「………………は?」
 プリンターの前で、吐き出されたばかりの紙を見つめたまま固まっていた望美が突然素っ頓狂な声を上げた。
 驚いた同僚達が一斉に、パソコン画面から望美へ視線を移した。
「望美、どうしたの?」
「…………誰か、幻と言って。目の錯覚と言って……」
 プリントアウトされた紙を凝視し、ふるふると震えながら望美が小さく呟く。
 その声が、なにか黒いものを纏っているようで同僚たちはお互いに顔を見合わせた。
「望美?」
「どうしたの?」
 心配そうな同僚たちの声を背に、突然望美は勢いよく振り返った。
「データがありません!」
「は?」
 望美の言いたいことが咄嗟にはわからなかった彼女たちが、望美に問い返す。
 望美は手に持っていたデータを、びしっと突き出した。
「入力して、サーバーに送信したデータが無いんです!綺麗さっぱり無いの!!」
「ええっ!?」
 衝撃の事実に、同僚たちは声を上げて立ち上がった。







 望美の勤めている会社は、サーバーやパソコンの総入れ替えを二ヶ月前から行ってきて、動作テストなどを経て本日から新システムへ移行したのだった。
 だが……。
「いいかげんにしてよー!!」
 望美は自分のクライアントの前で、がっくりと肩を落とした。
 机の上には、半日かけてデータを入力した書類の山。
 これが綺麗さっぱり飛んでしまったのだ。
「望美…。システム担当者に連絡したら?」
「うん、そうする……」
 同僚のアドバイスに頷き、望美は力なく内線を取り上げた。
「きゃ〜!私も画面がっ!!!入力データがっ!!」
 システム担当者と電話が繋がる前に、他のクライアントで入力していた女性の悲鳴が上がる。
 同じような厄災に見舞われた彼女へ同情の眼差しを向けつつ、望美は大きな溜息をついた。
 






「で、どうだって?」
 電話を切った望美に、まわりの同僚が不安そうに尋ねてきた。
 いつわが身に降りかかるかもしれないトラブル。
 見切り発車なのはわかっている新システムなので、社員はあまり信用していないのだ。
 望美は疲れきって肩を落とした。
「原因不明。ただ、本部のシステム課にも電話が繋がらないらしいです。他支部に聞いたら同じようなトラブルが起こってるって。……うちだけじゃないみたいです」
「ホント?」
「はい。…山野さん、さっきデータ消えた時はどうでした?」
 望美は自分が電話をかけている時に、悲鳴を放った同僚に視線を向けた。
 望美よりも少し年上の女性が、ふぅ……と息をついた。
「わからないの。突然、システムの初期画面になって……。入力完了してないデータが綺麗さっぱり……」
「……大丈夫でしょうか?」
 望美達は新しいクライアントに不安そうな目を向けた。








「………原因わかりました」
「何々?」
 作業が止まって二時間後、システム課からの電話を受けた望美が、その事実を知って力なく同僚を振り返った。
 戦々恐々として入力業務を続けていた同僚達の目が、一気に望美へ集まった。
「システムプログラム配信ミス」
「はい!?」
「配信したシステムのプログラム自体が間違ってたそうです」
「嘘でしょーーーーーーーー!?」
 フロア全体に、大きな叫び声がこだました。








「また入力のやり直し。本日はたっぷりと残業です」
 今日は今週最後の出勤日の金曜日なのに……。
 残業命令を下された社員は全員、システム課への呪いの言葉を心の中で吐いていた……。









