『mermaid』






 春日望美。
 その名前を知らない者は経済界にいないと言われるほど、彼女の存在は異質で油断のならないものだった。
 世界有数巨大企業、春日グループの会長の一人娘で次代後継者。






 近い将来、巨大ピラミッドの頂点に立つ一輪の花。
 そして彼女の側に仕えるのは、大輪の花の蕾を守る八枚の葉。『八葉』と呼ばれる存在。
  





 望美は大企業の令嬢として幼い頃からその身を狙われ続けていた。
 それは社会に出た今も変わらない。
 いや、『女性』と呼ばれるほどに成長した望美は、犯罪とは別の意味でも狙われるようになっていた。






『八葉』と呼ばれる8人の男達は、危険と隣り合わせの彼女を公私共に支えて守る為に選ばれたエリート。







 経済界の重鎮達から小娘と鼻で笑われる年齢でありながら、彼女は若き天才ブレーン8人を従え、春日グループの傘下企業でその手腕を発揮していた。。

 





 しかし異質なものを排除したくなるのは人の性。
 






 望美の存在も例外ではなかった。








 狙われるのは命か、その身か、背後にある春日グループか?



 望美に従う8人のブレーン。
 それは同時に望美を守る盾でもあった。







 危険と隣り合わせの望美には24時間、護衛が付いている。







 けれど、それは望美が自ら望んだものではなかった。





  







「嫌ですっ!絶対にイ・ヤ!!」
 高層ビルの一室。
 大都会を睥睨するようなその部屋は、このビルの中でも一際豪華で安全な場所だった。
 飴色の重厚なデスク挟み、大きな椅子に身体を預けた男とまだ少女の域を抜けきれていない女性が睨みあっていた。
 しばし無言で火花を散らしていた二人だが、やがて男がコトリと持っていた万年筆を机の上に転がした。
「だったらお前の役員就任は無しだ」
「お父さんっ!!」
「会長と呼べ」
 にべも無い言葉に、男を睨んでいた女性、……望美はその可憐な顔を盛大に顰めて見せた。
 そしてすぐにわざとらしくにっこりと愛想笑いを浮かべた。
「横暴ですわ。会長」
「私の決定に異議があるなら、グループに顔を出すな。さっさと結婚でもしろ」
「差別反対!!」
「差別じゃない、心配だ。とにかく誰かお前の身辺警護をする者を選びなさい」
 娘に甘い父親は、その身を案ずるあまり頑なだ。
 望美は零れそうになる溜息を殺しつつ、最後の足掻きを見せる。
「『八葉』にボディーガードなど勤まるのですか?」」
 身辺警護の候補として上げられた彼らは望美の頭脳で、けっして肉体派ではない。
 しかし父親である会長は自信たっぷりに笑って見せた。
「確かに彼らはお前のブレーンだ。だが、それだけで『八葉』と特別視されているわけではない」
「つまりボディーガードも出来ると?」
「その通りだ」
「だから機密を知る彼らの中から選べというのね?漏洩のリスクを減らすために…」
「その通りだ」
 勝ち誇ったように頷く父親の手のひらで踊らされているようだ。
 望美はむっと唇を曲げ、大きなデスクを挟んで座る父親を睨みつけた。
 




 その時だった。
 ノックの音が二度響き、カチャリとドアが開いたのは……。





「失礼します。会長、先ほどの資料を……」
 顔を覗かせたのは、細いフレームの眼鏡を掛けた赤い髪の青年。
 彼は部屋の中に立つ望美の姿に気づき、僅かに眉を寄せた。
 望美の事が邪魔だと言わんばかりのその表情が、何故か癇に障った。
 





 その才能を見出されて春日グループの中枢で頭脳として働く彼にとって、親の七光りである望美は確かに邪魔者なのだろう。
 初めて会った時から、彼には不躾な視線を向けられた。
 整った美貌で綺麗に微笑みながら、彼は望美を品定めしていた。
 自分の上に立つ者として相応しいのかと…。






