春が来て。
 桜が散って。
 新緑の季節がやってくる。





 きらきらした、命が輝く季節。





 私も同じように輝けるのかな?





 学年が一つ上がったように。
 私の気持ちも、少しだけステップアップできたなら……。





 怖がりの私は、いったいどうしたいんだろう?
 タイムリミットは迫っている。






「いらっしゃい」
 約束の時間に親友の朔の家を訪ねると、朔は何故か苦笑しながら玄関のドアを開けてくれた。
 それと同時に家の奥からは賑やかな笑い声と話し声が溢れてくる。
 訊き慣れない若い男性数人のそれに、望美は目を丸くして驚いた。
「どうしたの?」
 三和土には数足の男物の革靴。
 望美の靴より大きいそれらは、かなりのスペースを占領している。
 朔は溜息を吐きつつ、奥に目をやった。
「兄の大学時代の友人が遊びに来てるの。リビングにいるから気にしないで」
「景時さんの大学って医大だよね?」
「そうよ。今は付属病院を出て行ってる人が多いから。こちらで学会があったらしいわ」
 望美はスリッパを履き、朔に続いて二階へと向かった。







 綺麗に片付いた朔の部屋。
 でも絵葉書などが麻紐でお洒落に吊り下げられたりしていて、朔のさりげない遊び心が散りばめられた空間は望美にとって憧れだ。
「……もう制服はないんだね」
 いつも朔が通う高校の制服がかかっていた場所には、今はスプリングコートが掛かっている。
 朔はこの春、大学生になったのだ。
「卒業したもの。今年は望美が頑張る番よ?受験生さん」
「言わないでよ〜!!それでなくても頭痛いのに〜」
 可愛い顔を思いっきり顰めて悲鳴を上げる望美を、朔は一つ年上の余裕で笑っていた。







 望美が朔の部屋に来たのは、CDを借りるためと使わなくなった参考書を譲ってもらうためだった。
 けれどそこは女の子。
 おいしいと評判のブレンドティーを飲み、発売されたばかりのお菓子を摘みながら色々話していると、二人は時間を忘れてしまっていた。







「ところで望美?」
「ん?」
 朔がその話題を切り出したのは、そろそろお暇しようかな?と望美が腕時計を見た時だった。
「あなた、あれから“彼”とはどうなってるの?」
「っ!?」
 前置きなしの突然の切り込みに、望美はぐっと言葉に詰まった。
 そして恐る恐る朔へ視線を上げる。
 朔はまっすぐに望美を見つめていた。
「最近、あまり話さなくなったわよね?『ヒノエくん』のこと」
「……朔…」
「あなたが口を噤むのは、終わったのか悩んでいるのか、どっち?」
 望美の心に深く踏み込んでくる問いだけれど、親友とも姉とも慕う朔の優しい言葉は決して興味本位のものではない。
 望美はふ…と吐息を漏らした。
「……朔にはかなわないな」
「言いたくないなら別にいいのよ?」
「ううん。そうじゃないよ。なんか中途半端で、自分でもどうしていいかわからないの」
 こうやって朔にヒノエのことを話すのは初めてではない。
 でも今は、自分の迷いのせいか上手く言葉に出来ないもどかしさを感じた。
「中途半端?彼の態度が?」
「違う。自分の気持ちかな?」
 ヒノエはいつもストレートだ。
 行動も言動も。いつだって迷いはない。
 それに戸惑うのはいつも自分。
「……まだ返事してないの?」
「うん」
「かなり長いわよね?このままずるずると引き延ばすのは、彼にとっても酷だと思うわよ?」
 朔の言葉にずきりと胸が痛む。
 曖昧な態度な自分がどんなに酷いことをしているか分かっている。
 けれどどうしても今の場所から動けないのだ。
 ヒノエと離れたくない。でも踏み出すことも出来なくて…。
「………次に会う時に返事を聞かせてくれって言われたの」
「あら?とうとう痺れをきらしたのかしら?」
「……付き合わないなら、もう二度と会わないって…」
「0か100かってこと?」
「うん。……ねえ、私、どうしたらいいの?」
 握り締めた両手が僅かに震えている。
 臆病な自分がもどかしくて情けない。
 でもヒノエがヒノエである限り、この不安は無くならない。
「どうしたらって……。望美?あなた、彼が好きなんでしょ?」
「……うん」
「だったら、何故頷けないの?」
「……ヒノエくんが分からないの。それに住んでる世界が違うから怖い」
「……望美は臆病ね」
「朔…」
「彼は芸能人ですもの、望美の気持ちも少し分かる気がするけど考えすぎじゃないの?」
「そうかもしれない…」
 朔の言うとおり考えすぎかもしれない。
 でも近くにいたからこそ、ヒノエの圧倒的な存在感に不安を抱いてしまうのだ。
 俯いてしまった望美をしばらく静かな眼差しで見つめていた朔は、冷えたお茶で唇を潤して口を開いた。
「ねぇ、望美」
「何?」
「断ったら彼を永遠に失ってしまうことを忘れないでね」
 そう言った朔の瞳は、切ない哀しみで揺れていた。







