「ヒノエくんの盃?」
 大陸との交易から戻ってきた者達の労いと称した賑やかな宴。
 上等の酒と豪華な料理が振舞われ、女達は細やかに働き男達は豪快に笑って宴を盛り上げていた。
 恒例の宴に水軍頭領の妻として参加していた望美は、若い水軍の者達と話ながら、彼らの口から出てきた言葉にちょこんと首を傾げた。






 宴が中盤に差し掛かり、めいめい好きなように席を立ちだした頃、望美はヒノエのいる上座を離れ、気心の知れた若い侍女達と少し年上の水軍の青年達と話ながら飲んでいた。
 ヒノエはいつものごとく、水軍の重鎮に囲まれている。
 ヒノエもこの交易から戻ってきたばかりだが、別当としての仕事に追われ望美とはゆっくり過ごせていない。
 宴でも望美はヒノエの隣に座していたが、個人的な会話はほとんど交わす暇がなかった。
 仕方の無いこととは言え、少し淋しいと思うのは望美のわがままだろうか?
 けれど、望美も分かっている。
 ヒノエは望美の夫である前に、『熊野別当』なのだと。






 熊野を束ねる彼は、宴でもあまり羽目をはずすわけにはいかない。
 酒が入っているからこそ聞ける本音だってある。それをうまくひき出すんだ。
 そう苦笑していたヒノエは、いつだって熊野の頭領なのだ。
 だから望美がヒノエの傍にいては話しにくい内容を話せるように、ある程度になるとヒノエから離れるのが当たり前になっていた。
 また望美もヒノエの手が届かない所で、水軍の者達と飲む機会を楽しんでいた。
 ヒノエが傍にいない今しか聞けない話を仕入れるのは、望美だって一緒だから。
 そんな中で出てきた話。
 望美に問われた青年は、照れ臭そうに頭を掻いた。
「ええ。頭領からの盃をいつか受けられるくらいの手柄を立てたいなと…」
「手柄?ヒノエくんからの盃??」
 盃を貰うのがそんなに大層なことなのだろうか?
 望美がますます首を傾げると、青年は深く頷いた。
「はい。頭領に認められれば、宴の席で直接、頭領から盃を賜ります。……滅多に無いことですがね。それ以外で頭領が誰かの盃に酒を満たすことはありません」
「…そう言われれば、私も宴でヒノエくんからお酒ついでもらったことないかも…?」
 眉を寄せ手を頬に当て、望美がうーん?と唸って考え込む。
 その様子を傍で見ていた侍女達が、くすくすと笑いだした。
「望美さまなら、少しお願いされたら頭領はすぐにお酒をくださいますよ?」
 可愛い花嫁に甘い頭領を知っている侍女が、からかう様に言う。
 しかし望美は難しい顔で、水軍の青年に尋ねた。
「でもそれはみんなが『受け取りたい』って思うお酒じゃないでしょ?」
「まあ、確かに。俺等はいわば『褒美』のひとつと考えてますからね」
「そんなにすごいんだ?」
 望美が向けた視線の先で、ヒノエはまわりにいる重臣達から酒を注がれている。
 しかし勢いよく盃を空にしたヒノエから、彼らへの返杯はない。
「頭領は俺等と年はかわらなくても、頂点に立つ方ですからね。その行動ひとつひとつに意味があります」
「……そっか」
 人前では、自分自身である前に頭領として存在しなければならないヒノエ。
 笑顔ひとつとっても、望美と二人きりの時とは少し違う。
 隙のない笑みと言動。酒が入ってもかわらない瞳の鋭さ。
 彼はいつだって『熊野別当』なのだ。






 ヒノエは熊野になくてはならない人。
 白龍の神子の任を降りた望美とは違う。





 彼は八葉でなくなった今でも『熊野別当』であり『頭領』なのだ…。






 望美は上目遣いで上座のヒノエを窺いながら、そっと盃に口をつけた。







「……綺麗なお月様」
 夜半に向けてますます盛り上がりを見せる酒宴をそっと抜けた望美は、酔いを温かい湯でさっぱりと流した後、部屋に戻る途中の濡れ縁から冴え冴えと輝く月を見上げた。
 宴の喧騒は、風に乗ってここまで聞こえてくる。
 月明かりに照らし出される手入れの行き届いた広い庭。
 それをぼんやりと眺める望美の頬を、冷たい秋の風が撫でていった。
 月は頂点から少しだけ降り始めた頃…。
 この調子だと、まだヒノエは戻って来ないだろう。
「寝ろう…」
 望美はぽそりと呟いて、さっさと部屋の奥へと姿を消した。