 たとえ八葉の一人であっても、望美に対して抱く感情まで縛ることは出来ない。
 





 でも望美自身を知らないまま、七光りだと卑下されるのは業腹だった。
 だから……。





「わかりました、会長。だったら私は彼を指名します」
 まっすぐに彼の目を見つめて、望美は父親であり春日グループの会長に伝えた。
 意外な人選だったのだろうか?
 望美の父親は少しだけ驚きを見せて、赤い髪の彼を見た。
「……藤原くんをか?」
「ええ。では、お話は済みましたから失礼します」
 自分の事を言われているようだが話の内容がわからない彼は、訝しげな冷たい視線を立ち去る望美に投げかけていた。

 









 あれから数ヶ月…。







 

 こんな予定じゃなかったのに…。
 相次ぐスケジュールの変更にうんざりして、望美は渋滞に巻き込まれた車の中でため息を吐きつつ車窓から見える景色へ視線をやった。






「御免ね〜、社長。先方がどうしても、社長と直接話したいからってきかなくてさ」
 後部座席で望美の隣に座る景時が困ったように笑いながら、すばやい指先でモバイルを扱う。
 急遽余計な予定を入れた為、これ以降の望美のスケジュールを調整しているのだ。
 それを見つつ、望美はゆっくりと首を振った。






「いえ、大丈夫です…」
 望美を支えるブレーンの一人、梶原景時は立場では望美の部下だが年令は上。
 それにやり手の人格者で、望美が尊敬している人でもある。
 だから望美は部下である景時に対して、自然と礼を尽くしていた。
「あー、また弁慶に文句言われるかなあ?でもあいつが押し込んだ会食なんだけどねぇ。今日、最後の打ち合せ、明日の朝一に回していい?」
「私はかまいませんよ。急ぐものではないし。でもさっきの会食の意味って……」
 景時の確認に頷きながら、彼がぽろりと零した言葉が気になって聞き返す。
 すると景時は困った顔で無理に笑って見せた。
「仕事の顔合わせにかこつけた見合いだったねぇ…。きっと弁慶も知っていたんだろうけど……」
「…やっぱり」
 返ってきた答えが予想通りで、望美は深くため息をついた。
「嫌だった?」
「いえ、嫌だったって言うより無駄かなって…」
「無駄?」
「はい…。だって今は仕事で手いっぱい。恋とか結婚とか考えられないし…」
「望美ちゃん…」
 ふっと景時の雰囲気が変わる。
 仕事のパートナーとしてではなく、優しい兄のような彼に…。
 景時が望美の呼び方を変えるのは、部下としての立場以上に望美を心配するときだ。
 それをわかっている望美は、素直に自分の考えを口にした。
「そんなのに浮かれてられない」
 厳しく自分を律しようとする望美に、景時は微苦笑を浮かべた。
「…そうかなぁ?」
「景時さん?」
「恋をするのはいいことだと思うよ?特に望美ちゃんはね」
「私は?」
 何故?と望美が小首を傾げる。
 景時はそんな望美に、慈愛の眼差しを向けてた。
「うん。君はちゃんと自分の立場とか進むべき道をわかって努力してるよね。それはとてもすばらしい事だと思うよ。だから恋も必要かなって」
「どうしてですか?」
「そうだねー、敢えて理由をつけるなら『メリハリ』かな?」
「メリハリ?」
「そう。いつでも一生懸命な望美ちゃんには、甘えられる場所があってもいいと思うんだよね。そりゃ友達とかいると思うけどさ、やっぱり恋人とは違うし」
「それは景時さんの経験?」
「あははは、するどい突っ込みだねぇ。藪蛇だったかな?」
「……」
 明るく笑う景時とは反対に、望美は黙って俯いてしまう。
 景時はそっと声を落として、ずばりと核心を突いてきた。
「望美ちゃんには好きな人とか気になる人はいないの?」
「気になる人…?」
 一瞬、望美の脳裏をよぎったのは、鮮やかな赤を纏う人。
 望美の道を照らす光となり、望美を護る影となりながら常にそばにいる人。
 しかし望美はその面影を、頭を振って追い出した。
「望美ちゃん?」
 景時が不思議そうに問い掛けてくる。
 望美は気を落ち着ける為、大きく深呼吸をした。
「いません、そんな人。暇もないし」
 固い表情で、年ごろの娘らしくない答え。
 景時は軽く肩をすくめてみせた。
「確かに暇はないよねー。ずーっとヒノエくんが傍にいるわけだし、出会いも無理か…」
「そういうことです」
「じゃあ、夜までに誰かに会う?彼、休みなんだろ?」
「はい。21時まではお休みです」
「だから、俺が望美ちゃんにつけられたんだしね。俺ならあまりうるさく言わないよ?」
「スケジュールの空きはあるんですか?」
 笑いながら指摘してきた望美へ、景時が大げさに顔をしかめて見せた。
「しまった。望美ちゃんのスケジュールがいっぱいだったよ」
「でしょ?」
「う〜ん、今日は無理でも望美ちゃんにも息抜きが必要だよ」
「私にも?」
「そう、ヒノエくんみたいにね」
 悪戯めいた笑いを浮かべ、外を指差す景時の視線の先を追い掛けて…、望美の目に飛び込んできたのはヒノエの姿。
「彼も息抜きみたいだね」
 ヒノエはその腕に絡み付く美しい女性の腕をそのままに、彼女と何かを話ながら歩いていた。








