その日、ヒノエは久々のオフだった。
 しかし前日、正確には当日の明け方までスタジオに篭っていた為、昼過ぎまで惰眠を貪っていた。
 





「暑……」
 寝乱れた髪を掻き上げ、ヒノエはベッドの上で起き上がった。
 梅雨時の蒸し暑さがヒノエの眠りを妨げたのだ。
 ヒノエは不快げに顔をしかめ、ベッドを降り真っ直ぐバスルームへ向かう。
 じっとりと身体に纏わりつく不快な汗を流す為だ。
 服を脱ぎ捨てシャワーのコックを捻ると、冷たい水がヒノエの頭へ勢いよく降り注いだ。
 お湯に変わる前の水が、ヒノエの身体に残った眠りの残滓を洗い流していく。
 ヒノエはシャワーを浴びながら、今日の予定をぼんやりと考えた。
 夜は久々に会う友人たちと飲み会。と言っても、未成年のヒノエにとってはもっぱら食事会なのだが。
 それまでの予定は取り立ててないから、時間つぶしになにをするかだ。





 今は曲作りの気分じゃない。
 何かイメージが降りてくればオフだろうと何だろうと創作活動に入るヒノエだが、今日はのんびりと過ごしたかった。
 幸い、曲作りに追われているわけではない。

 





 やっと手に入れたばかりの愛しい女に会いたいが、連絡を取った彼女から高校と塾で夕方会うのは無理だと至極残念そうに言われた。
 それは仕方ないから彼女と会うのは次回の楽しみにして、飲み会までひとりでぶらりと買い物をするのも悪くない。
 最近活動が忙しく、まともな外出が出来ていなかった為、欲しいものは色々とある。
 グリフォンのボーカルとして顔が売れても、ヒノエは一人での外出を躊躇ったりはしなかった。
 自分の行動範囲を狭めたくないからだ。
 だから自分の欲しいものは自分の足で買いに行く。




 ヒノエは大まかな予定を立てながらバスルームから出ると、キッチンでパスタを茹でて簡単なブランチを取った。
 




 そしてTシャツにジレーを羽織ってキャップを目深に被り部屋を後にした。






 平日の街はいつもより少し年齢層が高い。
 そしてどことなくのんびりしているような気がする。
 ヒノエはCDショップと本屋に立ち寄った後、プライベートで好んで着る服のショップへと顔を出した。





 6月末から始まったサマーセール。
 店内もセール品とセール除外品が分けられて飾られてある。
 平日の午後のせいか、店内の客はヒノエの他に二、三人いるくらいだった。





 客が少ない方が色々と余計な事に気を遣わなくていい為、日頃からヒノエが買い物にくるのはもっぱら平日の午後である。





 ヒノエは馴染みの店員と話しながら、気になる服をいくつか選び出しそれに合うベルトやアクセをチョイスしていく。
 その店はメンズとレディースが同じ店内に置かれているため、アクセサリーの類はユニセックスなものも多い。
 ヒノエはふと目に留まったネックレスを手に取った。
 




 いつものヒノエの好みとはまったく違うそれに、店員が珍しそうに話しかけてきた。
 そのネックレスは女性向きに作っていると。
 もちろん、それは説明されなくてもわかった。
 この華奢なチェーンは、女性の細く白い首にこそ似合う。
 だから、気になった。
 きっとこれはヒノエの大切な女の子に似合うだろう……。
 




 
 ヒノエは自分が気に入った服と小物、そしてどうしても彼女の首を飾りたくなったネックレスをひとつ買い、それらが入ったショップの袋を駅のロッカーに放り込んで友人たちとの待ち合わせの店に歩いて向かった。





 駅から歩くと時間が少しかかるので、普段ならタクシーを使うところだが、今日はなんとなく歩きたい気分だった。
 幸い時間にも余裕がある。





 
 7時を過ぎても夏の明るさが残る街は、昼間の熱気が篭っているようだ。
 ヒノエは昼間よりも増えた人ごみの中を、縫うように歩いていく。
 すれ違う学生も社会人も、誰一人ヒノエに気づかない。
 デニムのポケットに手を突っ込み、少しだけ背中を丸めて歩いていくヒノエは、どこにでもいる青年だ。
 だがふとした瞬間、無意識に見せる表情が過ぎ行く人の視線を引き寄せる。
 どこかで見たことがある、でもあれは誰だろう?
 そう考えている間に、ヒノエは人ごみの中へと消えていくのだ。






