2年ぶりにグリフォンのライブツアーが開幕した。
雪が舞う寒い季節。
全国5ヶ所を回るアリーナツアー。
グリフォンが作り出す、誰も知らない黄金の理想郷。
『El Dorado』
それが今回のライブツアーのタイトルだった。
「まったく……、何を考えてるんだか、ヒノエくんは…」
望美は開場時間よりかなり前、物販開始時間にライブ会場前の広場で腕を組んで溜息を吐いた。
寒さで息が白く曇る。
天気予報でこの冬一番の冷え込みと言っていた通り、身を切るような冷たい風が望美の長い髪を弄っていく。
今日はこの会場で行われるグリフォン2DAY'Sライブの二日目。
都合が悪くない限りグリフォンのライブに足を運ぶ望美は、いつものように最も近い会場のチケットを確保していた。
恋人であるヒノエには、何も言っていないが。
付き合い始める前はヒノエにライブへ誘われていたが、恋人のポジションに立ってからほとんど誘いはない。
ライブに来るも来ないも望美の自由というわけだ。
だから望美もライブに行く事を言わないし、ヒノエも聞いてこない。
ところが昨夜何故か突然、ヒノエから望美がライブに来るか確認の電話があったのだ。
珍しいこともあるなと思いつつ望美が行くよと答えたら、どうしてもこの時間に来てくれと頼まれた。
しかしその理由をどんなに尋ねても、ヒノエは一切教えてくれなかった。
ただツアーグッズの物販開始時間に、広場にある噴水のところにいてくれと言われただけ。
だから望美は一緒にライブに行く友達と約束した時間より、かなり早く会場に来ていた。
同じ会場でのライブ二日目だからだろうか?
物販に並ぶ人が意外と少なく感じる。
でもすでにライブに向けてテンションを上げているファンも多く、集まったファン同士で記念撮影をしているグループもあった。
そして誰もが思い思いのファッションで、グリフォンのライブを彩っている。
まるでお姫様のようなドレスやウエディングドレスを纏った人、グリフォンのコスプレをしている人。
ハードなパンク系、お人形さんのようなゴスロリ。
まるでボーダーラインの無いファッションショーのようだ。
昨日は仕事の都合で開演時間ぎりぎりに駆け込んだため、こんなにゆっくりと開場前の雰囲気は楽しめなかった。
もちろんグッズを見る暇も無く…。
だから望美はヒノエからの連絡を待ちつつ、物販のテントに貼られたグッズの写真を興味深げに眺めていた。
突然、握っていた携帯が震えだす。
望美は携帯を開くと、通話ボタンを押して耳に当てた。
「はい」
『望美?』
ワンテンポ置いて聴こえてきたのはヒノエの声。
ヒノエの後ろのざわめきは、スタッフが行きかう音だろうか?
「うん。そうだよ。もう噴水のところにいるんだけど、何をすればいいの?」
『早いな。そのままそこにいて。今から行くから』
「は?!行くって誰が!?」
予想もしていなかったヒノエの言葉に、望美は思わず驚きの声を上げた。
『オレ。5分後に行くから待っててくれよ』
「ちょ、ちょっと待ってっ!………って切れちゃった…」
望美はヒノエが何をしたいのか分からず、顔を顰めて切れた電話を閉じて握り締めた。
ヒノエは望美がいる場所に行くと言ったけれど、ここはグリフォンのファンが大勢集まり始めている。
望美は心配そうにヒノエがいるはずの、目の前に建つアリーナを見上げた。
「待ったかい?」
ものすごく聞きなれた声と共に、後ろから望美の肩がぽんぽんと叩かれる。
望美は驚きにびくっと身体を揺らし、信じられない思いで恐る恐る振り返った。
「………何してるの?」
「冷たいな、望美…」
ひょいっとおどけて肩をすくめたのは、数時間後に1万人以上の前でスポットライトを浴びて歌うカリスマボーカリスト『グリフォンのヒノエ』だった。
目深に被った黒いニット帽と顔を半分ほど覆い隠すような大き目のサングラス。
箔押しの柄が入った黒いデニムにはシルバーのウォレットチェーンが揺れている。