「あれれ?……やるなぁ、ヒノエくん。また違う人と付き合ってるのかな?」
 景時の呟きを耳にし、ぴくりと望美の眉が上がる。
「…違う人?」
「うん。新しい彼女かな?まったくいつ知り合う暇があるんだか」
 呆れと感心を混ぜた笑いが、景時の顔に刻まれる。
「…女好きの噂はきいてます」
 興味なさそうに冷たく言い放ちながら、望美はちらちらとヒノエを見ている。
 気にしないそぶりを見せながら、どうやらたいそう気になるらしいと気づいた景時が、こっそりと苦笑する。
「まあね、確かにヒノエくんは女好きだけど…。きっちり公私の区別はつけるヤツだよ」
「区別?」
 うろんげな視線を向けられた景時が困ったように首をかしげた。
「疑ってる?」
「はい。だって社内でも有名じゃないですか。ヒノエくんの女好き」
「じゃあさ、社内に噂の相手は?」
「相手?」
「そう。ヒノエくんの相手」
「……それは知りません」
「でしょ?ヒノエくんは、仕事に絡む女性には絶対手を出さないんだよ。社交辞令で口説く振りはするみたいだけどね」
「…社交辞令で口説く?」
「そう。でも社内にいるかぎりヒノエくんとの恋愛は無理かな?彼はたぶん理性で恋愛をしているから」
「理性で恋愛?」
 鸚鵡返しばかりだと内心笑いつつ、それでも問うのをやめられない。
「恋に溺れてバカになることはないってこと。彼は仕事一番だからさ」
「…ふ〜ん」
「意外?」
「意外です。前から女性関係のいい噂はきかなかったし。たしかに仕事はきちんとしてるけど…」
「ヒノエくんは、まず容姿が目立つから、噂は仕方ないけどね。それに社内の女の子は、ヒノエくんに猛烈なアタックをする子も少なくないしさ。でも、すごく真面目だよ」
「真面目?うーん、確かに…」
「裏を反せば、望美ちゃんはいい人選をしたと思うよ。ボディーガード」
「なぜ?」
「女性の扱いに慣れてるから、君のご機嫌とりはお手のモノ」
「景時さん!」
 景時のおどけた言い方に少し腹を立てた望美がキッと睨む。
 だが景時は首を傾げるようにして肩をすくめて笑った。
「一緒にいて気まずくないでしょ?」
「それはまあ…」
「あと、ヒノエくんは絶対に仕事相手には手を出さない。だから君はその点でも安心。今日だって本当は望美ちゃんが外出するなら呼び戻してくれって言ってたくらい仕事熱心だしさ。呼び戻さなくて良かったみたいだけど」
 瞬間、キリリと望美の胸が痛んだ。
「……そう、ですね。お楽しみを邪魔しちゃ悪いですもんね」
「望美ちゃん?」
 表情を消し顔を逸らした望美を、景時が眉をひそめて覗き込む。
 望美は景時に綺麗な仕事用の笑顔を見せた。
「なんでもないです。ところであとどれくらいで着きます?」
 ヒノエの話は終わりとばかりに、望美はこの後のスケジュールについて話し始めた。