 望美は寝つきがいい。
 それに一度寝てしまえば、目が覚める事はあまりない。
 もちろん戦の最中では、少しの物音でも意識を覚醒させていたが、今の生活はそんな緊張を強いられることはほとんどない。
 熊野が安定しているのと、別当屋敷の回りは腕の立つ者たちが厳重な警備を敷いているからだ。
 だから望美がぱちりと目を覚ました時、自分でもなぜ起きたのかわからなかった。
 そっと隣を窺っても、ヒノエが眠るはずの望美の左にまだ姿は無い。






 ヒノエは常に自分の立ち位置に気を配る。
 望美と二人で並ぶ時、ヒノエは必ず望美の左側にいる。
 たとえば望美がヒノエの左側にいたら、さりげなく位置を変える。
 あまり気にも留めなかったが、ヒノエと共に熊野にきてから、些細なきっかけでその理由を知った。
 この地では珍しい武器ジャマダハルを右腕で扱う男の、本当の利き腕が左だということを……。
「咄嗟に出るのは左だからね」
 だから左の空間を確保しておきたいのだと、ヒノエは笑った。
 左利きなど信じられないくらい、ヒノエは何でも器用に右手を使う。
 敵を欺くにはまず味方からってね、と軍師の顔で笑んだヒノエの本当の利き腕を知るのは、水軍でも古株の重鎮くらいだろう。
 それほど徹底して、ヒノエは右腕を使う。
 万が一右手がやられても、本来の利き腕である左は残るように……。
 






 それを知ってから、望美もヒノエの右側に立つようにしていた。
 共に寝るときも望美はヒノエの右側。
 今は空いているけれど……。
 望美はまだ綺麗なままの褥に手をやり、ゆっくりと起き上がった。
 部屋の空気が流れている。
 秋の肌寒い風が、きっと望美の覚醒を促したのだ。
 褥を隠すように立てかけられた几帳を少し持ち上げると、その隙間から煌々と差し込む月光が部屋を明るく満たしているのが見えた。
「ヒノエくん?」
 濡れ縁に座る人の背中が見える。
 望美は袿を羽織って立ち上がった。







「ヒノエくん?」
「ああ、起きたのかい?」
 濡れ縁に単姿で気だるげに座っていたヒノエは、首だけを回して奥から出てきた望美を見上げた。
「まだ飲んでるの?」
 ヒノエの手にある盃に目を落として、顔を顰めてみせる。
 盃の中で揺れる酒には、美しい月が浮かんでいた。
「久々の酒なんだ。大目に見てくれよ」
 ヒノエはにやりと口の端に笑みを浮かべ、くっと酒を呷った。
 確かに海の上では、酒をまともに飲むことは無い。
 酔って的確な判断が出来なければ、大海原で命を落としかねないから。
 水軍でも一、二を争う酒豪のヒノエは酒宴でもかなり飲んでいたが、まだ許容範囲内なのか酔った素振りは見せない。
 いつもよりほんのり染まった目元が、僅かに酒精の気配を感じさせるくらいだ。
「いいけど……。寒くない?」
 望美はヒノエの右隣に座りながら、自分が羽織った袿の半分をヒノエの肩に掛けた。
「酒が入ってるからね、そうでもない」
 そう言いつつも、寄り添うように座った望美の腰に手を回し、ヒノエが彼女の身体を引き寄せる。
 単越しに感じるヒノエの肌の温もり。
 心地よい人肌の温かさに、望美はほっと息をついた。
「月見酒?」
「ああ。今夜は見事な十三夜だ。……お前も飲むかい?」
 問いかけと同時に差し出された盃を、望美は条件反射で受け取った。
「あ……」
 何のためらいもなくヒノエから注がれる酒。
『頭領から盃を……』
 そう笑っていた水軍の男の照れくさそうな笑顔を思い出す。
 望美は酒で満たされた盃を見つめた。