「駅まで送るわ」
「いいよ、一人で大丈夫」
 階段を下りながら暗い帰り道を心配する朔に、望美が明るく笑ってみせる。
 駅までそう遠くないからと言うが、朔は自転車で送ると言って聞かない。
 そうまで言ってくれる厚意を無下にするのも申し訳なくてお願いしようとした時、リビングのドアが開いて朔の兄である景時が顔を出した。
「望美ちゃん、来てたんだ?」
「うん、お邪魔してました。お久しぶりです」
 ぺこりと頭を下げた望美に、景時は満面の笑顔を向ける。
 朔と少し年の離れた兄の景時は、望美にとって身近にいる大人の男性だ。
 幼馴染みとは違う景時の落ち着いた大人の雰囲気と気配りが、望美には憧れであり大好きなものだった。
「帰るの?」
「はい」
「兄さん、私、望美を駅まで送ってくるわ」
「僕が家まで送りましょう」
 三人の会話に割り入った声。
「え?」
 聞き覚えのあるその柔らかな声音に、望美が驚いて目を見開く。
「弁慶?」
 景時の後から姿を現したのは、さっきまで朔と話していた『グリフォン』のヒノエの片割れ弁慶だった。







「弁慶さん?」
 どうしてここに?と、望美が驚きを浮かべたまま首を傾げた。
「景時とは大学時代の友人なのですよ」
 手に持っていたジャケットを羽織ながら、弁慶はなんでもないことのように答えてくれる。
「弁慶、望美ちゃんと知り合い?」
 驚いたのは景時も同じだったらしい。
 だたしこちらは不審そうな眼差しを隠そうとしない。
 景時にじろりと見られた弁慶は、いつもの食えない微笑で返す。
「望美さんはヒノエの友人ですよ」
『友人』
 その響きに望美の胸がツキリと痛む。
 友人以外、自分はなんと言ってほしかったのだろう?
 ヒノエとの距離を縮められない自分は、『友人』というカテゴリーでしかありえないのに……。
「へぇ、ヒノエくんと友達か。意外だねぇ」
 景時は眉を上げて、少し驚きながら望美を見つめた。
 景時の視線を受けて、望美が不思議そうに問い返す。
「意外、ですか?」
「う〜ん、そうだね。意外だねぇ。友達ってのが意外」
「は?」
 どういうことかと聞き返そうとしたが、弁慶が軽く景時の肩に手をかけたので、望美はでかかった言葉を飲み込んだ。
「景時。望美さんをいつまでも引き止めてては失礼ですよ」
「あっと、ゴメン」
「僕が望美さんを送っていきますよ」
「え?でも…」
 遠慮しようとしたとたん、弁慶の笑顔が有無を言わさぬ迫力を持って望美に向けられる。
「女性が夜道を歩くのは危険です。景時の妹さんも送った帰りが心配です」
「私は大丈夫です。自転車で行きますから。それに飲んでらっしゃるのでは?」
 あくまで自分が送ると主張する朔だが、弁慶が軽く首を振った。
「いえ、僕はアルコールを一滴も飲んでいませんから」
「弁慶はこれから打ち合わせがあるんだってさ。朔、今日は望ちゃんを弁慶に任せよう」
 兄の言葉に、朔が少し不満そうな表情を浮かべる。
「でも…」
「電車より車の方が、望美ちゃんも早く帰れるからさ。頼むよ、弁慶」
「兄さん!」
「朔。私、弁慶さんにお願いするよ。朔が一人になった後心配なんだもん」
「望美…」
 自分を案じてくれる望美に、朔は笑顔でひとつ頷いた。