 外はすっかりと闇に染まり、もうすぐ望美の本日の業務も終了する。
 望美は社長用の大きなデスクに座り、明日のスケジュールを確認する敦盛の静かな声に耳を傾けていた。
「明日のスケジュールは以上だ。午後に変更が入るかもしれない」
「わかりました」
 望美が頷くと、敦盛は開いていた手帳を閉じた。
 望美のスケジュール管理の原本はアナログだった。
 いざという時、それが一番確実だからだ。
 もちろんデータとしても管理はしているが。
 望美はため息を零しながら、椅子から立ち上がった。
 そして大きな窓から外を見下ろす。
 眼下に広がる光の宝石。
 きらきらと輝く光の中に、きっとたくさんの人がいるのだろう。
 あたたかい想いもきっとたくさん…。
「……どうした?」
「なんでもありません」
 外を見たまま答えるのは、望美らしくなかった。
 彼女はいつも相手の目をみて話すから…。
「社長。大丈夫か?あまり窓辺に近づかないほうがいい」
「……大丈夫」
「駄目だ。こちらへ来い」
 敦盛の手が望美に伸びて、ぼんやりたたずむ望美を窓から引き離した。
「敦盛さん…」
「どうした?帰社してからおかしいぞ?」
「ちょっと昼間に言われた景時さんの言葉を考えてて…」
「景時が何か言ったのか?」
 敦盛が訝しげに眉間にしわを寄せる。
 望美は口元に曖昧な笑みを浮かべ、自分の足元に視線を落とした。
「恋をしろって…」
「恋?」
 敦盛には予想外だったのだろう。
 いつも静かな敦盛の眼差しが戸惑いを顕にする。
 望美はくすりと吐息で笑んだ。
「恋なんて考えた事なかった。だから驚いて…」
「そうか…」
「敦盛さんはどう思う?」
 意見を求められた敦盛は、その性格上真面目に考え込んでしまった。
「…そうだな」
「はい?」
「景時の言う事にも一理あるが、恋はしようと思ってできるものではない」
「はい…」
「お前が誰かを愛しいと想うのは素晴らしいが、無理をする必要はない」
「そうですね…」
「…お前は今、誰かに恋をしているのか?」
「恋?」
 ふっ…とよぎった赤い影。
 そしてちくりと刺すような胸の痛み。
 しかし望美は慌てて首を振った。
「恋なんてしないわ!」
「社長…」
「恋とか愛とか、私には必要ないの!」
「そりゃ、もったいない」
 不意に割り入った第三者の声。
 聞き慣れた声にもかかわらず、望美と敦盛は反射的に身構えて振り向いた。







「ヒノエ…。戻ったのか」
 敦盛が声を掛けると、肩で扉に寄りかかっていたヒノエがゆっくりと身体を起こした。
「ああ。世話になったな」
 仕事中とは違いスーツ姿ではないヒノエ。
 彼はジャケットを肩に掛け、洗いざらしのシャツにデニムというラフな格好だった。
 それは昼間、移動中の車の中から見た休暇中のヒノエそのものの雰囲気。
 望美の心に、訳の分からない苛立ちが募った。
「敦盛、もういいぜ。仕事に戻る」
「まだ結構よ」
 望美の刺々しい声がヒノエに刺さる。
「望美?」
 彼女らしくない態度に驚いたのはヒノエだ。
 何かあったのだろうかと望美を窺うが、望美は意固地になってヒノエから顔を逸らしたままだった。
「21時まで休暇でしょ?まだ30分あるわ。下がって」
「…どうした?望美?」
 いつもの彼女らしくない苛立ち。
 そして八つ当りとしか思えない言動。
 ヒノエは困ったように笑み、望美の傍に歩み寄った。
 しかし…。
「弁慶さんのところに行くからついてこないで」
 望美はそう言い捨てて、二人を置いて部屋を出ていった。