「どうした?」
「……さっきの事思い出しちゃった…」
「さっき?宴の席かい?」
「うん。みんなで話してたらね、ヒノエくんから受ける盃の話になって……」
「おや?お前はオレから酒を注がれながら、他の男の事を考えてたって訳?」
「茶化さないでよ。その時にね、ヒノエくんの盃の意味を知ったの…」
 望美が何を考えているか分かったヒノエが、興味深げに先を促した。
「で?」
「そんなヒノエくんからこうやってお酒を勧められるのは、妻の特権かなぁ?って」
 瞬間、ヒノエが面白そうに噴き出した。
「ヒノエくん?」
 何がそんなにおかしいの?と、望美の表情がむっと膨れる。
 ヒノエは、悪いと謝りながら笑いを収めた。
 でもまだ唇は笑いを刻んでいるけれど。
「お前は面白いことを考えるね。……妻の特権っていうより、今のオレは『ヒノエ』だからさ」
「『別当』じゃないってこと?」
「まあ、そうだね。立場はいつも『熊野別当 藤原湛増』だけど、気分的にお前と二人の時はただの『ヒノエ』なんだよ」
 その答えに、望美は分かったような分からないような顔をしながら、酒を口に運んだ。
 ヒノエが好む、きりりと辛い酒。
 ゆっくりと酒を嚥下する望美にヒノエは優しく微笑んで、手の甲側の指先ですっとその滑らかな頬を撫でた。
「ヒノエくん?」
 ゆっくりとヒノエが望美の肩に頭を倒し、深く深く呼吸を繰り返す。
 望美はまだ盃の中に残っている酒を零さぬよう、そっと膳に戻した。
「……潮の匂いも海風も好きだけど、やっぱりお前の肌の香りがサイコーだね…」
「…馬鹿言ってる」
 くすりと笑って、望美はヒノエの広い背に腕を回した。







「ねえ、ヒノエくん…」
「うん?」
 月明かりに照らされ、互いに分け合った袿の中で静かに抱きしめあう恋人達。
 お互いの温もりと愛しさを伝える優しい抱擁。
「お疲れ様でした。そして、お帰りなさい」
「…何よりの労いの言葉だね。ただいま、望美」
 ふんわりと微笑みあって、そっと唇を重ねる。
 触れるだけの口付けはすぐに離れ、ヒノエはふっと吐息だけで笑った。
「ごめんな、ばたばたしててさ。お前と話す時間もなくて…」
「分かってるから大丈夫だよ。…私も先に寝ちゃったし」
 肩をすくめて可愛い舌を覗かせて笑う仕草は、悪戯がばれた無邪気な子供のよう。
「疲れた?」
 望美が早々に寝てしまったのは、気疲れからかと思ったのだろうか?
 ヒノエは望美を気遣って、優しく問いかけてくる。
 そんなヒノエに望美が軽く首を振って見せた。
「帰ってきたばかりのヒノエくんほどじゃないと思うけど?」
「オレ?オレは平気さ。お前の顔を見たら疲れなんて吹っ飛んじまうからね」
 ヒノエは笑いながら、前に流れた望美の髪をそっと背中へと払った。
「そう?……役にたててたら、うれしい」
 望美が一瞬見せた翳りのある笑顔が引っかかって、勘のいいヒノエが僅かに目を眇めた。
「望美?どうかしたのか?」
「……盃の話の時にね、ちょっと考えただけ」
 ヒノエから逸らされた望美の視線が、僅かに開いたヒノエの袷に落とされる。
「オレから離れた所で、何を考えていたんだい?」
「つまらないことだよ……」
 どこか諦めにも似た響きで呟く望美の頬を、ヒノエは少し骨張った大きな手でゆっくりと撫でた。
「つまらないことでも、そんな物憂げな顔をされたら気になってたまらないね。……話してごらん」
 少しだけ声を潜めたヒノエの言葉は、ゆっくりと望美の身体に染み込んでいく。
 望美は静かな苦笑を浮かべて口を開いた。