 それを見つけたのは、ヒノエが信号待ちをしている時だった。
 道路を挟んで向こう側のファーストフード店の軒先。
 大きな笹に吊り下げられた色とりどりの短冊が、時折吹き過ぎる風にくるくると踊っている。






 (もうすぐ七夕か…)
 子供の頃は願い事を書いた短冊を毎年笹に結び、天の川が見えないかと夜空を見上げていた。
 ちょうど梅雨時のため、綺麗に澄み渡った夜空を拝めることは少なかったけれど……。







 ファーストフード店の笹の下では、女子高校生数人が笑いさざめきながら手に持った短冊を紙縒りで笹に結び付けていた。
(あれは……、望美?)
 風に揺れる長い髪。
 楽しそうに笑いながら話しているのは望美とは違う制服の女の子。
 塾の友達だろうか?
 望美は道路を挟んで自分を見つめているヒノエに気づくことなく、友達とその笹から離れていった。
 






 やがて信号が青に変わった頃には、望美の姿はビルの中へと消えていた。
 どうやらそこが塾のようだった。
 ヒノエは信号を渡り、約束の店への通り道でもあるファーストフード店でその笹を見上げた。
 高さは2メートルちょっとだろうか?
 切られてしばらく経っているため、笹の葉は乾いてカサカサと音をたて、枝ではたくさんの短冊が揺れていた。
 





 
「っと!」
 結び方が甘かったのか、風が強かったのか。
 一枚の短冊がふわりとヒノエの方へ風に乗って飛んできた。
 ヒノエは条件反射で、目の前を掠めたその短冊を握り締めるようにキャッチしてしまった。





「やべぇ…」
 咄嗟のことで手加減できずに思い切り握ってしまった短冊は、手の中でくちゃくちゃになっていた。
 そっと手を開いて、優しく撫でながらきつくついてしまった皺を伸ばしていく。
 破れてはいないようだ。
 紅い短冊に黒のマジックで書かれた願い事が、皺を元通りにしようとするヒノエの目に映った。
 そして思わず息を詰める。
 





『会えるタイミングが合いますように  N・K』





 少し丸みのあるコロコロとした大きさの揃った字に、ヒノエは嫌というほど見覚えがあった。
 ヒノエにちょっとしたメッセージを残してくれる彼女と同じ字だ。




 書かれてあるN・Kは、春日望美のイニシャルに間違いないだろう。




 ヒノエは神妙な顔でそれを見つめ、もう一度しっかり皺を引き伸ばすと、自分が届く一番高い位置にその短冊のこよりをくくりつけた。
 少しでも天に近い場所へ…。





「オレとの事ってうぬぼれていいのかな?姫君?」





 ヒノエは望美が消えてきったビルの窓を眩しそうに見上げた。







「ばいばーい、また明日ねー!!」
 塾が終わって、仲のいい友達と手を振って別れ、望美は一人足早に駅へと向かう。
 その途中に、夕方友達と願い事を書いた短冊を結びつけた笹の横を通り過ぎた。
 それを見上げながら、望美は小さなため息を吐いた。
 塾さえなかったら、オフだったヒノエと夕方会うことが出来たのに……。
 




 知り合って一年と少し。でも恋人として付き合うようになってからは、まだ僅か…。
 お互いを深く知るようになって、以前よりももっともっと会いたいと思うようになった。
 けれどヒノエは忙しいミュージシャン。望美は受験生。
 生活サイクルも、周りの環境も何もかもが違う。
 友達が登下校を彼と一緒にしているのを見てうらやましいと思っても、望美には叶わない夢だ。




 だからせめて会える時間を無駄にしたくない。




 ヒノエはグリフォンを最優先させると望美に言った。
 グリフォンはヒノエの夢、そして譲れないもの。
 そう言い切ったヒノエに、なんの迷いもなかった。
 だから望美も、自分がいまするべきことを最優先させる。