「……敦盛」
 少々乱暴に扉を扱い、弁慶のもとへ向かった望美の背中を見送り、ヒノエは困惑の表情を浮かべて髪をかきあげた。
「なんだ?」
「姫君のご機嫌はどうして斜めなんだ?」
 朝、この部屋まで送ってきた時はいつもどおりの望美だった。
 だが、帰ってきたらヒノエと視線を合わせないほど機嫌が悪い。
「恋だのなんだの言ってたけど、あれが原因?」
「さあ?ヒノエが戻るまで、少し様子はおかしかったが不機嫌ではなかった。ヒノエが何かしたのではないのか?」
 疑いの眼差しを向けられ、ヒノエは嫌そうに顔をしかめた。
「オレが?まさか。今日はいなかったんだぜ?だいたいなんだよ、恋って?」
 ヒノエがしたノックにも気付かなかった望美は、今まで関心がある様子をみせなかった恋について話していた。
「景時が社長との外出時に何か言ったらしいが…」
「…外出?今日は望美が社から出る予定はなかったはずだぜ?」
 だからヒノエはボディーガードと本職の休みを取ったのだ。
 社の中ならヒノエの同僚達が望美をサポートし、守るはずだから。
「予定変更があった。明日のスケジュールも変更している。データは送った」
「わかった。ったく、外出するなら呼び戻せと言ったのに」
「必要ないとの弁慶の判断だ。実際あまり意味のない会食だったらしい」
「意味のない?」
「ていのいい見合いだったそうだ」
「……見合い?」
「取引先のトップの紹介で引き合わされたそうだ」
 ヒノエの眉がひそめられる。
 新たに望美に近づく人物は、誰であれ気を付けねばならない。
 他のブレーン達も望美の身辺警護に十分な腕をもっているが、ボディーガードとして契約しているのはヒノエのみ。
 そのヒノエが知らないうちに、誰かが望美に近づいたなら大問題だ。
「相手の資料はあるか?」
「ああ…」
 敦盛が頷いたとき、社長室の扉がノックされた。
「社長、今日の…っと、あれ?敦盛くんとヒノエくんだけ?社長は?」
 顔を覗かせた景時が望美の姿を探す。
「弁慶のところに行ったぜ」
 それに答え、ヒノエはくいっと指先で横を差した。
「わかった」
「ちょっと待て、景時」
 望美の居場所を確認した景時は、直ぐ様部屋を出ていこうとしたが、ヒノエがそれを呼び止めた。
「ん?何かな?ヒノエくん」
「お前、望美に何を言ったんだ?」
「何の事だい?」
 きょとんと首を傾げた景時へ、ヒノエは小さな舌打ちをしてみせた。
「あいつ、不機嫌極まりない。不機嫌な女は原因がわからないとやっかいだからな」
「不機嫌?そうだったかな?敦盛くん」
 心当たりのない景時が、敦盛へ視線を向けて尋ねる。
 敦盛は一度だけ首を横に振った。
「いや、不機嫌ではなかった。ヒノエが帰ってきたら少し…」
 敦盛の言葉で、何かに思い至った景時が苦笑をもらした。
「ああ。望美ちゃんも女の子だなぁ…」
 一人、納得したらしい景時をヒノエが軽くにらんだ。
「なんだよ?」
「不機嫌の原因」
「だからなんだって?」
「望美ちゃんはヒノエくんに甘えてるって事。それともかわいい嫉妬かな〜?」
「はあ?」
 景時の言ってる意味がわからない。
 しかし景時はおもしろそうに笑って続けた。
「いや、もてる男は辛いねぇ〜」
「わけわかんねぇ。あいつが何を嫉妬するって?」
「ヒノエくん、今日デートしてたでしょ?」
「デート?なんで知ってるんだよ?」
「移動中に見ちゃったんだな、オレと望美ちゃん。君が女性と楽しそうに歩いているのを」
「マジかよ…」
「マジ。さすがヒノエくんだよ、また新しい女だもんねぇ」
「……最悪」
 ヒノエはうんざりと天を仰いだ。
「え?何が最悪?」
「一応オレも望美には気をつかってんだよ。だから女の影は隠してたんだけど。今回の仕事は、勘違いしてもらったほうがやりやすいからな」
「勘違い?」
「一言で言えば擬似恋愛だよ。四六時中、ボディーガードとはいえ男と一緒にいるんだぜ?そう思ってもらわないとあいつもやってられないだろう?」
「…わざと彼女をお前に惚れさせる気か?」
 敦盛がヒノエを責めるように睨み付けるが、ヒノエはその鋭い視線に鼻先で笑って答えた。
「まさか。あいつもバカじゃない。本気にはならないさ。ただオレは望美が過ごしやすいようにしているだけ」
 景時がやるせない息をつく。
「ひどい男だね、ヒノエくんは。彼女も年頃の女の子だよ?優しくされたら、勘違いもする…」
「ひどい?人聞き悪いね、景時。オレは望美を一番に考えてるぜ?自分の女よりも」
「仕事だから?」
「仕事…というより、オレたちは望美の為に育てられた。そうだろう?敦盛」
「ああ…」
「そうか…。君たちは、望美ちゃんと年が近いからね」
「あいつは知らないけどな」
 すべては望美を支えるブレーンになるために。
 留学もなにもかも望美の為だ。
 望美と正式に対面したのは入社してからだが、8人のブレーンの半分はヒノエと同じように、望美の為に選ばれ育てられたのだった。
 望美は何も知らない…。
「義務かい?」
「義務ってより、刷り込みかな?だけど、オレは気に入ってるぜ、この仕事。じゃなきゃ、24時間あいつのそばにいられない」
「ヒノエ…」
「さて、そろそろ不機嫌な姫君をお迎えにあがるかな」
 ヒノエはそう呟いて、軽く背伸びをした。







