「ああ……、雪か…」






 休日の朝、いつもより少し遅く、でも寒がりの愛猫より早くベッドから出たヒノエは、窓から見える風景にどうりで寒いはずだと呟いた。








 
 ヒノエが起きてしばらく経ってから、十分に暖まったリビングにやってきた望美は、冬の間の定位置のホットカーペットの上にぺたりと座り込んだ。
 ヒノエの部屋にコタツは無い。
 つい先日まであったのだが、寒がりの望美がコタツで転寝をしてうっかり風邪をひいてしまった為、転寝防止でヒノエがしまいこんだのだ。
 コタツがあると、望美はその温かさにしがみついてしまうから、また風邪をひきかねない。
 かわりに買ったのはホットカーペット。
 寒がりの望美はホットカーペットの上でしっかりと膝掛けで足元を包み込んでから、僅かに目を細めてヒノエを見上げ「にゃぁん」と朝の挨拶の鳴き声をあげた。
「おはよう、姫君。寒くないかい?今朝は雪が降っているよ」
「に?」
 雪?と望美が小首を傾げてみせる。
 ヒノエは笑って外を指し示した。
「外、見てみなよ」
 望美は膝掛けを足に巻きつけて、ヒノエが立つ窓際に寄って外を見下ろした。
「にゃっ!!」
 見慣れた景色が真っ白な雪化粧を施されている。
 雪はまだ静かに空から舞い落ちていた。
 その美しさに、望美の耳がぴんと立つ。
「にゃー!!」
「待て、望美っ!」
 瞳を輝かせて窓を開けようとした望美の手を、ヒノエがあわてて掴んで止めた。
「にゃあっ!!」
「怒るなって。お前、寒がりなんだから、そのままだと凍るぞ?ちゃんと着込まないと……」
「…にゃあ……」
 ヒノエの指摘はごもっとも。
 でも珍しいわくわくするような光景に、望美の意識は惹かれている。
 自分のやりたいことを止められて、子供のようにがっくりと不貞腐れる望美の頭にヒノエが軽く手を置いて言った。
「暖かくしたら、外に出て遊ぶか?」
「にゃん!」
 ヒノエの提案を望美はぴんっと耳を立てて満面の笑みで受け入れ、軽やかに自分のクローゼットへ駆け出していった。








「にゃん」
 着替えてリビングに戻ってきた望美は、どう?とヒノエに見せ付けるようにクルリとターンしてみせた。
 真っ白なダウンのロングコートに身を包んだ望美は、まさしく白猫。
 形のいい耳がふわふわと揺れている。
 その姿を見つめて、ヒノエは眩しそうに目を眇めた。
「やっぱりお前は可愛いね。でもちょっと足りないかな?」
「んにゃ?」
「寒がりだからね…」
 ヒノエはそう言うと、肩にかかった望美の髪を後ろに払い、その頭に耳のようにふわふわしたモヘアのニット帽を被せた。
「仕上げ」
 細い指先を寒さから守る真っ白なミトン。
「にゃ〜」
 ヒノエのくれた温もりを、望美は嬉しげに頬を染めて受け取った。
「さあ、行こうか?」
 ヒノエは望美を誘って、優雅に手を差し出した。








「にゃーー!」
「転ぶなよ!」
 マンションのエントランスから外へ駆け出して行く望美に、ヒノエは苦笑しながら声をかけた。
 真っ白な雪の中に、真っ白な猫の女の子。
 マンション傍の公園は、雪の朝のせいなのか人はいない。
 猫族の中でも希少種らしい望美は、耳と尻尾が隠れてしまえば見た目では人と変わらなかった。
 望美に関してはどこがどう希少種なのか、専門家ではないヒノエにはわからない。
 ヒノエに望美を半強制的に預けた弁慶も、それについては一切口を閉ざしていた。







 曰く
「君には少しの間預けるだけですから、何も知らなくていいのですよ」
 と……。








 ただ素人のヒノエでも見て分かるのは、望美の虹彩が普通の猫族と違うこと。
 ヒノエが馴染んだ猫族の虹彩は普通の猫と同じだったが、望美の虹彩は人と同じ。
 だから耳と尻尾が隠れれば、猫族とはわかりにくくなる。
 そして望美は頭がいい。
 人の言葉はすべて理解するし、自分が言いたいことを伝える能力もかなりなもの。
 幼い頃から猫族になじんでいたヒノエさえ驚くほど、望美は猫族らしくないのだ。
 それは希少種たる所以だろうか?