「………ごめんなさい。そういうことで今日のデート、キャンセルさせて」
 五時過ぎに、望美は会社の給湯室でこっそりと携帯をかけていた。
『残業じゃ仕方ないね』
 電話の向こうでヒノエが僅かに残念そうな苦笑を浮かべた気配がした。
「ごめんね、ヒノエくん。せっかく時間空けてくれたのに。来週に持ち越せない仕事なの。……たぶん、9時過ぎまでかかるから…」
『オレのことは気にするなよ。今度、お前に穴埋めしてもらうしね。それより、無理するなよ?』
「うん、ありがとう。本当にごめんね」
 なんだか、ちょっと含みがあるようだけど、そこは気づかなかった振りをしようと望美は突っ込むのをやめた。
『気にするなって。…いつもはオレがお前を待たせたりするしさ』
「ありがと。……あ、ごめん、仕事に戻らなきゃ」
『ああ、無理するなよ』
「うん、じゃあね」
 同僚が自分を呼ぶ声が聞こえてきて、望美は慌ててヒノエとの電話を切った。






「買ってきたよ〜」
 買出し部隊の数人が、食料の入った買い物袋を掲げながら戻ってきた。
 残業が決まった社員は、めいめい頼んだものを受け取り、がさがさと包みを開く。
 これを食べ終わったら、怒涛の入力作業が待っている。
 だが軽食を食べる間、集まった女性たちは週末の夜を潰された愚痴を言い合っていた。
 友達との待ち合わせや、デート、ショッピングの予定。
 みんなそれぞれ楽しみにしていたのにと、ぼやきまくっている。
 もちろん望美もその中の一人だ。
 






 なぜなら久々にヒノエとデートの約束をしていたのだから。
 やっと時間の取れたヒノエと一緒に、以前から気になっていた創作和食のお店にいくはずだったのに……。
 






 望美の恋人は、いつもスケジュールに追われている。
 それに仕事柄、夜型の生活サイクルのヒノエは、どうしても望美の生活サイクルとずれが生じる。
 けれど付き合い始めた高校時代や大学時代は、望美もヒノエの都合に合わせやすかったら、よく逢っていたのだが……。
 望美が大手企業に就職してからは、そうもいかなくなった。
 予定外の残業や、飲み会、出張などで、望美も拘束される時間が長くなった。
 その分、ヒノエのオフとは合わなくなってきたのだ。
 





 
 ヒノエは望美と出会う前から、グリフォンという人気ロックユニットでボーカルとして活動している。
 活動7年目に入る彼らは、音楽業界で不動の地位を築いていた。
 シングルは常に初登場第一位、アルバムはミリオンセラー。







 それらを当然と思われることは、いったいどれだけのプレッシャーなのだろう?
 でもヒノエはいつも笑って楽しそうに、グリフォンの活動を精力的にこなしていた。
 ヒノエにとって、グリフォンは何ものにも変えられないかけがえの無いもの。
 常に何か新しいものを目指して突き進む姿を、望美はいつも尊敬の眼差しで見つめていた。
 だからヒノエの邪魔はしたくない。
 






 毎日が忙しいヒノエが、やっと空けてくれた望美の為の時間。
 おいしい料理を食べて、ゆっくり過ごすはずだったのに………。
 






 望美は恨みがましい目で、これから向き合うクライアントを睨み付けた。






「終わった〜!」
 プリンターから打ち出されたチェック票を確認し、望美は諸手を挙げて喜んだ。
 時刻は21時過ぎ。
 望美が予想したとおりの時間だった。
「やっと帰れる〜!」
 データ送信が終わってしまって、なんとか業務をすませた皆がほっと大きな安堵の息を吐いた。







 まだ残って作業をしている男性社員に帰宅の挨拶をし、望美は仲のいい数人の女性社員と一緒に会社を出た。







「ねえ、ちょっとファミレスで何か食べて帰らない?」
「いいわね。お腹すいた〜」
「早く行こ!」
 きゃあきゃあと騒ぎながら、賑やかに望美たちは通用口から夜の街に飛び出した。
 ヒノエとのデートがダメになったのは残念だけど、みんなで騒ぎながら食事をするのもいい。
 望美たちは、軽く食事をするために近くのファミレスに行くことにした。







