「あー、ダメだ。まとまらねぇ!」
ソファーに座って、膝のうえに置いた白い紙に何かを書き付けていた彼は、突然叫ぶとその紙の束を苛立たしげに空中に放り投げた。
「ヒノエ。行儀が悪いですよ」
出窓に浅く腰掛け、抱えたギターを爪弾いていた物腰の柔らかな青年が苦笑を浮かべて、叫んだ勢いのままソファに寝転がった彼を嗜める。
「うるさいぜ、弁慶。今更だろ?」
ヒノエは鼻先で笑い、ソファの上で思いっきり背伸びをした。
弁慶と呼ばれた青年は、ゆったりとしたメロディーを思いつくまま奏でながら、そんな彼に問いかける。
「確かに、いまさらですね……。詞が書けませんか?」
「書けないわけじゃない。纏まらないんだよ」
寝転がったまま、ヒノエは手を伸ばして自分の胸に落ちた一枚の紙を取り上げる。
それを目の前に翳してから、ふうっと息を吹きつけて空中に舞わせた。
弁慶はギターを爪弾きながら、その紙の軌跡を目で追う。
「では、ヒノエが書きたい詞のイメージで曲を先につけましょうか?」
行き詰っているヒノエに、弁慶が助けの手を伸ばす。
ヒノエはちらりと弁慶を流し見てから、軽い溜息を吐いた。
「それがいいかもな。書きなぐりはその辺に散らばってるぜ」
「やれやれ。僕に集めろと?」
「オレはもういらねえからな。勝手にしてくれ」
そう言って目を閉じてしまった彼は動く気がないらしい。
弁慶は軽く肩をすくめると、ギターを置いて立ち上がり、床に散らばった紙を拾い集めた。
紙の上に書き綴られた単語。
時にはフレーズの上を乱暴な二本線が走っていたり……。
しかし、それにはある共通点があった。
「ラブソング……、ですか?」
集めた紙を見て、弁慶が意外そうにヒノエを振り返った。
「……ああ。自然に体が揺れるような優しい曲がいい」
ヒノエの顔にフワリ浮かんだ柔らかな笑顔。
それを目にして、弁慶は得心がいったと一人頷く。
「これだけ言葉があれば、イメージが想像しやすいですね。少し曲を考えてみましょう」
「頼む。俺は気分を変えて他の詞を書くからさ」
ヒノエはそう言いながら、少し眠る為に瞳を閉じた。
新曲を出せば、必ずヒットチャートに名を連ね、名実共に日本の音楽界のトップを走るユニット『グリフォン』
ボーカルのヒノエ、ギターの弁慶は、それぞれカリスマ的な存在となっていた。
グリフォンの結成は謎に満ちている。
元々、ある有名バンドのギタリストだった弁慶は、バンドの解散を期に音楽プロデューサーとして新たなスタートを切った。
アイドルからロックバンド、映画音楽まで幅広く作る彼は、どんなに話があっても自ら表舞台には出なかった。
顔出しはしなかったが、彼が手掛ければ必ず売れるということで、弁慶の存在が人々から忘れられることはなかった。
そんな彼が、ある日突然『グリフォン』を結成した。
ヒノエというボーカリストと共に。
それだけだったら、なにも驚くことはない。
だが、弁慶は『グリフォン』として活動を始めたと同時に、弁慶個人としての音楽プロデューサーの仕事を凍結してしまったのだ。
グリフォンにすべてを賭けると言って。
それは、すなわちヒノエにすべてを賭けるということ。
彗星のように現れたヒノエ。
彼の歌声に、世間が酔いしれるのに時間はかからなかった。
そして今、グリフォンは日本のみならず、アジアの音楽界の頂点に立っていると言っても過言ではない。
ヒノエが詞を纏めきれないと話をしたのは、何日前だっただろう?
