「…違う」
 ヒノエは舌打ちして、音符を書き付けていた五線紙を握り潰した。





 音に言葉が乗らない。
 気持ちが音とひとつにならない。
 あと少し、何かが足りない。
 メロディーが足らないのか、言葉の組み立てが悪いのか。
 ヒノエの頭にあるイメージにはまらないのだ。
 悪くないと思う。だがしっくりこない。
 曲の持つイメージや伝えたい想いは喉元までこみあげてきているのに、その先にうまく出てこない。
 ヒノエはペンを置いて、再びグランドピアノの鍵盤に指を走らせはじめた。






「ダメだ」
 何かを確かめるようにピアノを奏でつつ、軽く歌詞を口ずさんでいたヒノエは、突然ぴたりと歌うのをやめ、大きく肩から息を吐いた。
 そしてまたピアノだけを弾き始める。
 まだ完成形ではないメロディー。
 行きつ戻りつ、荒々しく、それでも何かを探るように、途切れなく部屋を満たしていくメロディー。
 自分の作る音に身を委ね、思うまま身体を揺らして全身全霊でピアノに向かい、固まらない曲に立ち向かう。
 何かが違う。でもその何かがわからない。
 ヒノエはその違和感を探って何度も飽きずにピアノを奏でていた。






 どのくらい弾き続けただろうか? 
 肌に触れる部屋の空気の流れの変化を感じ、ヒノエが鍵盤を押さえる手を止めた時、ふっと何かの影が目の端を横切ったと思った。
 次の瞬間、ヒノエは自分の頬に触れたやわらかく少しひやりとしたモノ。
「っ!?」
 不意の感触に酷く驚いたヒノエの身体がビクリと揺れ、反射的にバッと身体ごと振り返った。






 そんなヒノエの目に映ったのは……。






「あ、やっと気付いた」
 背を折って、ピアノの前に座るヒノエを間近で覗きこんでいたのは、花のような笑顔をたたえた望美だった。






「…望美?」
 突然目の前に現れた彼女を、茫然と見つめながらただその名を呟く。
 すると望美はうんと頷いた。
「そう」
「どうしてここに…」
 言いかけて、はっと息をのんで、慌ててそばにあった携帯を手に取った。
 そしてそこに表示された時刻を確認したヒノエは、目を見開いて一瞬にしてあおくなる。
「……マジかよ?」
「マジでーす」
 がっくり肩を落としたヒノエへ、望美は笑いながら楽しそうに答える。
「王子さまもお姫さまのキスで目覚めるんだね?」
 望美はヒノエの頬に口付けた自分の唇を、悪戯っぽく押さえてみせた。






「…ごめん」
 ピアノの椅子に座ったままヒノエは顔をあげず、望美にむかってますます深く頭を下げた。
 自分の落ち度に項垂れるヒノエを、望美は微苦笑を浮かべて見つめた。
「もう慣れたよ。はい、気分転換」
 差し出されたのは、白とブルーのマグカップ。
 顔を上げたヒノエは見慣れぬそれを受け取りながら、望美に不思議そうな目を向けた。
 この部屋に、こんなマグカップはなかったはず。
 そんな無言の問いに、望美が自分が持つマグカップを掲げて見せた。
「ここに来る途中のお店で見つけたの。可愛いでしょ?」
 望美の手にあるのは白とピンクのマグカップ。
 望美は答えながらソファ代わりの簡易ベッドに腰掛けた。
 ヒノエの手と望美の手にある色違いのそれは、きっとこの部屋のキッチンにしまわれるのだろう。
 こうやって少しずつ望美の選んだものが、当たり前のようにこの部屋に増えていく。
 それはくすぐったいような小さな幸せ…。






