昨日までと同じ時間の同じ電車。
入学してからずっと同じ時間に家を出て、同じ電車に乗る。
時刻表どおりホームに滑り込んでくる電車。
それは昨日までと同じ。
でも。
今日は特別。
望美は大きく息を吸い込んで高鳴る胸を落ち着けようとしたが、電車が近づくにつれ鼓動はどんどん激しくなっていく。
(落ち着いて。ちゃんとお礼を言わなきゃ…)
満員電車の中で彼の近くに行けるかわからないけれど、昨日、望美の危機を救ってくれたお礼を言いたかった。
いつも望美がこっそり見つめていた彼。
誰もが憧れている、ステキな彼。
そんな彼が昨日、痴漢に襲われて耐えて涙を流すしか出来なかった望美を救ってくれた。
昨日はきちんとお礼が言えなかったから。
今日はちゃんと彼に感謝の気持ちを伝えたい。
昨日から何度も何度も繰り返しシュミレーションをした。
まずは電車の中で彼を探して。
彼を見つけたら、どんなに奥でも頑張って近づいて、一言でいいから感謝の気持ちを伝えたい。
望美はゆっくりと停車する電車を見つめ、しゃんと背筋を伸ばした。
電車は今日も満員。
身体の横でこっそり握り拳を作って気合を入れる。
そして望美は、臨戦態勢になって人の波に乗った。
(苦しいっ!でも見つけなきゃ)
人波に押されながらも他の人の頭の間から目当ての赤い髪を探す。
(え?)
でも目標としていた赤い色は、望美のすぐそばでさらりと揺れた。
「おはよ」
にっこり微笑んで小さな声を掛けてくれたのは、望美が探していたその人だった。
「あ…、おはようございます…、きゃっ」
丁寧に頭を下げようとした望美は、後ろから背中を思いっきり押されてのけぞってしまう。
「おっと…」
彼はよろめいた望美の身体を笑いながら引き寄せ、自分が立っていた座席横のコーナーに望美を誘導してくれた。
「あ、あの…」
「大丈夫?ここに立ってな」
彼はそう言って優しく微笑んでくれた。
「あ、ありが……」
「よう!ヒノエ」
「おう」
彼に伝えたかった望美の言葉は、割り入ってきた低い声に遮られた。
「お前、今日の数学予習してねぇか?俺、当たりそうな気がするんだよな」
「オレがそんなものやってるわけねぇだろが」
望美と一緒の駅から乗り込んできたヒノエのクラスメートだろう。
望美の頭の上で交わされる、望美の知らない学校の会話。
盛り上がってる会話の中に割り込むことは出来なくて、望美は昨日の礼どころか今、支えてもらった礼さえまともに言えないままだった。
電車は速度を上げて走っている。
ヒノエ達は、昨日のサッカーの試合やラグビーの国際試合の結果を一生懸命話している。
望美は電車の壁に寄りかかったまま、小さな溜息を零して流れる車窓の景色に目をやった。
それからというもの、毎朝ヒノエとは挨拶を交わせる程度の近い距離にいながら、何故か望美が礼を言おうとすると邪魔が入るのだ。
ヒノエが友人と話していたり、駅で乗ってきた人が間に入ってしまってヒノエに声を掛けられなくなったり。
けれども、ヒノエはいつも望美の近くにいてくれた。
不意に目が合えば、軽く微笑んでもらえるほどには……。
あの嫌な出来事の日以前はヒノエの姿が見られるかでどきどきしていたのに、もう10日以上毎朝ヒノエと顔を合わせている。
そして気がついた。
ヒノエは友達と話していても、さりげなく望美をガードしてくれていることに。
それは望美がヒノエに礼を言うのを失敗しつづけて5日目のことだった。
吊革につかまったまま居眠りをしていたサラリーマンが、大きな電車の揺れで体勢を崩して望美に倒れ掛かってきた。
踏ん張ろうとしたサラリーマンだが、直前まで眠っていた為バランスを立て直せず、望美の方へと身体が傾いた。
潰されるっ!と身体を固くして構えた望美だったが、そのすぐ横から倒れこむサラリーマンに向かって腕が伸びた。
「あぶないっすよ」
小さく、でも少しだけ怒った声はヒノエのもの。
ヒノエの腕は、サラリーマンの肩をとんっと押し返した。
「ああ、すまない」
サラリーマンは望美を潰さなかった事にホッと安堵の息を漏らし謝罪した。
ヒノエはすっと望美に顔を向けて、目線だけで大丈夫?と問いかけてくる。
望美は慌てて頷くとヒノエはふっと笑い、なんでもなかったかのように友人と再び話し始めたのだ。
望美はまたしても礼を言うチャンスを逃してしまった。
まるで自分を守ってくれる騎士のような存在に、心を持っていかれるのは自然な流れだった。
元々憧れていた存在がすぐそばで笑ってくれて、しかも困った時にさりげなく手を差し延べてくれる。
自分に向けてくれる一瞬の微笑みさえも、特別な気がして望美はヒノエから目が離せなくなる。
そして夢見てしまう。
ヒノエも自分の事を特別だと思ってくれればいいのにと…。
夢は夢でしかないのに…。
いつものように乗り込んだ満員電車。
違ったのは天気だけ。