 ビジネス街の裏通り。夜は表通りに出るまではあまり人通りがない。
 22時近いこの時間は、女の一人歩きは少し躊躇うくらいだ。
「あ、ちょっと待って、電話」 
 一緒に歩いていた同僚が、バッグの中で震える携帯に気づいて歩みを止めた。
 それに合わせて望美たちも足を止めて振り返る。
 どうやらメールだったようで、彼女はディスプレイを確認した後、申し訳なさそうにしつつも嬉しそうに手を合わせた。
「ごめん。彼が迎えに来てくれるって」
「あ、抜け駆け〜」
「ごめんって、ファミレスはキャンセルね?」
「仕方ないな」
 わざとらしく咎めるけれど、みんなの目は笑っている。
 友達が嬉しそうだと、こっちまでその気持ちのおすそ分けをもらえるから。
「ごめん、またね〜」
 すぐそこまで彼氏が来ているのだろうか?
 彼女は手を振ると、慌てて駆け出していった。








「うらやましいわね〜、優しい彼で」
「ほんとほんと」
 くすくす笑いながら、残されたメンバーがファミレスへを足を向ける。
「私の旦那なんて、迎えに行こうかなんて言ってもくれないわ」
「私の彼氏も同じく〜」
 愚痴りながらも、別に怒っているわけではない。
 ただちょっと気の利かない彼と比べてもどかしく思うだけ……。
「ねえ、望美の彼氏は?」
「え?私?」
 不意に話を振られて、望美は驚いて問いかけてきた同僚を見た。
「うん、結構付き合い長いって言わなかった?」
「あ、うん。長いと思うよ。高校時代からだから……」
「え〜、すごいね。結婚は?」
「結婚!?」
 あまり考えていなかった方向へ話を向けられて、望美が目をぱちくりとさせて驚く。
 その驚きようが意外だったのか、同僚たちはくすくすと笑った。
「そこまで長い付き合いなら、もうそろそろ考えてもいいんじゃない?」
「そ、かな?」
「そうよ。……長すぎた春、ってなっちゃうわよ?」
「それはないと思うけど……。向こうが忙しいし……、私もまだそこまでは…」
 歯切れ悪く答える望美。
 彼女たちはそれじゃダメだよ、と首を振る。
「忙しいって言葉で誤魔化されてるって。一度きっちり話しつけとかないと、人生損するよ?」
「損って……」
「男は逃げちゃうからね〜」
「逃げるって人聞き悪いな〜。でも、その心配はない、かな?」
 小首を傾げて何気に惚気てみせる望美を、ごちそうさま!などからかうように笑った。








 皆で笑いさざめきながら歩いていると、その横の車道をスピードを落としつつ追い越していったスポーツタイプの外車。
 シルバーメタリックのそれは、十数メーター先で滑らかに止まった。
 そして左側のドアが、かちゃりと開く。
 ビジネス街の大通りから一本入ったこの道に、派手なネオンなんてないけれど。
 街の明かりに浮かび上がる彼の赤い髪は、ネオンよりも鮮やかな印象で皆の瞳に飛び込んできた。
「……グリフォンのヒノエじゃない?」
 誰が気づいて呟いたのか。
 小さな声は、皆の雑談を止めるには十分な威力だった。
 車から地面に降り立った彼は、軽く髪を掻きあげて彼女たちに目を向けた。
 微かな声が上がるけれど、そこは大人。
 突如現れた有名美形ボーカリストに対して、みっともなく騒いだりしない。
 それでも、押さえ切れない興奮がお互いを突付きあっていた。








 ヒノエは女性グループの中に、望美を見つけ軽く笑った。
 顔を隠す気など、さらさらないらしい。
 いつも堂々としているヒノエらしいといえばそれまでだけど。
 望美はヒノエと目線を合わせて、微苦笑を浮かべた。








「お疲れさん、いいタイミングだったぜ。迎えに来たよ、望美」
 瞬間、皆の刺さるような視線が望美に向けられる。
 絶対わざと皆の前で望美の名前を口にしたヒノエを、ちょっとだけ睨みつけた。
 だがヒノエにはどこ吹く風だ。
「望美?」
 同僚の問いかける眼差しに、観念して望美は素直に言った。
「ごめんね、彼が迎えに来たから帰るよ」
「……彼?」
 唖然、呆然。
 でも詳しく説明するのもなんだか変なカンジだ。
「うん、彼」
 だからあっさり頷いて、望美はヒノエへと駆け寄った。








