冬の足音が聞こえ始めた、秋の終わり。
リビングの窓から降り注ぐ柔らかな日差しを受けながら、ヒノエはソファーに座ってそれを読んでいた。
「コーヒー、ここに置くね」
コーヒーの芳醇な香りを立ちのぼらせるマグカップが、テーブルの上に重ねられた手紙の束の横にカタリと置かれる。
「サンキュ」
ヒノエはちらりとマグカップの位置を確認すると、再び手元の便箋に視線を移し片手をマグカップへ伸ばした。
周りの音や声を意識から排除して、真剣な表情で手紙を読んでいるヒノエを見て、望美は軽く肩をすくめただけで、ソファーの空いた場所に腰を下ろした。
ヒノエが座るソファーの端。二人の間は、一人分とちょっとの距離。
テーブルの上には、さっきまで望美が読みかけていたミステリー。
作者が好きで買ったのはいいけれど、心理描写が怖くて一人で読めなくなった代物だ。
だから読むときは誰かが望美の傍にいる時となり、おのずとその本は恋人であるヒノエの部屋に置かれた。
ヒノエの部屋に遊びに来たら、暇を見つけて少しずつ読み進む。
少しずつ読み進めた本は、もう下巻の半分を過ぎてしまった。
それだけ長い時間、ヒノエと一緒に過ごしたのだと思うと、読み進んだページ数が少し嬉しい。
でもいつもじっくり読めるわけではない。
退屈したヒノエが、すぐに望美の読書を邪魔するからだ。
だからいつもヒノエの傍で読めるのは、少しだけ。
でも今日はたっぷりと読めそうだ。
何故なら、いつも読書中の望美にちょっかいをかける男が、望美を忘れたかのように真剣に目を通しているものがあったから。
それは『グリフォンのヒノエ』に送られてきた、ファンレター。
綺麗に揃えて束にされ、事務所から届けられたそれは何十通あるのだろうか?
カラフルなレターセットや和風のもの。
様々な紙に綴られた、熱く温かな思い。
ヒノエはそれを大切に一通一通読んでいた。
書いている内容に、ふっと笑みを零したり、考え込んで眉間に皺を寄せたり。
やるせない溜息が漏れることもある。
でもそれは、すべて「グリフォンのヒノエ」だから、望美はただ見ているしか出来ない。
口を出すこと、尋ねること。それは望美がやってはいけなことだから……。
しばらくヒノエの横顔を見ていた望美も、やがてソファーに身体を預け、膝の上で本を開く。
大好きな紅茶と甘いチョコレート、そして本。
傍らには大好きな人の温もり。
会話なんてなくてもいい。
二人、別々のことを考えていてもいい。
同じ空間にいる幸せ。
お互いの存在をすぐ傍で感じられる安心感。
それだけでいい。
穏やかな秋の午後が静かに過ぎていく……。
******
秋の日差しは傾くのが早い。
リビングに差し込む光が、少しずつ強さと明るさを落としていく。
ヒノエは最後の手紙を読み終え、それを丁寧に封筒に戻すと、軽く目頭を押さえた。
たくさんの人たちからヒノエに向けられた想いを、一言一句見逃すまいと、ヒノエはいつも集中して届けられた手紙を読む。
一通一通、ひとつとして同じものがない手紙。
書き綴られた癖字は、懸命にヒノエへ語りかけてくる。
楽しさや切なさ、自分ではどうにも出来ない、人に言えない苦しみや悩み、そして溢れんばかりの幸せな想い。
手紙に綴られている想いは千差万別。
でも、ヒノエはそれを受け取ることしか出来ない。
ひとつひとつ大切に読んでいるけれど、返事を個別に返すことなんて不可能で……。
ありきたりなことかもしれないが、ヒノエを想ってくれている人達の心に自分の歌を届けられたらと、いつも願って読み終えた手紙を置く。
ヒノエが読み終わった手紙の横には、空になったマグカップが二つ。
ヒノエは何度か目を瞬かせると、そっと隣を窺った。
