高校で別れた二人は、社会に出てから思わぬ形で再会した。
人気ミステリー作家とその担当として……。
「おじゃまします……。先生?」
寝ているから書きあがった原稿を勝手に持って行ってくれ、と連絡を受けた担当の望美は、作家の自宅兼仕事場の玄関先で一応声をかけた。
ドアの鍵は望美の訪問が分かっているからか、施錠されていなかった。
セキュリティーの厳しいオートロックマンションに住んでいるにしても、かなり無用心だ。
望美は溜息を吐きつつ、勝手にスリッパを取り出し、室内へと足を踏み入れた。
部屋の中は静まり返っていて、電化製品の待機音くらいしか聞こえてこない。
望美は勝手しったるとばかりに、玄関そばの仕事部屋へと入った。
壁一面の本。机の上に広げられた洋書。
いつもながら圧倒される作家の仕事場をくるりと見回し、望美はすぐに目的の物をパソコンの側で発見した。
望美は出版社の水色の封筒を手に取り、中身を取り出して枚数を確認する。
そしてざっと原稿に目を通し…、
「ん、完璧」
望美は満足そうに頷いて、原稿を再び封筒へ戻した。
〆切にはまだ余裕がある。
腕時計でちらりと時間を確認した望美は、封筒片手にその部屋を出た。
少しだけ開いていたドアから、この部屋の主の薄暗い寝室を覗くと、深くゆったりとした寝息が聞こえてきた。
ベッドの上に横たわる影…。
望美は音をたてないようにベッドへ近づき、その脇に膝をついた。
そして横を向いて寝ている男の顔を、息を詰めるようにして覗きこむ。
日頃は気配に敏い男も、疲れのせいか深い眠りに落ちているらしい。
滅多に見られない無防備さを目にし、望美の頬に自然と笑みが浮かんだ。
「ヒノエくん?」
吐息に紛れた小さな呼びかけにも、彼は眠り続けたままだ。
望美は吐息だけで笑って、もう少しだけヒノエに顔を寄せた。
「……睫毛、長いね」
起きている時は、望美を惑わす甘い魅力的な瞳も今は閉じられ、僅かな幼さが滲んでいる。
ヒノエとは紆余曲折を経て、数年ぶりに再び恋人同士に戻ったばかりだった。
望美は眠り続ける美貌の男を見つめ、その頬にかかった柔らかい髪を指先でそっと払った。
連載の〆切を目前にして、ヒノエは連日睡眠時間を削って執筆していたのだ。
作品の内容が一番の山場を迎えていたこともあり、執筆にはいつも以上の時間と集中力を要したらしい。
望美も極力その邪魔をしないように、担当として進行状況などを確認するだけで、ここへは足を運ばなかった。
ヒノエは絶対に〆切を守る作家だから……。
眠っている目元に、僅かに感じる疲労の色。
望美は愛しげにヒノエを見つめ、飽くことなく指先で優しく髪を撫でていた。
しばらく会えなかったヒノエと一緒に過ごしたいけれど、さすがにずっとここにいて彼の久々の深い睡眠を妨げたくない。
それに原稿を会社に届けなければいけなかった。
望美は少し首を伸ばして、ヒノエの頬に唇を寄せた。
「お疲れさま。おやすみなさい」
労いの言葉と共に、ヒノエを起こさないようにそっと微かに触れさせた唇。
誰も見ていないのに何故か照れてしまって、望美は火照る頬を片手で押さえて立ち上がろうとした。
「えっ?」
しかし膝が伸びきる寸前、望美の手首が強く引かれ、バランスを崩してしまう。
「きゃあ!」
倒れる身体を庇うため、咄嗟に伸ばした手はベッドのスプリングで受け止められた。
「もう終り?」
「ヒノエくんっ!?」
ベッドに寝たまま、からかうように望美を間近から見上げるのは、今まで深く眠っていたはずのヒノエだった。
「起きてたのっ!?」
望美が驚いて叫び、身体を起こそうとしたが、素早く望美の首に回された腕がそれを許さなかった。
「いや、起きたのさ」
喉の奥で楽しそうに笑いながら、ヒノエが望美を抱き寄せる。
その力強さに負け、望美はヒノエの胸の上に顔を埋めるように抱きしめられた。
「……いつから?」
「ん?望美が原稿を取りに来た時のドアの音でかな?」
「最初からじゃない!!」