「どうぞ」
 いささか乱暴なノックに、もの柔らかに応えたのは、この部屋の主だった。
「入るぜ、弁慶」
「社長いる?」
「景時さん?」
 ラフな姿のヒノエに続き、きっちりとスーツで身を包んだ景時が入ってくる。
 皮張りのソファーの背もたれににゆったりと体を預けて座っていた望美が、背筋を伸ばして景時へ顔を向けた。
「ごめん、社長。サインもらうの忘れてたよ」
 申し訳なさそうに差し出された書類。
「いえ、サインですね?」
 書類を受け取った望美へ、景時がペンを渡すよりも早く横から差し出された万年筆。
「ありがとう…」
 弁慶愛用のモンブランを借り、望美はさらさらと書類下部にサインを入れた。
 ヒノエはその様子を壁に寄り掛かり、腕を組んでながめていた。






 今の望美には、先程の刺々しい雰囲気はない。
 景時も望美がいつもより、柔らかい雰囲気に包まれているのがわかったのだろう、ちらりとヒノエを見てひょいと眉をあげた。
「はい、ありがとう。ところでどうしたの?」
「はい?なにがですか?」
 景時に主語なく問われた望美は、小首を傾げて聞きかえした。
「ん?なんかいつもの望美ちゃんらしくないなーって」
 景時に指摘されたことに心当たりがあったのだろう。望美はふんわり笑顔を見せた。
「ああ…。たぶん久しぶりに弁慶さんにハーブティーをいれてもらったからかな?」
 望美の前には、ブルーオニオンのティーセットが置かれていた。
「ハーブティー?」
「はい。弁慶さんが私の家庭教師だった頃、テストでいい成績をとるといれてくれたんです。特製ブレンドを。ね?」
 望美に同意を求められ、弁慶は微かに頭を動かした。
「ええ。懐かしいですね」
「今日は疲れちゃったから、久々に『弁慶先生』に甘えちゃえ〜って」
 くすくす笑いながら、望美は隣に座っている弁慶に肩をぶつける。
 ライトブラウンのスーツを着こなしている弁慶は、長い足を持て余し気味に組み、困ったように肩をすくめた。
「いまさら学生に戻ってほしくありませんよ。今夜は特別です」
「悪かったと思ってる?」
 可愛らしく責めるように上目遣いで睨んでも、弁慶はいつもの表情を崩さない。
「いいえ?あの程度のセッティングは見合いではありません。あなたの仕事です」
「…厳しい」
 優しげな声で淡々と言われるほど堪えるものはない。
 望美は膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。
「見合いなどと思わず、政界とのパイプが増えたと思いなさい。そして手玉に取ってやるくらいの気概を持ちなさい」
「…はい」
「君はこのグループのトップに立つのです。強くなりなさい」
「はい」
 体を小さくし弁慶の言葉に従順に頷く望美を見て、景時は不快そうに顔を歪めた。
「…弁慶、それはちょっと厳しすぎないかい?望美ちゃんはまだ勉強途中だし…」
「甘いですね、景時」
 弁慶に一刀両断された景時は、むっとして口をつぐむ。
「相応という言葉があります。普通の女の子ならば、恋もすばらしいものでしょう。だが望美さんはこのグループの頂点に立つ者です。その肩に何万もの社員の生活がかかっている。甘っちょろい女性の夢は捨てなさい」
「…はい」
