「あ、雨…」
掃除時間、何気なく外を見た望美は、中庭の石畳を濡らす雨粒に気づいた。
「本当だ。降ってきちゃったね」
望美の呟きを聞きつけたクラスメートの絵里が、窓から身を乗り出すようにして空を見上げる。
「望美、傘持ってきた?」
「うん、天気予報見て折り畳みをね」
「そっかー…」
「絵里、もしかして忘れた?」
「うん、うっかり…」
降り始めた雨は徐々に強さを増している。
傘が無ければ駅へ辿り着くまでにびしょ濡れになってしまうだろう。
窓から手を差し出し雨足を確かめつつ、眉間に皺を寄せてどうしようかと悩む絵里に、望美は仕方ないねと笑って見せた。
「駅まで入れてあげようか?折りたたみだから小さいけど、急げば大丈夫そうだよ」
「ありがと、望美。お願いするよ」
「うん、わかった。じゃあ、さっさと掃除終わらせようか」
そして二人は掃除の続きをするために、おしゃべりしながら窓辺を離れたのだった。
掃除もHRも終わり、二人は仲良く昇降口で靴を履き替えていた時だった。
「絵里」
後ろから名前を呼ばれて、望美と話していた友達がその声へと振り返った。
「宏之?」
「お前、傘持ってねーの?」
薄っぺらい学生鞄を脇に抱え、ポケットに突っ込んだ手に傘を引っ掛けた男子が歩いてくる。
サッカー部のレギュラーとして、女生徒に人気の同級生。
一緒のクラスになったことはないけれど、将臣とは違う意味で目立つ男子の一人である彼の存在は望美も知っていた。
その彼が望美の隣、絵里に視線をきっちりと合わせている。
それでぴんときた望美は、絵里を肘で軽く突いた。
「絵里?もしかして?」
「あ〜、うん。…ちょっと前からね」
少し頬を染めて、恥ずかしそうに舌を出した絵里。
その女の子らしい可愛らしさに、望美もついつい笑みがこぼれた。
「入っていくか?」
目線で自分の持った傘を示す彼のしゃべり口はぶっきらぼうだが、絵里を見つめる瞳はとても優しい。
戸惑いながら自分と彼を交互に見比べる絵里の背を、望美が軽く押した。
彼のほうへと…。
「一緒に帰ったら?」
「でも…」
「これ、折り畳みだから。彼の傘の方が大きいよ」
さりげなく気を使わせない言い方をする望美に、絵里は申し訳なさそうに軽く指先をあわせた。
「……ごめん、ありがとう、望美」
「じゃあね」
望美は二人に軽く手を振って、雨粒を落とす灰色の空に向かって傘を広げた。
雨が降ると思い出す。
あの命を懸けた日々に、ヒノエと二人で見上げた雨の空を。
濡れ縁の欄干に二人で寄りかかり、ただ静かに泣く空を見つめた。
指先でゆるゆると望美の髪を弄びながら、ヒノエは物憂げに何かを考え、そして切なさを滲ませた顔を垣間見せた。
お互いの温もりだけに寄り添った静かなひと時…。
ヒノエが好きだと自覚したのはいつだっただろう?
学校の渡り廊下で初めて白龍と会い、将臣と譲と一緒に異世界に飛ばされたのも雨の日だった。
炎の中で彼を亡くし、彼を、みんなを助けたくて、慟哭しながら逆鱗を握り締め運命をやり直したのも雨の日だった。
雨に濡れながら声が嗄れるほど泣いた。
そして…。
たった一言だけであっさりとヒノエにこちらの世界へ送り返された時間も、あの雨の日の渡り廊下……。
雨はあの人を思い出させる…。
あの人と運命が交わった日だから。
望美は傘の向こうの空を見上げ、時折傘の中に降り込んでくる雫を顔に受けた。
頬を打つ冷たい雨は、望美の淋しさを増幅させるようで……。
「逢いたいね…。今、何してるのかな?ヒノエくんは……」
その切な過ぎる呟きは、時空の向こうのヒノエには届かない。
『帰りなよ』
二人っきり、誰も邪魔することのない海の上で甘い一夜を過ごした直後、ヒノエから放たれた一言。
あっさりと当たり前のように言われたそれが信じられなくて、いつもの軽口だと思い売り言葉に買い言葉で『帰る』と答えてしまった。
瞬間、ヒノエの綺麗な顔が、ほっと安堵を浮かべたのを望美は見てしまった。
ヒノエは言質をとったとばかりに、望美の帰還を白龍に促したのだ。
望美がそれを拒絶する暇なんてなかった。
白龍は乞われるまま時空を開いて……。
『待ってっ!ヒノエくん!!』
ヒノエを求めて伸ばした手と望美の叫びは、すべてを取り戻した白龍の強大な力の前に掻き消された。
でも…。
望美はその一瞬、歪む空間の向こうのヒノエが不敵な笑みを浮かべたのを目にした。