 弁慶が車を停めてある駐車場まで、外灯に照らされた暗い夜道を二人で歩いていく。
 弁慶とは何度か二人で話したことがあるが、ほとんどの場合近くにヒノエかスタッフがいた。
 こうやって二人っきりなのは数えるほどしかない。
 望美は弁慶の半歩後ろを歩きながら、その後姿をそっと見つめた。
 柔らかな光沢の長い髪がひとつに束ねられて、広い背中で揺れている。
 穏やかな表情は、ぱっと見はヒノエと似ていないが、湛える雰囲気のどこかが似通っているような気がした。
「君が景時の知り合いとは驚きました」
「え、あ、景時さんというか、朔と友達なんです。だから……」
「学校が一緒なのですか?」
「いえ。習い事が一緒なんです」
「何を習っているのですか?」
「え、っと…」
 弁慶は何気なく尋ねたのだろうが、望美は答えるのに一瞬戸惑ってしまう。
 考えれば、習い事のことはまだヒノエにも話したことがなかった。
 口ごもった望美を、弁慶は申し訳なさそうに振り返った。
「聞いては失礼でしたか?」
「いえ、ダンスを習ってて…」
「ダンス?ああ、だからお二人ともとても姿勢がいいのですね」
「そうですか?」
「ええ。その車です、どうぞ」
 弁慶は自然な動作で、助手席のドアを開けてくれた。
 ヒノエと同じく、弁慶も当たり前のようにレディーファーストを実行してくれる。
 望美はくすぐったいような嬉しさを感じながら、礼を言って助手席に乗り込んだ。







 弁慶に聞かれるまま自分の家の住所と道を伝えた望美は、心地よい振動に身を委ねていた。
 弁慶の運転はとても丁寧でスムーズだ。
 車の中に流れるのはジャズ。
 狭い空間の中にいるのに、不思議と気詰まりな感じはしない。
 望美はリラックスして、車窓を流れる対向車のヘッドライトを眺めていた。
「いつも夜遅くまで景時の家にいるのですか?」
 問われて、望美はまっすぐ前を向いて運転する弁慶の横顔に目をやった。
 暗い車内を通り過ぎるライトの光が、メトロノームの刻むリズムのように、時折弁慶の顔を明るく照らし出す。
「今日は特別です。いらなくなった参考書を朔から貰おうと思って…」
「ああ、君は確か受験生…」
「言わないで下さいよ。それでなくても頭が痛いのに……」
 頭を抱えてしまった望美をちらりと見て、弁慶がくすくすと笑う。
「月並みなことしか言えませんが、頑張ってくださいね」
「はい」
 望美は顔を上げて、弁慶に向かってにっこりと笑った。
「私も驚きました。弁慶さん、景時さんとお友達だったんですね」
 景時との関係を可愛らしい言葉で表された弁慶は、面白そうに笑った。
「……友達…かどうかは別として、彼は大学の先輩です」
「大学…?もしかして弁慶さんって医学部出身なんですか!?」
 弁慶が音楽活動以外をしていたなんで驚きだ。
 グリフォンのプロフィールにもそんな事は一字も書いていない。
「ええ。結局、途中でこちらの世界に飛び込んでしまいましたが……」
「お医者様よりも音楽を選んですね」
「そうです…。医学の道も捨てきれなくて迷いながら進んだ大学でしたが、僕には音楽が医学よりも必要だと思い知ったんです」
「すごいな、弁慶さん。夢がたくさんあったんだ…。私なんて全然ないのに」
 将来も、ヒノエとのことも悩んでばかりだと、望美は自分自身を不甲斐無く思う。
「そんなことはないでしょう?」
「いいえ。だって大学だって漠然と行かなきゃいけないと思ってるだけです。大学卒業してそのまま就職できるところに就職してOLになっちゃいそうです。これをやりたいって言うのがないから…」
「明確な何かが夢じゃないと思いますが?きっと君はまだ夢を掴むために世界を広げている途中なのですよ」
「でも、ヒノエくん見てると少し焦ります。年は変わらないのに、しっかりと先を見つめてて…」
「ヒノエはヒノエです。君は君。まずは目の前の受験を頑張らなければ、何も始まらないと思いますが?」
「……その通りです…」
 弁慶の正論に、望美は溜息を吐くだけだった。