「弁慶…、それは…」
 言い紡ごうとした景時を弁慶は一睨みで黙らせる。
「景時もです。守るのと甘やかすのは違う。望美さんの立場を考えなさい」
「言葉をかえすようだけどさ、弁慶、望美ちゃんも一人の女の子だよ?会社の道具のように扱うのは可哀想だし時代錯誤じゃないかな?」
「理想論ですね。綺麗事ですまされないことがある。景時も知っていると思いますが?」
「そりゃ、確かに……」
「半端な覚悟はいりません。それは君がこの道を進むとき、僕がうるさいくらい言いましたね?」
「はい。わかっています」
「いい返事です。……それから、ヒノエ、君もです」
「オレ?」
 黙って成り行きを見守っていたヒノエは、突然話を振られ、伏せていた目をすっと上げた。
「君の仕事は望美さんの身辺警護。安全はもとより悪い虫も近付けないように」
「『悪い虫』の判断はオレがしてもいいのかい?」
「かまいませんよ。そして君自身が悪い虫にならないように」
「さあ?どうかな?」
 にやりと挑戦的に笑う顔は、悪戯好きの子供のようだ。
「公私の区別をわきまえている君に、間違いはないと思いますがね」
「じゃあ、言うなよ」
「望美さんも…。戯言に惑わされないように。いいですね?」
「肝に銘じます」
 望美はそう答えて、俯いてしまった。








 社から出て車に乗り込んだ望美は、窓に頭をもたせかけ、憂いを帯びた表情で対向車線を流れていくヘッドライトを眺めていた。
 隣のシートにいるヒノエには目もくれず。
 望美の静かな湖面のような瞳は、何かを深く考えているようだった。
 ヒノエはそんな望美を、ただ見つめるだけだった。






「女の幸せか否か…」
「ん?」
 ぽつりと落とされた呟き。ヒノエは視線だけ動かして望美を見た。
 暗いガラスに映る望美の表情は、どこか諦めを滲ませていた。
「グループの後継者の道を選ぶとき、何度も弁慶さんに言われたの」
「…」
「夢見る乙女ではいられない。時に非情に、そして打算的になれって。自分の感情より利益を優先させろって。わかってたはずなんだけどな……」
「恋をしたいのかい?」
 ヒノエが問うと、望美は目を伏せて首を振った。
「叶わない恋ならしない」
「叶わないとは限らないけど?」
「ううん。絶対に叶わないの。好きなのかも、と気付いた瞬間、届かない想いだと知ったし」
「ずいぶん消極的だね」
 強気な望美らしくない答えに、ヒノエが苦く笑う。
 望美はその口元に、静かな笑みを湛えていた。
「私が背負うものを考えなくて、私自身を好きになってくれる人はいないよ」
「……」
「私も、グループを無視して生きてはいけない。私は一人の女である前に、『後継者』だから。ふふ…、景時さんの言葉に少しだけ夢見ちゃったみたい」
「考えすぎだろ?景時じゃないけど、弁慶の考えは極端だぜ?」
「それくらいがちょうどいいんだよ、きっと。…ヒノエくんは、いい恋をしてね?」
「望美?」
 いきなり自分の話になって、ヒノエは訝しげに望美を見た。
 遠くを見つめる望美の透明な瞳は何をみているのか…。
「女の子を幸せにしてあげて?」
「何をいきなり…」
「疲れちゃった。少し眠るね」
 望美はドアに寄り掛かったまま、そっと目蓋をおろした。