ヒノエは寒そうに黒いライダースジャケットのポケットに手を突っ込んで、きょろきょろと周りを見回した。
「もう来てるヤツって意外と多いんだな」
「……当たり前でしょ。って、どこからどうして来たのよっ!」
「ん?あっちの大通りで車降ろしてもらってさ。歩いて来た」
ヒノエが指を指したのは、車通りの多い幹線道路。
最寄のバス停もそちらにあり、そこから歩いてくるファンも多い。
「ところでこれは何の酔狂?……暇なの?」
「ひどいな……。酔狂でも暇でもないぜ。いわゆる罰ゲームってヤツさ」
「罰ゲーム??」
望美が不思議そうに小首を傾げると、ヒノエは溜息ひとつ吐いて空を仰ぎ、情けないけど…と呟いた。
「ライブで歌詞間違えるのが多くてさ。昨夜のライブで3ヶ所以上間違えたら罰ゲームって賭けてたんだ。そしたら余計意識して自爆した」
「……派手に歌詞飛んでたもんねぇ…」
そのシーンを思い出しながら、しみじみと呟く望美へヒノエは苦虫を噛みつぶしたような表情を見せた。
昨夜のライブで、ヒノエは珍しく1フレーズだけ歌詞を忘れて歌えなかったのだ。
すぐに弁慶のコーラス部分に入ったので、苦笑いを浮かべながら持ち直したのだが……。
「それで罰ゲームだって、叩き出されたわけ」
「叩き出されたって…。どんな罰ゲームなの?」
叩き出すにしても、時と場所というものがあるんじゃないだろうか?
よりによって、グリフォンのライブ直前の会場前なんて……。
しかもヒノエの傍には、マネージャーも誰もいない。
ファンの中に、ヒノエ一人だけ。
パニック状態になりかねないのに何故?
だが、ヒノエの教えてくれた罰ゲームの内容ですべて納得してしまった。
「『ツアーパンフを物販で買って来い』だと」
「……ヒノエくんがパンフ買うの?」
アリエナイと、望美の瞳が驚きに見開かれる。
「仕方無いだろ。それが証拠なんだからな」
そっぽを向いて不貞腐れたように吐き捨てるのは、きっと照れ隠しだ。
自分達のツアーパンフをファンに混ざって買うなんて、誰が考えたのかわからないがかなり恥ずかしい事に違いない。
罰ゲームだから仕方ないが…。
「だから物販開始時間だったんだ…」
合点がいったと頷く望美。
ヒノエは申し訳なさそうに声を潜めた。
「そ。もしかしてオレが『ヒノエ』に似てるって話しかけられるかもしれないしさ。甘えて悪いんだけど少しオレに付き合ってよ」
「要するに弾除けね?」
「ごめんって」
片手を顔の前に立てて望美に詫びるヒノエの瞳はサングラスに隠れて見えないが、さぞかし困った光を浮かべているのだろう。
望美はわざとらしく呆れを存分に含んだ溜息をついてから、にっこりと気取った笑みを見せた。
「仕方ないわね。付き合ってあげるわ」
「悪い」
「どうせ私もパンフ買うつもりだったから大丈夫よ」
「あ、じゃあ、オレが買ったヤツを貰ってくれない?色も付けるぜ?」
「色?」
「今日は寒いからブランケット。他には?」
グッズのブランケットは生地が柔らかそうで、望美も欲しいと思っていたものだ。
「うーん…。ストラップかな?」
今回のストラップは、スワロフスキーが使われたピンクゴールドのエレガントなデザインで望美は一目で気に入っていた。
「わかった。じゃ、並ぼうか?」
ヒノエは望美の背に手を回すと、促すように軽く押しやった。
グッズ販売はそんなに混んでいなかった。
今回のグッズに限定ものがないからでもあるが……。
限定のグッズが出た時は、物販開始前から長蛇の列が出来るのだけれど。
ヒノエと望美が物販の列につくと、同じく並んでいて暇を持て余してる人たちの視線がちらちらとこちらへ向けられているのに気づいた。
正確には望美の隣にいるヒノエにだ。
ヒノエはトレードマークである三つ編みは解いているが、ニット帽から覗く髪は赤く、しかも隠しているのは目元だけ。