自分の行動のすべてを眠った振りで見られていたと知った望美が、ヒノエの上でバタバタと暴れ出す。
しかしヒノエは楽しそうに笑いながら、ますます深く望美を抱きこんだ。
「気づいたけど、目を開けるのが面倒でさ。そのまま寝てしまおうと思ったんだよ。でも、おかげで望美からのキスを貰えた」
「っ、ばか!」
望美は恥ずかしさに赤くなりつつ、照れ隠しにしてはいささか強い力でヒノエの肩を叩いた。
「痛いな……。どうせくれるなら、お前の拳より唇をくれよ」
言うが早いか、ヒノエはすばやい動きで自分の身体に覆いかぶさるようになっていた望美の身体を、自分の下に組み敷いてしまう。
「ちょっと!!」
「ん?何?」
抵抗さえも出来ないあまりの早さに、望美が抗議の声を上げるが、ヒノエは楽しそうに望美の上から彼女の顔を覗き込んだ。
「ふざけないでよ!スーツが皺になるじゃない!!」
「ああ、ごめん」
「って、何してんのよ!」
「皺になるなら脱がせてやるよ」
「脱がさなくていいから!さっさとどいて!」
ごそごそと不埒な手が、望美の服の裾から進入して柔肌を探る。
その手を押さえつけ、目元を赤く染めながらも、望美はヒノエを睨み付けた。
しかしヒノエはくすくすと笑いながら、望美の目じりに口付ける。
「そんな目で見つめられると、誘われてしまうね……」
「勝手に誘われないで!って、どこ触ってんのよー!」
「……詳しく説明してやろうか?」
「バカッ!ちょっと、ほんとに原稿持って行かないといけないんだから離してよ」
「……〆切にはまだ時間があるはずだけど?」
「すぐ帰るって予定だからダメ!」
望美の拒絶を、ヒノエは鼻先で笑い飛ばす。
「予定?予定は未定だよ」
「勝手なこと言わないで。書きあがったって伝言くれたの先生でしょ!?」
あくまで担当として逃げようとする望美の口から出た『先生』という呼び名が、ヒノエの眉間に皺を寄せさせた。
「じゃあ『作家先生』の都合で、いきなり手直しを始めたって理由もつくわけだ?」
「……あのねぇ…」
どうしてそんな理由を思いつくのかと、望美は呆れてしまう。
ヒノエは口元に自嘲的な笑いを浮かべた。
「ずっとお前の『担当』としての声だけで我慢してたんだぜ?……抱きてぇんだよ」
ストレートなヒノエの告白で、望美の抵抗がふっ……と和らいだ。
ヒノエの隠さない本音に、望美は嬉しさの中に少しだけ困惑を混ぜた表情を見せ、彼の頬に指先で触れた。
「……今夜じゃダメなの?」
「今夜も欲しいけど、今も欲しい」
「ヒノエくん…」
「卑怯だって言ってもいいぜ?でも、お前がオレの恋人として過ごしてくれなきゃ原稿は渡さない」
「……ヒノエくん」
「お前がここに入らなけりゃ、そのまま帰れたのにな……。オレを煽った責任、取ってもらうよ?」
寄せられる唇を拒む理由なんて、もう望美には残っていなかった。
「今夜も来いよ?」
「……どうしようかな?」
玄関でヒノエに背を向けてミュールを履きながら、望美はわざとらしく首を傾げて見せる。
そんな小憎らしい望美の態度も、好ましく映るから重症だとヒノエは思った。
「バッグと原稿…。ありがと」
靴を履く間、ヒノエに持ってもらっていた荷物を受け取り、望美が上目遣いでヒノエを見やった。
「来て欲しい?」
珍しいこともあるものだ。
こんなに甘えるようにヒノエの言葉を欲しがるとは。
望美も逢えなくて寂しかったのだろうか?
それとも、まだあの濃密な時間の名残を身体に残しているのだろうか?
ヒノエはにやりと笑って、望美が欲しがる言葉を口にする。
「来て欲しいね。……うまいもん、食わせて」
「……また不摂生してたんだね?ダメだよ」
心配そうに歪められた可愛い顔。
ヒノエは自分の生活態度を軽く怒られて、肩をすくめた。
「だから、何か食わせてよ」
「仕方ないなぁ……。じゃあ、また夜にね…」
「ああ、待ってるよ」
小さく手を振って出て行く恋人を、ヒノエは愛しげな瞳で見送った。
back