 祖父が築き、父が育て上げたこのグループを、一人娘である望美が継ぐ意志を示した時、誰もが望美を止めた。
 女には無理だと言われ、誰か有能な者を婿に取れとまで言われ。
 しかし望美は、そんな皆の反対を押し切ってこの道を進んできた。
 それを後悔したことはなかった。
 でも…。






 望美は閉じていた目蓋を上げ、天井を見上げた。
 広いベッド。
 いつも心地よい眠りを与えてくれるはずなのに、今夜はなかなか睡魔が訪れない。
 眠れないならいっそ起き上がろうかと思ったが、望美の体を包み込むように回った腕にすぐに諦めた。
 望美が意志を持って動けば、かならず彼が目覚めるから。
 望美を守るためと、ヒノエは眠るときも一緒にいる。
 いち早く異変に気付くため、彼は常に望美に触れていた。
 彼の仕事とわかっていながら、優しい温もりのこの腕の中で安心するようになったのはいつだったか。






 景時に想い人を聞かれ、ヒノエのプライベートを垣間見て気付いた想い。
 この腕が自分の物だといつのまにか勘違いしていた。
 望美の傍にいつもいてくれて、望美だけを見つめていてくれると…。
 強く優しい腕が守ってくれるのは望美だけだと…。
 ただの契約なのに。
 ヒノエの笑顔が優しいから、思い違いをしていた。






 ヒノエと望美の間にあるのは金銭関係。
 ギブアンドテイク。それ以外の何物でもない。
 望美はヒノエの一番ではない。






 この腕が本当の愛しさを込めて抱き締めるのは、望美以外の女…。
 望美に与えられたのは、仮初めの時間…。
 ヒノエが向けてくれる優しさも厳しさも、すべて『後継者 春日望美』に対するもの。
 一人の女性としてではない。






 いつのまに勘違いしてたのか。夢見てしまったのか…。
 この腕があまりに優しいから。抱き寄せてくれる腕が痛いくらい力強いから…。
 気付かないうちに、心を持っていかれていた。
 受け取ってもらえないのに。
 恋に気付いた瞬間、破れた恋。






 ヒノエのことを考えると、切なさに胸が締め付けられる。
 こうやって誰よりも近くで過ごしながら、二人の間にあるのは『契約』
 それ以上でも、それ以下でもない。
 理性の人ヒノエが仕事相手を恋愛対象と見ないのなら、彼の気持ちが望美に向くことはない。
 望美に許されるのは、仕事相手としてだけ。
 片想いとわかっていながら、心地よいこの腕は手放すことはできない。
 望美は静かに目を閉じて、自分を抱き締める腕を握った。
 瞬間、ヒノエの寝息が乱れた。






「ん?…望美?」
 望美の動きで、眠りの浅いヒノエが目覚めたらしい。
 しかし望美はゆったりと深い呼吸を繰り返しながら、目を閉じていた。
 横顔に痛いくらいヒノエの視線を感じる。
 伺うようなそれを感じつつ、望美は静かに寝ているふりをした。
 それに気付いたのか気付かなかったのか…。
 ヒノエは深々と息を吐き、一層深く望美の体を抱き込んだ。
 温かいけれど義務で回された腕。
 でも…。






 このひとときだけは望美のもの。
 それが契約という名の心のないものでも。
 望美の睫毛を濡らす、わずかな雫を知るものは誰もいなかった。











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