サングラスでTV出演する事もあるヒノエだから、ファンには馴染みの姿なのだ。
すごい似てる〜、などと囁く声が風に乗って聞こえてくる。
望美は大丈夫かな?と隣に立つヒノエを見上げてみるが、本人はまったく視線など気にせず物販の商品が飾られてる一角を興味深そうに見ていた。
「おもしれ〜」
「ん?」
「いや、会場の外の様子とか、スタッフがよくビデオ撮って見せてくれるんだけどさ、実際の雰囲気ってやっぱ違うんだなと思ってさ」
「そうなの?」
「ああ。いろんなところでいろんな子達がいろんなことしてて面白い。たとえば…」
ヒノエが指先で指し示したのは、ファンのグループが自分達で書いた寄せ書きを持って記念写真を撮っている場面。
「あれとかオレたちに贈ってくれる時に添えられる写真なんだ。すごく楽しそうに撮ってるのを見られて、それだけでも出てこられてよかったって思う」
彼女達を眺めるヒノエの口元に浮かぶのは、優しい微笑み。
ファンを大切にするヒノエらしい喜びを、望美は眩しそうに見つめた。
しかし気になることがひとつだけ…。
「ねぇ…」
小声でヒノエへ呼びかけると、バスや電車や車で集まってくるファンを見ていたヒノエが望美に顔を向ける。
「ん?何?」
「くっつきすぎ。少し離れて」
そう抗議して、望美は小さく身体を捩った。
ヒノエの腕は望美の腰に回され、ぐっと抱き寄せているため密着度が高い。
おかげで、歩きにくいことこの上ないのだ。
しかしヒノエは喉の奥で笑って、腕を緩めるどころか望美の耳元に顔を寄せた。
「言っただろ?他から声を掛けにくいように一緒にいてくれって」
「いるじゃない。でも、こんなにくっつく必要あるの?」
「あるさ」
「何でよ?歩きにくいのに」
「だってバカップルには一番声掛けにくいだろ?」
「………サイアク」
つまり周りから、バカップルに見られているわけだ。
人目を憚らぬこの状態では反論の余地もない。
悪戯好きのヒノエの楽しそうな顔を見ながら、望美はがっくりと肩を落とした。
「パンフとブランケットとストラップを一つずつ。…望美、他には?」
ヒノエは生真面目なんだか知らないが、罰ゲームをきっちり遂行すべくスタッフに購入する商品を告げた。
そして望美が欲しいと言ったものをチョイスした後、他はないか望美を見下ろして確認する。
望美がないよと答えると、スタッフが手際よく電卓を叩く。
ヒノエはグッズを望美に任せて、財布からお金を取り出して代金を支払った。
自分でグッズを購入するアーティストは珍しいんじゃないかと、望美はお金を払うヒノエの姿を見ながら笑いを堪えていた。
グッズと一緒に渡されたタイトルロゴが印刷されたビニールバッグはおまけだ。
今回は金色のビニールバッグに黒の文字が躍っている。
グッズを持って物販会場から離れた望美は、そのバッグにパンフだけを詰め込んだ。
「どうぞ。証拠の品、なんでしょ?」
パンフを今見られないのは少し残念だが、近いうちに望美の手元に戻るからかまわない。
ブランケットとストラップは、自分のサブバックに入れてしまう。
ヒノエはサンキュと呟くと、望美からパンフの入ったビニールバッグを受け取った。
「ったく、弁慶もえげつないこと考えるぜ」
「弁慶さんのアイディアなの?」
「罰ゲームなんぞ、あいつの他に誰が言い出すかってんだ。ライブ直前のオレを寒空の下に放り出して、間抜けな姿をファンに笑われて来いだとよ。いつかオレがあいつを同じ目に合わせてやるっ!」
弁慶はいつものふんわりとした微笑みで、ヒノエにこの罰ゲームを命じたのだろう。
その様子を思い浮かべ、望美は口元に手を当ててくすくすと笑った。
「へぇ、面白いね、弁慶さんって」
「面白いもんかよ」
舌打ち混じりで文句を並べ立てるヒノエに、望美は苦笑いを見せながら「でも…」と呟いた。
「ん?」
「私はヒノエくんに会えたから、罰ゲームを考えてくれた弁慶さんに感謝かなぁ?」
「望美……」