「私は何なのかなって」
「ん?」
「熊野にとって、必要な存在なのかなって」
「……望美?」
 今更、何を言うのか。
 ヒノエは訝しげに望美を伺い見るが、顔を伏せている望美はそれに気づかなかった。
「『白龍の神子』だった時は、私以外の誰にも成し得ない事が出来てた。でも、今は?」
「オレの花嫁、だろ?」
 望美の問いに、間髪入れずに答えるヒノエ。
 だがその答えは予測範囲内だったのか、うんと小さく頷いた。
「そうだけど…。ヒノエくんは熊野の頭領で、なくてはならない人。私はその頭領の花嫁って肩書きだけで、何にも出来てないなって思ってね。後ろ盾があるわけじゃないし、熊野の役に立ってるわけでも…、っ!?」
 言い募っていた望美の両頬に、突然軽い衝撃が走る。
 はっとしてヒノエを見れば怒りを瞳に宿し、望美の両頬を挟み込むようにして軽く叩いた。
 どうやら先ほども同じように叩かれたらしい。
「馬鹿なことを言うな」
 低く抑えた声はヒノエの憤りを感じさせ、望美は本能的にヒノエから身体を退いた。
「ヒノエくん……」
「お前は熊野にとって、稀有な存在だよ」
 しっかりと言い聞かせるように、望美の頬を両手で包んだまま、ヒノエは望美と視線を合わせた。
 燃えるようなその瞳が、望美の視線を奪う。
「そうは思えないけど……。頭領の妻としてまだまだ未熟だし、数ある儀式もよくわからないし…」
「そんなのは時と共にこなしていけるようになるさ。源氏の姫だった母上だって、初めから完璧だったわけじゃない。……お前はオレを熊野になくてはならないって言ってくれたね」
「うん。そうでしょ?今の熊野が平和なのはヒノエくんが一生懸命守ってるからだと思うもん」
 英雄の誉れ高い父を越えようとするヒノエ自身は、頭領としてまだまだだと笑うだろう。
 でも湛快の時代を知らない望美には、頭領であるヒノエは誰とも比べられない。
 ただ、源平の戦の時から、その知略と緻密さ、そして時にみせる大胆さに驚かされてばかりなのだ。
 そんなヒノエだからこそ、この熊野を束ねていられるのだと望美は思っていた。
「他の誰に言われるより、うれしい言葉だね」
「だって、私は本当にそう思うから」
「ありがとう。……それでさ、そんなオレになくてはならない存在がお前だよ」
「ヒノエくん……?」
「オレがオレでいられる場所なんだ、お前は。他の誰にも代わりは出来ない」
「……ヒノエくん」
「熊野に必要だっていうオレには、お前が必要なんだ。…だから、お前は熊野になくてはならないってこと」
「…何?その論法」
「正論だろ?」
 にやりと笑うヒノエは、自信満々。
 頭の回転の速いヒノエに、望美が口で勝てた試しはほとんどない。
 望美はふわりと表情を和ませた。
「……ヒノエくんらしいよ」
 やっといつもの柔らかな微笑みが戻った望美を、ヒノエは軽く抱き寄せた。






「お前が熊野を大切に思ってくれてるのはうれしいよ。でもお前には熊野よりオレを考えていて欲しいな。………お前だけと言えないオレが願うのは、卑怯かもしれないけどね」
「私はヒノエくんが一番だよ。そのヒノエくんが大切に想ってる熊野だから、私にも特別なの。少しでも役に立ちたいの」
 熊野を愛するヒノエが大好きだから。
 ヒノエが愛おしいように、熊野も愛しい。
 ヒノエから必要とされ、尚且つ熊野からも必要とされたいと思うのは欲張りなのだろうか?
「本当に、お前は大した女だよ」
 愛されるだけでは満足しない女。それがヒノエの愛した望美という女。
 彼女は愛されるより深く、相手を愛してその優しい懐で守ろうとする。
 女はか弱く守るべきものというヒノエの概念を、木っ端微塵に打ち崩してくれたのが望美だ。
 そしてその時に知った。
 熊野を守るヒノエと同じ目線で立てる女がいることを。
 本当は、熊野の民は望美を認めている。
 でもそれはどんなにヒノエが言葉を尽くしても、望美が肌で感じないと信じないことをヒノエは分かっていた。
 だから余計なことは言わない。
 これから先、望美がこの地に必要とされていることに自分で気づくまでは……。
「きゃっ!ヒノエくんっ!?」
 機嫌よく声を立てて笑いながら、ヒノエは軽々と望美を抱いて立ち上がった。
 ぐらりと体勢を崩され、望美が慌ててヒノエの首に縋りつく。
 ヒノエは前髪から覗いた望美の額にそっと唇を押し付けた。
「もう月も酒も十分堪能したし、そろそろ二人きりで楽しもうか?」
「……疲れてないの?」
 心配そうにヒノエを見上げて窺う望美の表情に、拒否の色は無い。
 ヒノエは望美が大好きだという、極上の笑顔を浮かべて囁いた。
「オレかい?そうだね、心地よい疲れってとこかな。それよりもお前が足りないんだ、満たしてよ……」
 甘えて強請るように言えば、望美は嬉しそうに笑った。
「……私にしか出来ないこと?」
「ふふ、当たり前。お前しか出来ないよ。オレの心を癒すのはね……」
 そう言ってヒノエが顔を寄せて軽く促せば、望美が柔らかく微笑んでヒノエの唇に彼が欲するものを与えた。








 でもね…。
 ヒノエと口付けを交わしながら、望美はそっと心で想う。







 私の心を癒せるのも、ヒノエくんだけなんだよ……。













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