敷の奥に隠されて辛くなかったかい?」
「うにゃ?」
「気ままな自由を愛する猫族は、閉じ込められるのを嫌うはずだ。辛くなかった?」
 望美はしばし考える素振りを見せて、淡く笑った。
 それだけでわかる。
 望美には言葉にすることが難しい、複雑な思いがあることを。
 たびたび屋敷で駆け回っていたオレにさえ、先代も弁慶も望美とその同族の猫の存在をつかませなかった。
 その事実で、彼女達がどれほど行動を制限されていたか想像がついた。
「ねえ?望美は今、幸せかい?」
「ん」
 こっくりやわらかく微笑んで迷いなく頷いてくれたから、オレは少しだけほっとした。
 オレは手に持っていた結ばれたままのリボンを解き、望美の細い左小指に結び付けた。
「なぁ?」
 小指に結ばれたリボンを望美は目線の位置まで持ち上げ、不思議そうに揺らした。
 揺れて踊るそのリボンの先を、オレは指先で弾く。
 細い小指に薔薇色のリボン…。
「『運命の赤い糸』って言うけど、オレとお前は何色の糸なんだろうね?……弁慶が仕組んだ出会いだから、碌でもない色かもしれないけどさ」
 望美もまた、幼い頃遊んだ猫達のように、いつかオレの前から消えてしまうのだろう。
 弁慶は最初からそのつもりだ。
 オレに預けるとき、はっきりと「しばらく」と告げたのだから。
 どんなに可愛くても、どんなに大切にしても、オレは望美を預かっているだけ。
 所有権は、弁慶にある。
 そして望美は稀少種だ。
 いつか必ずどこかへ行ってしまう。
 弁慶は屋敷から出すつもりはないと言っていたが、それがオレと繋がったままという意味じゃない。
 きっとヤツは、再びオレの前から望美の存在を隠してしまうだろう。
 ヤツがどれほど望美を大切にしているかは、目を見れば分かるからね。
 何を考えて弁慶が望美をオレに託したか知らないが、オレが望美と過ごせるのは彼女を預かっている今、この瞬間のみ……。













 望美はきっと知らない。
 彼女は再び孤独になる…。












 そしてオレも…。
 望美を失ってしまう。












 オレ達を繋いだ糸は、必ず切れる運命……。 












 
 オレは指先のリボンを揺らして無邪気に笑う望美を、ただ見つめることしかできなかった。














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