 望美の所有権を持つ弁慶が何を考えているのかわからない。
 望美をペアリングさせる前に、屋敷からあまり出たことのない彼女に世間を見せるということだったが……。
 望美は何度か他の飼い主へと預けられたらしいが、その意地の強さからすぐに出戻ってきたらしい。
 そして最後にヒノエの元へとやってきたのだ。
 










 意地っ張りだと聞いていたとおり、望美がヒノエに馴染むのも少し時間がかかった。
 嫌な顔をせずに僅かだが触らせてくれるようになったのは、ふたりっきりで暮らしだして一週間ほど経ってからだった。
 ヒノエの存在を気にせずに眠るようになるまでは二ヶ月。
 可愛らしく素直に甘えるようになったのは、つい最近だ。
 今までヒノエが一人で暮らしていた部屋に、居るのが当たり前になってしまった猫の存在。
 彼女がいない部屋を考えられないくらい、その存在はヒノエに馴染んでしまった。
 










 いつかはいなくなる望美なのに……。
 ヒノエに望美を預けた弁慶は、いつまでとは期限を限定していない。










 いったい何を考えているのか。
 そして何を目的としているのか……。
 彼が口にした「望美に世間を見せる」それは本当だろう。
 けれど、あの人とは違う深い考えをもつ弁慶が真の目的を簡単に口にするとは思えなかった。
 










「期限付き…か…」
 寒さで鼻の頭を赤くして一人はしゃぎながら雪と戯れる望美を見つめ、ヒノエは小さく呟いた。










「にゃっ!」
「うわっ!」
 望美を見つめて、物思いにふけっていたヒノエは、不意に望美が投げつけた雪球を避けることが出来ず、その胸にまともに受けて声を上げた。
 悪戯が成功した望美が楽しそうに声を上げて笑っている。
「…ったく」
 いつもならば軽く避けられたはずの雪球。
 けれど、考え事をしていたため、反応が遅れてしまった。
 望美はヒノエの意識が自分から離れていたのが気に入らなかったのだろう。
 普段はこんな悪戯はしない猫だから…。
 ヒノエは微苦笑を浮かべ、服に残った雪を払いながら望美の傍まで歩いていった。
「んにゃ」
「ん?」
 うれしそうに望美がミトンに包まれた手の上に乗せていたのは、南天の実と葉で飾られた雪ウサギ。
 白い息を吐きつつ、滑らかな頬を赤く染めて……。
 甘えた瞳で小首を傾げ、ヒノエをだけを見上げるその姿は、人よりも可愛らしくて…。
「なぁ?」
 ヒノエはただ、誘われるように望美の後ろ頭に手を回して、その顔を引き寄せた。











「っ!」
 望美の澄んだ瞳が驚きで見開かれる。
 二人の足元に、ぱさりと雪ウサギが落ちて散った。
 初めて触れた唇は、人と変わらない温かさと柔らかさ。
 でも感じる甘さはそれ以上で……。
 触れるだけの口付けは、粉雪が舞う中でだった。










 はっと我に返った望美が、弾かれる様にヒノエの腕の中から逃げる。
 ヒノエは無理に捕まえようとはせず、僅かに口の端を上げて望美を見つめていた。
 望美は寒さだけではなく、顔を赤く染めて口元を押さえてヒノエを見た。
 その表情は驚きと恥じらいで染め上げられ、嫌悪や拒絶の色は欠片も見えないことにヒノエは我知らずほっと息を吐いていた。
 









 恥ずかしげに体を小さくする望美が可愛くて。
 その体を抱きしめたいと思った。











 でもヒノエが一歩近づくと、望美が一歩後ずさる。
 その距離は、ヒノエが手を伸ばせば届く程度のもの。
 だからヒノエは手を伸ばし、望美の二の腕を掴もうとした。









 しかし……。









「にゃっ!」
 望美は小さく鳴くと、ヒノエの伸ばした手をかわして、突然走り出した。
「望美っ!」
 公園を横切って道路に向かって走っていく望美を、ヒノエがあわてて追いかける。
 このまま道路に飛び出してしまったら危険だ。
 彼女を止めようと名を呼ぶが、望美はヒノエから逃げて一直線に走っていく。
「望美!止まれ!」
 しかし望美の耳にヒノエの制止の声は入らないのか、彼女の走る速度は落ちない。
 そしてタイミングよく、望美の前に滑り込んできた車は……。
「望美!」
 望美は現れた車に躊躇う事無く身体を滑り込ませた。









 望美が開いたドアから一瞬見えたのは……。
「…弁慶、あいつ、見てやがったのか」
 ヒノエは運転席に座っていた男の姿を思い浮かべ、苛立たしげに小さく舌打ちをした。
「そうか…。今夜は満月か…」
 一人呟いたヒノエは、雪雲で覆われた冬の空を雪の中で一人仰いだ。











「……珍しいですね、寒がりのあなたが外に出ているとは」
 助手席に腰を落ち着け、唇を押さえたまま過ぎ去っていく後ろの景色を気にしている望美に、ハンドルを握った青年が微笑を浮かべて言った。
 しかし望美は彼に目を向けようとはしない。
 ただ遠ざかっていくヒノエがいるはずの場所を見ている。
 弁慶は望美に注意を払いながらも、視線は前を見据えぽつりと呟いた。
「冬が終われば、春ですね…」
 瞬間、望美は振り返って射るような眼差しで弁慶を睨みつけた。
 サングラスの奥の眼差しが、すっと細められる。
「約束の日は近づいてますよ……?賢明な君なら、わかっていますね?」
 薄く笑む彼に何も言えず、望美はヒノエに口付けられたばかりの唇を噛み締めるだけだった。












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