 渡されたマグカップの中は温かいポタージュ。
「…コーヒー」
「だーめ!何も食べてないでしょ?いつからやってるの?」
 ポタージュに口をつけながらも、ポソリと自分の好みを呟いたヒノエの声を、耳聡く拾った望美が即座に却下する。
「……寝ろうと思ったのは三時」
「寝てないんだ?」
「時間の感覚無くしてた」
 あいかわらずの答えに、望美は呆れ返って大きな息を吐いた。
 今の時刻はすでにお昼だ。
「待ち合わせには遅れないつもりだったんだけど…」
 苦笑するヒノエを、望美は少しの呆れを含ませて優しく睨んだ。
「歌作っててまた時間飛んでたわけね?」
「…ごめん」
 本当に申し訳なさそうにヒノエは頭を下げた。
「いいよ。もう慣れた。素敵な曲作ってくれてるんでしょ?」
「…鋭意作成中」
 ヒノエはポタージュを飲みながら、書きかけの五線紙にちらりと目をやった。





 こうやって曲作りに没頭して時間を忘れてしまい、望美との約束をやぶったのは何度目だろう?
 恋人として付き合い始めた頃、初めてこれをやった時、望美は待ち合わせ場所でずっとヒノエを待っていたのだ。
 その時ヒノエが我に返ったのは待ち合わせ時間の二時間後。
 慌ててバイクを飛ばしたヒノエの目に映ったのは、人ごみの中で淋しそうに身体を小さくして佇む望美の姿。
 その頼りなげな姿に心が痛み、駆け寄ったヒノエは人目も構わず望美を抱き締めていた。
 望美を口説き落としている最中は、こんな失態を演じなかったのに…。
 もう二度としないから、とヒノエの腕の中で泣きだしそうだった望美に約束した。
 しかし約束したにもかかわらず、幾度となく繰り返してしまう体たらく。
 付き合いだしてから会う回数が格段に増えたせいか、音楽に夢中になれば時間を忘れるヒノエのせいかわからない。
 しかし望美に会う前に曲を思いつく事が多いのだ。
 彼女への想いが、ヒノエの身体から溢れる瞬間が、伝えたい音楽に姿を変える。
 忘れないうちに書き付けておこうとすると、この有様である。
 望美はまたもや約束を守れず少し落ち込んでいるヒノエをこっそり伺いみて、カップにつけた唇に笑みを浮かべた。






 ヒノエがいつもこうやって心底反省しているから。
 望美はいつだって安心して許してしまう。
 これがもっとうわべだけの謝罪なら、望美はきっとヒノエと別れていたと思う。
 でもヒノエは正気に返った時、本当に情けないくらい落ち込むのだ。
 それを目にして許さないなんてできない。
 望美もヒノエとヒノエが創る歌が好きだから。







 グリフォンが一番でもいい。
 音楽を優先してもいい。
 ヒノエが本当に自分を大切に想っていてくれていたら。
 それで何もかもを許せてしまう。
 





 でももしヒノエが自分を軽んじる時がきたら、望美はヒノエとすぐに別れるだろう…。
 ヒノエが好きだからこそ、許せることと許せないことがある。





 ヒノエが好き。だからヒノエにも好きでいてもらいたい。
 惰性の想いなんて、半端な気持ちなんていらない。






 ヒノエは知らない。
 望美の中に、ボーダーラインがあることを。









 所在無さげに視線を落としたままカップを傾けるヒノエが可愛い。
 そんな事を口にしようものなら、どんな報復が待っているかわからないけれど。
 このままだとヒノエはしばらく落ちこんでいるから、望美はいつもの許しを口にする。
「お腹すいたね?」
「…そうだな」
 確かに腹は減っていた。
 昨夜の夕食から何も食べず、ずっとピアノに向かっていたのだ。
 曲作りに夢中になっていた時ならともかく、正気に戻った今は身体が空腹を訴えている。
「おそば食べたいな。ペナルティ代わりにおごって?」
 ちょっと甘えてねだるのは、もうこれは終わりという望美からの合図。
 お約束の望美の許しに、ヒノエは表情を和らげて軽く頷いた。
「待ってな。着替えてくる」
 ヒノエがマグカップ片手に立ち上がった。
「曲はいいの?」
「煮詰まってるから続けても一緒さ」
「あ、カップは流しに置いてて」
「りょーかい」
 片手を挙げて軽く振ったヒノエの背を見送って、望美は残っていたポタージュを飲んでしまうと、うれしそうに立ち上がってヒノエの後を追った。












<終>