 恋に溺れて自分の道を見失って、ヒノエとの出会いを後悔なんてしたくないから。





 それを親友に話したら『案外、望美って冷静ね』って苦笑されたけれど。
 もっと甘えた方がいいかも?とも言われたが、甘えるのとワガママとの区別がつかなくてどうしていいか分からなくなってしまう。





 会いたいと思っても、なかなかそれを伝えることが出来ない。






 だからせめて会えるチャンスを逃したくないから、短冊にそう書いて願った。




 一回でも二回でも、少しでも多く会えますように。




 親友は、『会いに行けばいいのに。きっと喜ぶわよ』と言ってくれたけれど。
 夜型の生活を送るヒノエに、まだ学生の望美がおいそれと会いに行けるわけがない。
 そしてそんな勇気もなかった。




 恋愛初心者の望美は、すべてが奥手だった。














「やっぱり天の川は見えないか……」
 七夕の夜、自室の電気を消して窓から空を見上げたが、雲が空一面を覆い星は見えなかった。
 残念。と呟きながら、うーんと背伸びをする。
 机に向かって強張っていた体に、一気に血液と酸素が巡るようだ。
「さて、もうひと頑張り」
 学校の予習と塾の宿題。
 出された課題を済ませるだけでけっこうな時間がかかる。
 望美が網戸を閉め、再び机に向かおうとした時だった。
 ガラステーブルの上に投げ出されたバッグから滑り落ちていた携帯が、軽快なメロディーを奏で始めた。
 特別な着信音に望美は慌てて携帯を手に取った。
「はい?」
 逸る心を抑えて、でも声を早く聴きたくて、携帯を握る手に力が入る。
 するとそんな望美の気持ちが筒抜けだったのか、電話の向こうで微かに笑う気配がした。
『こんばんは、望美』
「ヒノエくん……。こんばんは」
『今、何してた?』
「ん?空見上げてた。天の川が見えなくて残念なの。ヒノエくんは?」
『オレは部屋に帰ってきたところ。……ああ、本当だ、曇ってるな』
 カララ…とサッシを開ける音がしたから、望美の話を聞いてヒノエも空を見上げているのだろう。
 望美も電話をしながら、窓から空を仰いだ。
「梅雨だから仕方ないね」
『折角の逢瀬だってのにね。オレなら耐えられないな』
「ふふ、ヒノエくんだったらどうするの?」
『そうだな……。カササギになんて頼らずに自分でなんとかするかな。それが一番確実だろ?』
「ヒノエくんらしい。私はどうするだろう……?」
 何が何でもという勇気と情熱があるだろうか?
 今も流されるままだというのに……。
 するとヒノエがクスリと笑った。
『オレが姫君を待たせると思うかい?そんなこと考えるより早くオレが会いにいってやるよ』
「ヒノエくんったら…」
 望美の迷いを吹き飛ばすような強引さがうれしい。
 本当は私も会いたいと、今なら素直に言えそうな気がする…。
 しかしその思いを望美が口にする前に、ヒノエが話し出した。
『ってことで、我慢の出来ないオレはカササギがいなくても愛しの姫君に会いに行くよ』
「え?」
『まだ起きてるだろ?』
「う、うん、もう少し課題が残ってるから……」
『よし、決まりだ。これから望美に会いに行くよ』
「え?ほんとに!?」
『大マジ。待ってろよ。すぐ行くからな』
「え、ちょっと、ヒノエくん!?……って切れちゃった」
 驚きの予告を残して切れた携帯を呆然と見つめ、それから空を見上げた。
 これはあの七夕の願いを空がききとどけてくれたのだろうか?
 望美は高鳴る胸をぎゅっと押さえた。






 通話を切ったヒノエは、テーブルの上に置いてあったバイクのキーを取り上げ出かける準備をする。
 誰かの作った道を待つんじゃない。
 会いたい時に会う。
 道は自分で作るものだ。
 望美が戸惑って渡れないなら、自分が二人分渡って行く。
  




 会いたいけど会えないなんて言わせたくない。
 何もかもをひっくるめてヒノエ自身を見つめてくれる望美に、淋しい思いはさせたくない。





 タイミングなんて合わせればいいだけだ。望美が出来ない分、自分が。






 ヒノエはあの日に買った望美へのプレゼントを手に、部屋を後にした。
 

 
 
 
  <終>