昨夜から降り出した雨は、朝になっても雨足を変えることなく降り続いていた。
電車内は湿度が上がり、同時に不快指数もいつもより上がっている。
雨の日独特の混みようは、日頃自転車通学をしている学生が電車を使っていたり、出勤する人が時間をずらしたりしている為だ。
いつもより密度が高い車内で、ヒノエは望美の頭の上の壁に手をついて身体を支えていた。
ヒノエに話しかける友達も近くにはいない。
今日こそ今まで言えなかったお礼を言うチャンスだと、望美は乗車した時からずっとタイミングを見計らっていた。
電車が速度を落とし、駅へと滑り込んでいく。
軽い空気音と共に開いたドアから我先にと降りていく人たち。
そしてその流れが無くなったとたん、電車内へ乗り込んでくる人々。
走行中は静かだった車内が俄かに騒がしくなる瞬間だ。
そのざわめきに押されるように、望美は傍に立つヒノエへと顔を向けた。
「あのっ!」
周りを慮って、決して大きな声ではなかった。
けれどヒノエは、少し意外な顔を見せて柔らかな口調で、「どうかした?」と聞き返してきた。
「えっと、今更なんですけど、この前はありがとうございました。お礼が遅くなってごめんなさい」
本当に今更だ、と望美は頭を下げながら自分に呆れていた。
毎日顔を合わせて、一方的かもしれないけどアイコンタクトらしきものもあったというのに。
するとヒノエは軽く笑って頷いた。
「どういたしまして。あれから…」
「あら、ヒノエじゃない」
ヒノエの言葉を遮るように明るい端切れのよい女の子の声がし、ばしっと小気味いい音が響く。
同時にヒノエが顔を顰めて僅かに背を反らせた。
「痛てぇな。なんて挨拶だよ、美緒」
「うっとおしい雨の朝なのに、爽やかにナンパなんかしてるから天誅よ」
くすくすと笑うのは、今乗ってきたばかりの女の子。
毛先をゆるくカールさせた、目のぱっちりとした綺麗な少女だった。
制服はヒノエと同じ高校のものだ。
「してねぇよ、ナンパなんて」
ヒノエがあからさまに嫌そうな顔をする。
「どうだか。あなたも気をつけたほうがいいわよ〜。ヒノエって女に優しいけど、情は薄いからね。この顔と甘い言葉に騙されちゃバカを見るわよ」
ヒノエの背中越しに、望美を覗き込んだ女生徒が忠告というよりヒノエへのからかいを多分に含んで悪戯っぽく笑う。
でもその目は、明らかな嫉妬の光を宿し強く望美を射すくめる。
その瞬間、この女の子もヒノエが好きなんだとわかった。
同性の望美から見ても、うらやましいくらい生き生きとした表情の女の子。
ヒノエへ向ける瞳は恋するものだ。
けれどヒノエはその頭を乱暴に押し返し、彼女の方へと向き直った。
「ちょっと、髪が乱れるじゃない」
綺麗に整えていた前髪が潰され、少女は唇と尖らせて恨み言をヒノエにぶつける。
だがヒノエは冷たく彼女を見下ろした。
「うるさい。美緒、根も葉も無いこと言うんじゃねぇよ。人聞きの悪い」
「なーに言ってんの。事実よ、じ・じ・つ。あんたの元カノの私が言うんだから。他の元カノだって同意見だと思うわよ。でも騙される子多いんだよね」
「美緒」
苛立たしげな舌打ち。
でも美緒と呼ばれた少女はヘイキな顔で言い募った。
「あ、そういえばこの前告白された一年の子とどうなったの?」
「……何で知ってるんだ?」
「ヒノエって、どれだけ注目度が高いか自分で分かってないよね。で、どうなの?」
「ノーコメント。オレと彼女だけの問題だ」
「でも、友人としては気になるわけよ。もしかしたら傷心の子が増えるかもしれないし」
「美緒」
「何よ?」
「お前は黙れ」
「痛っ!」
ヒノエにデコピンを食らわされた少女は、顔を歪めて額を押さえている。
それなのに、どこかうれしそうなのは好きな男の子と触れ合えたからだろうか?
振り返ったヒノエは望美の顔を見て、心底困ったような表情を見せた。
けれど望美は何を言っていいのかわからない。
そして、気づいた。
ヒノエに『美緒』と呼ばれた少女。
そしてただ同じ電車に乗っているだけの自分。
望美にとってヒノエは自分を助けてくれたただ一人の人だけれど、ヒノエにとっては偶然一緒に乗り合わせた他校の生徒。
望美はヒノエの名前を知っているけれど、ヒノエは望美の名前を知らない。
この二週間、声を掛けようとチャンスを狙ってたのは望美だけ。
舞い上がっていたのは望美だけ。
望美はヒノエから視線を逸らし、頑なに車窓の風景を見つめていた。
ヒノエの視線を感じるのはきっと気のせい。自分のうぬぼれの産物。
話しかけることさえ満足に出来ない自分は、都合のいい夢を見ていた。
好きだと気づいても、自分から踏み出せない臆病な自分。
望美は締め付けられるような胸の痛みを感じながら、高校のある駅に早く着くことを願っていた。
<終>
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