「……寝ちまったか」
隣で本を読んでいたはずの望美が、クッションに頬を埋め気持ちよさそうな寝息を立てている。
読みかけの本は、ページを開いたまま胸に押し付けられていて……。
ヒノエはふっと微笑みを浮かべると、ソファーを揺らさないようゆっくりと立ち上がった。
戻ってきたヒノエが手に持っていたのは、薄い綿毛布。
ヒノエは寝ている望美を起こさないよう、本にそっと指先を引っ掛けた。
「……ん…」
望美の手からゆっくり本を引き抜くと、その動きに触発されたのか、望美がごそごそと寝返りを打つ。
無意識でも寝やすい体勢を探して動き、再びくうくうと気持ちよさそうに力を抜いた。
「オレが転寝すると風邪をひくってうるさいくせして、自分はこれだもんなぁ……」
ヒノエは苦笑しながら、望美の体を綿毛布で覆った。
クッションに顔を埋める望美は、うっすらと幸せそうな笑顔で……。
それがあまりに微笑ましくて、ヒノエの悪戯心が刺激される。
ヒノエは指先で望美の頬をつんつんと突いた。
「ねえ、どんな夢を見てるの?」
答えは無い。
返ってくるのは規則正しい寝息だけ。
愛しい女は夢の中で遊んでいて。
ヒノエに微笑みかけてもくれないのに。
どうしてこんなにも心が満たされるのだろう。
傍らにある温もり。
ただそれだけで幸せになる……。
******
部屋に薄闇が迫る頃、望美はぽっかりと目を覚ました。
また落ちかけそうになる瞼を二、三度瞬かせ、ゆっくりと起き上がる。
その拍子に、肩からさらりと綿毛布がすべり落ちた。
「え……?」
薄暗い部屋の状況を掴もうと視線を廻らせば、ソファーの反対の端でヒノエが俯いて転寝をしているのが目に入った。
先ほどまでヒノエが読んでいた手紙は、綺麗に纏められてテーブルの上にある。
代わりに彼の膝の上に乗っていたのは、望美が読みかけている本の上巻だ。
どうやら、ヒノエも読み始めたらしい。
望美よりも読むペースの早いヒノエは、読み始めるタイミングによっては、先に読み始めた望美に追いついてしまうことがある。
いつもそれを避けるために、興味を惹かれた本でも望美が読み終わるのを待つのだが…。
今回は望美の残りページを見て、上巻を読み始めたようだった。
しかしヒノエは本を読みながら、連日の睡眠不足で眠りへと誘われたのだろう。
「………風邪ひくって何度言わせるかな?」
自分のことは棚に上げ、望美は少し怒って眉間に皺を寄せた。
そして自分に掛けられた綿毛布に視線を落とす。
「私には甘いのにね……」
溜息ひとつ。
望美も本を読みながら眠りに落ちたはずなのに、本はテーブルの上にある。
しかもちゃんと栞が挟まれて。
望美は自分の読みかけの本を手に取ると、少しだけ座る位置を移動して、眠っているヒノエにぴったりと寄り添った。
そしてヒノエの膝から本を取り上げ、開いていたページに栞を挟んでテーブルに置く。
望美は自分の身体を守ってくれていた綿毛布を広げると、ヒノエの身体と自分の身体を覆った。
それから横目でヒノエを窺いながら、そっと手を伸ばす。
起こさないようにそっとそっと、望美がヒノエの頭を傾かせる。
角度と位置を測りながら……。
ことりと自分の肩にヒノエの重さが掛かった瞬間、彼が目覚めなかったか窺うが、ヒノエは穏やかな寝顔を見せていた。
「あと少しだけいいよね?」
夕食の用意まで、もう少しだけ余裕がある。
リモコンで部屋の明かりをつけて、望美は膝の上で読みかけの本を開いた。
だから望美は知らない。
目を閉じたままのヒノエの唇が、ゆっくりと幸せそうな笑みを刻んだことを……。
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