「びっくりした。迎えに来てくれるって思ってなかった」
「オレはいつ迎えに来いって言ってくれるか待ってたんだぜ?連絡無いから勝手に来たけどね」
 そう言って笑うヒノエは、悪戯に成功して満足している子供のようだ。
 望美は敵わないなと笑って、ヒノエの顔を見上げた。
「ありがと」
 その一言が、ヒノエの笑みをより一層深いものした。








「望美〜」
「何?」
 同僚に呼ばれ、望美が振り返る。
 ヒノエもつられて彼女たちに目を向けた。
「きっちり話しつけたほうがいいよ〜」
「なっ!」
「そうそう。きっちりね?」
 からかいを十二分に含ませて、同僚たちが騒ぐ。
「よけいなお世話〜」
 望美はちょっと怒った振りをして、同僚に言い返した。
「何の話?」
「ヒノエくんには関係ない」
 あっちに行ってといわんばかりに、望美が自分を覗き込んでくるヒノエを手で追い払おうとする。
 それを見ていた同僚から笑い声が上がった。
「関係あるじゃん!」
「関係大有り!」
「ん?」
 きゃあきゃあと姦しく騒ぐ女性陣に、ヒノエはふっと目を向けた。
 その不意打ちの眼差しに、一瞬皆の声が止まる。
 それを狙って、ヒノエがふわりと笑った。
「オレに関係してるの?何?教えて?」
「あ〜、もう!聞かなくていいから帰るよ、ヒノエくん!」
 望美はヒノエの身体を車に押し込もうとするが、細身に見えてもやはり男。
 ちょっと力を入れれば、望美にはヒノエを動かすなど無理だった。
「教えてくれよ」
「望美と長すぎる春の問題」
「みずえ!」
「ああ…」
 同僚の簡潔すぎる一言でも、勘のいいヒノエは分かったのだろう。
 軽く頷いて、にっこりと笑った。
「長すぎる春にする気はないよ。ま、期待しててくれ」
 仕上げにぱちんと片目を瞑れば、小さな悲鳴が上がる。
 ヒノエのノリのよさとは反対に、望美は溜息交じりで頭を抱えていた。
「……サービスしすぎよ」









「望美の会社、明るい人が多いみたいだね」
 ヒノエが運転する車の中、シートに身体を預けて目を閉じていた望美は頭を動かしてヒノエの横顔に目をやった。
「さっきの人たちのこと?」
「そう。皆で楽しそうに歩いていたから、自然と目が行ってすぐに望美を見つけられたよ」
「いい人たちだよ。でも、ちょっと噂好きかな?」
「それはどこでも一緒だろ?気が合うのは見てて分かった。そして少々おせっかいなのもね」
 ヒノエが何を指しているかわかった望美は、ちょっと複雑な表情を浮かべた。
「悪ふざけだよ、忘れて?」
「忘れることは出来ないけど……、まだ、なんだろ?」
「……うん。もう少しね……」
「だったらまだ言葉にはしないさ。誰かに急かされてってタイミングはオレも嫌だしね」
 望美の気持ちを考えてくれるヒノエがうれしい。
 ヒノエと一緒に歩む道を考えていないわけじゃない。
 むしろ、それ以外を考えることはできない。
 でも今じゃないと思うから……。








 大学を卒業して、やっと社会人として一歩を踏み出したばかり。
 もう少し色々なことを経験して、視野を広げていきたい。
 望美よりずいぶん早く実力で今の立ち位置を決め、今もなお上を目指して歩き続けるヒノエに少しでも追いつきたいから……。







 そんな望美の思いを理解してくれ、ヒノエは『その言葉』をまだ口にすることは無い。







「ありがとう、ヒノエくん」







 二人が新しい扉に手をかけるのは、もう少し先のことになる……。

















<終>






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