「弁慶さん、聞いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「…弁慶さんからみたヒノエくんって、どんな感じなんですか?」
「どんな感じ、とは?」
「え〜っと、性格とか」
「それは望美さんがよくご存知でしょう?」
 弁慶は静かな笑みを湛え、ちらりと望美を流し見た。
 すべてを見透かすような弁慶の深い眼差しに、望美は思わず視線を僅かに外してしまう。
「私が知らないヒノエくんを、弁慶さんは知ってると思って…」
「まあ、確かに。けれど僕が知らないヒノエを君は知ってる。それだけでは足りませんか?」
「足りないってわけではないけど……」
「それに、フェアではないので、今は君の質問に答えるわけにはいきません」
「フェア?」
「君とヒノエのスタンスがはっきりすれば、いつか教えてあげますよ。君が知らないヒノエを…」
「弁慶さん…」
 まるで今の望美とヒノエの微妙なバランスをすべて知っているかのような言葉。
 望美は戸惑って自分の膝に置いた手へ、視線を落とした。







 それっきり望美と弁慶の間に会話らしい会話はなかった。
 時折、望美が弁慶に道を教えるだけ……。








 そしてやがて望美の家の近くに辿り着いた。
「ここでいいです…」
「大丈夫ですか?」
 まだ幹線道路沿いで、住宅街には入っていない。
 車から降りる望美の背へ、暗い夜道の一人歩きを心配する弁慶が声をかける。
 望美は大丈夫とひとつ頷いてドアを閉めた。
 しかしそれで納得しなかったのか、弁慶が窓を開け望美に声を掛ける。
「危ないですよ」
「大丈夫です。ここから家は見えますから」
 指し示す先は、外灯があるが少し薄暗い。
 弁慶は心配そうに溜息をついた。
「では、望美さんが家に入るまでここで見ていますから」
「すみません。ありがとうございます」
 望美は素直に弁慶の厚意を受け取った。
 すると弁慶は何かを思いついたのか、そういえば…と言葉を繋いだ。
「君に一つ言い忘れたことがありました」
「言い忘れたこと?何ですか?」
 背を屈めて窓からドライビングシートの弁慶を覗き込み、望美が小首を傾げる。
 弁慶は柔らかく微笑んで言った。
「一度、フィルターを取ってみませんか?」
「え?フィルター?」
 何のことだろう?
 訳が分からずきょとんとする望美の頬へ、弁慶が手を伸ばした。
 車中を覗き込んでいる望美の頬にぎりぎり届いた、弁慶の指先。
 かすかに触れたそれに、望美の鼓動が跳ね上がる。
「べ、弁慶さんっ!?」
「グリフォンというフィルターですよ」
「え?」
「先ほど、君は僕から見たヒノエの事を聞きましたね?でもそれより先に考えてみてください。君はヒノエをどう見ていますか?」
「………どうって…」
「ヒノエが君と出会う前から、君はヒノエを知っていた。『グリフォンのヒノエ』として。けれどヒノエは君の同級生や先輩となんら変わりませんよ。『グリフォン』というフィルターを取り払った時、君の目にヒノエはどう映るのでしょうね?」
「……」
「引き止めてすみません。さあ、もうお帰りなさい」
「弁慶さん、どうして……」
 望美のつぶやきのような疑問に、弁慶は笑うだけで答えない。
 そしてその目で早く帰るように促され、望美は動揺を隠せないまま弁慶と別れの挨拶を交わすと逃げるように家へ向かったのだった。







『グリフォン』というフィルター。
 わからない。
 ヒノエが望美の前に現れた時から、彼は『グリフォン』だったから。
 テレビで、雑誌で、ポスターで見る彼は、いつだって違う世界の人だった。
 






 望美と会う時だって、その場の雰囲気を一瞬にして変えるオーラを持つヒノエをどこか特別だと思っていた。






 でも……。







 望美は自宅の門扉に手をかけ、弁慶の車が停まっている場所を振り返った。






 
 車中の弁慶は見えない。







 タイムリミットまであと少し……。










<終>