弁慶から渡された手書きの楽譜を見つつデモテープを聴いて、ヒノエは深く溜息をついた。
「……弁慶、嫌がらせか?これは」
ヘッドフォンをむしり取り、椅子を回してヒノエは背後に立つ弁慶を振り返った。
「いいえ?とても綺麗な曲に仕上がったと、自分でもかなり満足なのですが」
弁慶はファンに天上の微笑みと評される、蕩けるような優しい笑みを浮かべた。
だが、その笑みが何よりも食えないものだと、付き合いの長いヒノエは知っている。
「いい出来だと思うぜ?客観的に聴いたらな。でも、オレが歌うとなると別だ」
ヒノエが指先で楽譜を弾く。
「そうですか?」
ヒノエが何を指して、この曲を嫌がるのか十二分に知っているのに、弁慶はあくまでも気付かない振りをする。
ヒノエは駄目だと言わんばかりに首を振った。
「オレにどれだけファルセット出させる気だ?しかもサビのキーの広さはハンパじゃねえ。オレの限界ギリギリだろうが」
「ええ。でも限界は超えてませんよ?」
あっさりと何でもないことのように笑う弁慶。
ヒノエは、苛立たしげに舌打ちをした。
「歌えねぇな」
「どうしてです?」
「喉に負担がかかりすぎる」
「ヒノエのファルセットが最高に響くメロディーラインにしたつもりですが」
「それでこの広さかよ……。もう少し考えろよ弁慶。これは駄目だ」
ヒノエは至極真面目な表情で弁慶を見つめた。
音楽に対しては、誰よりも妥協を許さないヒノエが歌えないと言う。
しかし弁慶は、それはヒノエの思い込みであって、必ず歌えると確信を持ってこれを作ったのだ。
そしてこの曲はヒノエにしか歌えない。
またこれは弁慶の渾身の作でもある。
弁慶は軽く腕を組み、どうやってヒノエを頷かせるか素早く考えた。
そして、すぐにいかにも残念そうに弁慶が息を吐いたのだ。
「仕方ないですねぇ……。望美さんの好みに合わせて作ったんですが…」
ぴくりとヒノエの眉が上がる。
「おい?」
しかしヒノエを弁慶は無視して、彼の手から楽譜をスルリと抜き取った。
「これは別の人に歌ってもらいますか……。きっと望美さんも気に入ってくれるはずですから…」
「おい!」
「このキーをきちんと歌える男性と言えば、誰ですかねぇ…」
「おい、こら!弁慶!!」
「……何か?」
ヒノエにぐっと腕を掴まれて、やっと気付いたかのように弁慶は彼を見返した。
「何かじゃねぇよ!無視するな!!」
「君は歌わないのでしょう?他に歌える人を考えているのですから、邪魔しないで下さい」
「ちょっと待てよ。望美の好みってどういうことだ?」
やはり弱点はそこですか……。
内心、ほくそえみながら弁慶は何食わぬ顔で説明を始めた。
「ああ、そのことですか。この前、望美さんと話していて、彼女が男性ヴォーカリストのファルセットでファンになることが多いとおっしゃっていたので、
いつもつれなく振られているヒノエにいいところをと思い、この曲を作ったんですよ」
「ファルセット……」
何かを考え込むようにヒノエの目が眇められる。
「ヒノエのファルセットが一番甘く響くキーで作ったのですが、歌わないなら仕方ないですからね」
「……歌うよ」
「何か言いましたか?」
聞こえてたくせに、わざと聞き直す弁慶。
ヒノエは弁慶の思惑通りに踊らされている事に気付いていて、面白くなさそうに怒鳴った。
「歌えばいいんだろ!望美の為に作ったって言われれば、他の男になんか歌わせられねぇからな」
ヒノエは荒々しく弁慶の手にあった楽譜を取り上げる。
弁慶は、わずかに口元を緩めた。
「きっと望美さんがヒノエの歌声に聴き惚れることでしょう。歌詞も望美さんへのラブソングのようでしたし…」
「っ!どうしてそれを…」
「あの書きなぐりのキーワードを拾って、思いつかないほうが馬鹿ですよ」
「はぁ……。お前にバレるほど、オレは切羽詰ってるのか…」
「今までで、一番の強敵ですね、望美さんは…」
「ああ。オレをここまで本気にさせた女も初めてだぜ。……まったく、どうしてああもいい女かな」
ヒノエは前髪を掻きあげつつ、愉快そうに笑った。
「本当に……。望美さんは可愛らしいですね」
「……手、出すなよ」
「さぁ……?ぐずぐずしてるとどうなるかわかりませんよ?」
「あんたが一番油断ならないって忘れてたぜ」
ヒノエは忌々しそうに舌打ちをして、頭に曲を叩き込む為に再びヘッドフォンをつけた。
後日発売されたシングルは、ドラマの主題歌となり、オリコン初登場一位となった。
甘く切々と歌い上げるヒノエのラブバラードに、望美がどう反応したかは、また別の話……。
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