溜息混じりに微笑む望美は、どこか淋し気で…。
ヒノエは僅かに息をのんだ。
「ツアー中だから地方に行ったりして会えないのは仕方ないって分かってるんだよ。だからほんの少しでもヒノエくんの顔を見られて嬉しかった」
昨日だってヒノエの顔は見たけれど、それはライブ会場に設置された巨大スクリーンに映し出されたヒノエだ。
手の届かない『グリフォンのヒノエ』の姿。
それは会ったうちに入らない。
望美が会いたいのは、ただのヒノエだから。
けれど今ここにいるのは、間違いなく望美の恋人のヒノエ。
はにかんだ笑顔で今の気持ちを素直に言葉にする望美が愛しくて、ヒノエはふわりと口元を緩めた。
「まいった…」
何を言ったか聞き取れなくて望美が首を傾げると、ヒノエはなんでもないと軽く首を振って身を屈めた。
「え?」
望美の目元に触れた柔らかく温かい感触。
それがヒノエの唇だと気づいた瞬間、望美はそこに手を当て慌てて飛び退った。
「ちょっ!突然、何をっ!!」
「好きだぜ、望美…」
不意に紡がれた囁くような愛の言葉。
「ヒ、ノエ、くん?」
望美の心臓が激しく踊りだす。
濃いサングラスに遮られてヒノエの瞳は見えないはずなのに、その真っ直ぐな眼差しの強さをちりちりと感じる。
「これ、今度オレの部屋に取りに来てよ。その時はゆっくりふたりで過ごそうぜ」
それは二人だけの甘く熱い時間への誘い。
望美は頬を染めつつ、こっくりと頷いた。
ヒノエは腕時計に視線を落として時間を確認した。
もう少ししたらサウンドチェックが始まる時間だ。
久しぶりに会えた望美とできるならばもっと一緒に過ごしたいが、そうも言ってられない。
ヒノエには『グリフォン』が待っている。
「そろそろ行くから」
「うん。ライブ楽しみにしているね」
「ああ。任せとけ。サイコーの時間にしてみせるぜ」
ヒノエは手を伸ばして包み込むように望美の頬を撫でた後、一度だけ手を振ってくるりと背を向けた。
凛とした背中には、もう望美も声を掛けられない。
ヒノエの視線の先には、アリーナの正面入り口。
颯爽と歩き出したヒノエはポケットから携帯を取り出すと、どこかへ電話をかけはじめた。
ファンがたむろしている真ん中を歩いていくヒノエは、やはり目立っていて…。
あまりに似ているとヒノエに気づいた子達が彼を指を指したり、すれ違った子は振り返って二度見したりしている。
ヒノエが入り口に近づくにつれ、ガラス扉の向こうのスタッフの動きが俄かに慌ただしくなる。
どうやらヒノエが連絡したのは、中のスタッフに対してらしい。
悠然と歩くヒノエへ向かって、カメラ片手に近づく女の子達。
コスプレイヤーとの撮影を楽しんでいる子達らしかった。
ヒノエに似ていると思って、記念撮影を頼む気なのだろう。
ヒノエ本人とは気づかぬまま。
しかし声を掛けられそうなことに気づいたヒノエが、突然地面を蹴ってまっすぐアリーナへ向かって走り出した。
唐突なアクションに、何事かとヒノエに視線が集まる。
前方でヒノエの為に開かれる大きなガラス扉。
周囲に鋭い視線を走らせ、ヒノエを出迎えるスタッフ達。
それを見ていたファン達は、信じられないと驚愕の声を上げた。
ヒノエはどよめきに押されるようにして一歩会場の中に入ると、くるりと広場へ向き直った。
一瞬、その場が静まりかえる。
ヒノエは口元に綺麗な微笑みを浮かべると、被っていたニット帽を取り胸に右手をあてファンに向かって優雅に腰を折ったのだ。
ヒノエ本人だと確信したファンのけたたましい悲鳴が上がる。
ヒノエはスタッフに囲まれ、そのまま足早に会場奥へと消えていった。
望美の恋人から『グリフォンのヒノエ』へ…。
「いってらっしゃい、ヒノエくん」
望美の小さな見送りの言葉は、誰の耳にも届かなかった。
<終>
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