その彼の唇が、ヒノエと離れたくないと嘆く望美に何かを語りかけたが、それが望美の耳に届くことはなかった。
最後にくれた言葉はなんだったのか。
ずっとずっと考えて。
ヒノエを求めて、また泣き叫んで。
再び縋ろうとした白龍の逆鱗は、何故か望美の胸から消えていた。
どこで無くしたのか。
どれだけ探したか。
それでも見つからなかった逆鱗。
ヒノエとの微かな繋がりさえも絶たれた瞬間だった。
残ったのは、ポケットに入った真珠の耳飾りのみ。
もう二度と会えないのだと慟哭した。
それなのに…。
桜吹雪の中。彼は当たり前の顔をして、いつものとおりの喰えない笑顔で、ひょっこりと望美の前に現れたのだった。
どうしてここにいるのか。
どうやって来たのか。
彼はいつもの悪戯っぽい目で、楽しそうに種明かしをしてくれた。
どれだけ望美が泣いていたかも知らないで。
涙ながらにヒノエを責める望美を、ヒノエは困ったように、でも愛しさを込めて抱きしめてくれた。
あの日から、ヒノエと望美の時空を越えた遠距離恋愛が始まった。
けれどその遠距離恋愛は一方的。
望美がヒノエに会いたいと願っても、それが叶うことは無い。
時空を越えるための逆鱗は、ヒノエが握っているから。
恋の逢瀬は、ヒノエの気持ち次第。
クリーム色の傘の下、長い髪を揺らして一人歩く彼女。
絵里は少し離れて望美の後姿を追うように、彼氏の腕に自分の腕を絡めて歩いていた。
雨足はあまり強くない。
傘に収まりきらなかった肩も、駅までなら酷く濡れることは無いだろう。
絵里は望美の背中を見つめ、きゅっと唇を噛み締めた。
「絵里?」
腕に縋り付く彼女の変化に気づいた彼が、不思議そうに絵里を見下ろす。
日頃はぶっきらぼうで気遣いには程遠い彼なのに、意外と絵里の気持ちの変化には聡い。
彼は絵里の視線を追って、望美に目を向けた。
「あいつ、春日だよな?」
「そうよ。知ってるの?」
「ダチがすっげー意識しててさ、告るチャンス狙ってるんだよ」
「あ〜、それはやめておいたほうがいいかも」
「ん?彼氏いるのか?」
「らしいよ。詳しくは知らないけど…」
「有川か?」
「ううん、有川兄弟はただの幼馴染みだって。彼とは遠距離らしいけど、望美、その手の話はあんまりしないんだ。…逢いたくなるから話したくないって。写真も持ってないし」
「…マジか?ホントはフリーなんじゃねーの?」
「写真も持ってないから、やっかみで嘘だって言ってる子もいるけど…。でも嘘つく必要ないし…」
「見栄はってるとか?」
「まさか…。そんな子じゃないよ。可愛いし有川くんと仲いいから悪く言われることもあるけど、望美は嘘つくような子じゃないもん」
二人の視線の先には、望美の凛とした背中。
隙の無いその姿は、どこか近寄りがたいものを感じた。
「……すごく淋しそうなの」
「ん?」
「望美ね、たまにふと淋しそうに空を見上げるの。あの顔を見たら、たぶんなかなか逢えない彼の話は本当だと思うよ」
「絵里…?」
自分の腕に縋る腕の強さが増し、彼は不思議そうに絵里を見下ろした。
「傍にいられるって、幸せだね…」
寄り添う二人の先に、たったひとりで歩く望美がいた。
傘を叩く雨の音が、望美の切なさと淋しさを増幅させる。
この雨はいったいいつの雨だろう?
もしかしてヒノエと再会できたのは夢の中なんじゃないのか?
そもそもあの世界の出来事が、自分の夢だったのかもしれない…。
そんな錯覚さえ起こさせる。
雨は苦手。
この世界と向こうの世界が交錯した、いくつもの日を思い出すから。
会いたいと願っても、その願いは雨に流されていくようで…。
赤い色。
どうしてだろう、無意識にその色に視線が行くのは…。
望美は雨の向こう、大きな木に寄りかかるようにして立つ人に視線を吸い寄せられた。
雨に濡れた赤い髪。
ふっと上げた視線は、まっすぐ望美を射抜いて…。
望美は瞠目し、次の瞬間、濡れた地面を蹴って走り出した。
「ヒノエくん!!」
望美の呼び声に、彼は破顔してその腕を広げた。
望美は傘を放り出して、迷いなくヒノエの腕の中に飛び込んでいく。
雨に濡れるのも、誰かがいるのも、もう頭になかった。
雨はいつも運命を運んでくる…。
<終>
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