「おはよう、姫君」







 朝、目が覚めると一番最初に飛び込んでくるのは、ヒノエの綺麗な笑顔。
 朝日をうけて透明感を増した炎のような印象的な瞳が、まだ覚醒しきっていない望美の瞳を間近から覗き込む。
 目覚めと同時に望美の視界を埋める、深く吸い込まれそうなヒノエの眼差しに、望美の胸がドキリと脈打った。
「ヒ、ヒノエくん!」
 望美がまだ寝起きの掠れた声で、おはようの挨拶より先に驚きの声を上げるのも毎朝のこと。
 そんな望美の飾らない可愛らしい反応に、ヒノエの笑みも自然と深くなった。
「おはよう、俺の姫君」
「お、おはよう、ヒノエくん…」
 望美はやっとヒノエに挨拶を返し、優しく微笑む美貌を困ったように見つめた。
「もう……。びっくりするからやめてって言ってるのに……」
 毎朝、同じようにヒノエの顔を見ているのに、まだ慣れない。
 燃えるような髪と瞳の、端正な面差しの彼の姿は、望美の鼓動を容赦なく跳ね上げる。
 目覚めた瞬間の甘美な赤い刺激は、望美には少々強すぎる。
 ドキドキと早鐘を打つ胸を押さえながら、望美はいつもの苦情をヒノエに告げた。
 するとヒノエもまた、いつものように屈託なく笑って言うのだ。
「駄目だよ、姫君。姫君が目覚めた瞬間に目にするのも、眠りに落ちる寸前に目にするのも、他の誰でもない、オレでなければ許せないからね…」
「ヒノエくん……」
 ヒノエは、望美の頬がほんのりと桜色に染まったのを満足そうに眺めて、やっと褥から起き上がった。
 何も纏っていないヒノエの素肌の胸元で、シャラリと銀の首飾りが音を立てる。
 望美はまだ気だるげに褥に横たわったまま、動きだしたヒノエの姿を目で追っていた。







 望美に向けられたヒノエの背は、無防備な自然体。
 それは熊野別当藤原湛増が心を許した、ただ一人の女である望美にしか見せない姿だ。
 彼はその立場上、いつだって命の危険に晒されている。隙を見せれば殺される。そう言っても過言ではない。
 しかし望美は、ヒノエが命を預けてもいいと思った唯一の存在。
 だからヒノエが望美に見せる姿は、飾らないありのままの姿だった。







 ヒノエは朝日に惜しげもなく均整のとれた裸身をさらし、昨夜脱ぎ散らかした白い夜着を手に取ってそれを軽く羽織った。
 起き上がったヒノエの姿を視線だけで追いながら、無駄のない男の体はとても綺麗だと、望美はいつもうっとりと見惚れてしまう。
 女には持ち得ない直線的な体のライン。
 ヒノエは細身だけれど、鞭のようなしなやかな筋肉を持っていて、屈強な男にも力で負けることはなかった。
 そしてその力は、どこまでも甘く優しい戒めで、夜毎望美の自由を奪ってしまうのだ。
 その腕は誰よりも何よりも、優しく強く自由自在に望美を絡め取る。
 望美はヒノエが与えてくれる、甘美な魅惑の戒めから逃れる術を持たなかった。
 





 どんなに見つめていても飽きる事のないヒノエの姿。
 ヒノエは寝乱れた髪を軽く掻きあげ、ふ…っと望美を振り返った。
 まだ完全には覚醒していない眼差しで、褥に頬をつけたままヒノエを見上げる望美。
 目覚めてすぐに起き上がると、気分が悪くなる体質だという望美は、毎朝目覚めたままの姿でぼんやりしている時間が長い。
 無垢なあどけなさと、昨夜の情事の残滓を纏った無防備なその姿に、ヒノエは柔らかく目を細め、褥の側に片膝をついた。
「そんなに見つめるほど、オレはいい男かい?姫君?」
 指の甲で、そっと滑らかな頬を撫でると、望美は擽ったそうに首をすくめて笑った。
 動いた拍子に、望美の肩から長い髪が零れ落ち、円やかな素肌の肩が露わになる。
 けぶるような白い肌に、小さく咲くいくつもの紅い華。
 ヒノエが咲かせた、美しい華……。
 ヒノエはそれに誘われるように、望美の肩口へそっと顔を寄せた。







 外気で冷えた素肌に触れる、あたたかなヒノエの吐息。
 肌を軽く吸われる心地よさに深く息を吐きながらも、望美は上げた腕で着物の袷から覗く、ヒノエの引き締まった素肌の胸をそっと押し返した。
 望美の指先にヒノエの首飾りが触れ、涼やかな音を立てた。
「ダメだよ、ヒノエくん。起き上がったら熊野の頭領。そうでしょう?」
 にっこり無敵の微笑で正論を言われてしまえば、ヒノエは苦く笑うしかない。
 しかしヒノエは望美の手を取ると、巻き込むように自分に引き寄せ、恭しくその甲に口付けを落とした。
「言うね、姫君。でも、熊野の守り神に礼をつくすのも、頭領の仕事だぜ?」
「馬鹿言ってる。私は守り神なんかじゃないよ」
 即座に返ってきた望美の否定に、ヒノエはフッと笑ってみせた。
「守り神だよ。望美は頭領のオレにとって。ひいては熊野にとってもね」
「ヒノエくん……」
「オレが心を捧げた唯一の存在であるお前は、女神に等しいんだよ。望美……」
 耳元で囁かれる、声を落とした甘い響きが、またしても望美の鼓動を早くする。
 白い肌をほんのりと染める望美を、ヒノエは愛しげに目を細めて見つめた。
「愛しているよ、望美……」
 万感の想いを込めたヒノエの言葉は、誘うように色づき薄く開いた望美の唇へ直に伝えられた。
 







 それはお互いがお互いだけの存在から、熊野の為の存在へと変わる儀式のキス。
 唇を離し視線を合わせ微笑みあった二人は、直前までの甘い雰囲気を払拭してまっすぐに顔を上げた。







 これから始まる一日の為に……。











<終>








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