清盛との決着をつけ、白龍の神子としての務めを終えた望美は、ここに来た時にあれほど願っていた自分の世界へは戻らなかった。
 この世界で戦いに明け暮れた日々。罪とは知りながら何度も書き換えた運命。すべては守りたい人がいたから。






 一度戻った自分の世界から、悲しみと憤りで泣き叫びながら、再びこの世界の戦いに身を投じたのは自分自身の意思だった。  




 あの人に生きていて欲しい。ただそれだけを願って・・・・。








 だから望美はその人に望まれたとき、自分の世界よりもこの世界を選んだ。
 戦いに明け暮れた日々の中で、たくさんの人の運命を狂わせてきた。『彼を死なせない。必ず救ってみせる』それは自分のエゴだ。その為に犠牲になった人だって大勢いるだろう。
 そんな自分が幸せになるなんて許されないと思った。
 けれど……。
 自分が目指して選択した運命。たくさんの人を傷つけて掴み取った運命。だから誰になんと言われようと、その運命の波に乗ろうと決心した。
 誰よりも愛した人のいる世界、そこで生きていこうと……。
 望美は許されざる罪を抱え、それでも自分が作った運命の中に身を投じた。





 自分勝手だと、我侭だとののしられてもいい。
 ただ一度だけの人生だから、自分の想いに恋に正直に……。






 この身に刻まれた罪の証は、決して消えることは無いけれど……。すべてを抱え、前を向いて歩いていくと決めたのだった。







「攫っていくよ」
 そう言ったヒノエに、言葉通りあっという間に連れて来られた熊野で、望美は落ち着く暇もないままヒノエとの祝言の日を迎えた。
 熊野別当であり、神職も勤める藤原湛増の祝言は厳かに行われた。
 手順はじっくりと何度も打ち合わせたはずなのに、望美は自分がとんでもない失敗をしないかと、ひやひやどきどきしてものすごい緊張に包まれていた。
 真面目な望美らしい緊張を見ながら、ヒノエが「大丈夫だよ」というけれど、それさえも耳に入らないくらいだった。
 だから儀式が終わった時は、みっともないけれどほっとして膝が崩れかけた。
 それをさりげなく支えてくれたのは、隣にいた夫となったばかりのヒノエだった。
 腰に回された力強い腕に支えられて、望美はこの人とともに歩いていくのだと、改めて感じた。
 そう思った瞬間、ほろりと頬に流れた涙。
 




 言葉に言い尽くせぬさまざまな感情が一気に押し寄せるようだった。
 平和で穏やかな日常から、戦の真っ只中に落とされて、運命に導かれるように出会った人……。
 鮮やかに、望美の心を奪った人。






「涙を流すのは、オレの胸の中だけにしてくれよ……」
 熊野別当の顔から、望美を愛する男の表情に変わったヒノエが、指先で望美の涙を優しく拭った。
 





 
 そしてその夜。
 日中の神聖な雰囲気とは打って変わって、披露宴代わりの宴は大騒ぎとなった。
 すでにヒノエは水軍衆に囲まれて、祝いの言葉とともにどんどん酒を飲まされている。望美が見ていて、大丈夫かと思うくらいの酒量を皆が飲んでいた。
 望美は今まで、アルコールを飲んだ事がなかった。
 向こうの世界では未成年だったし、戦の最中は勧められても自分の酒量がわからないからとすべて断っていた。
 そのため今日も皆が勧めてくれる酒を、おっかなびっくりちびちびと舐めている程度だった。
 





 しかしそのちびちびも酌をしてくれる人が多ければ、舐める量もおのずと多くなる。祝いだからと勧められれば無下に断るのも気がひけて、望美は少しずつ杯の酒を減らしていった。
「望美さま、大丈夫ですか?」
 白い肌が酒で紅く染まった望美に、側についていた女性が控えめに声をかけた。
「……ちょっとふわふわするんだけど」
 望美の目元も赤く染まり、少しだけ潤んでトロンと眠そうになっている。
 これが酔っ払うということだろうか?
 初めての感覚が分からなくて、望美は首を傾げてみせた。
 女性はほろ酔いの望美の可愛らしさを微笑ましく思い、そっと望美の手から杯を取りあげた。
「里さん?」
 ヒノエがこの屋敷内で望美の側につけた母親ほどの年齢の彼女は、すべて心得たように小さく頷く。
「そろそろお部屋に戻りましょう」
「でも、まだ……」
 宴は続いている。
 今夜はヒノエと望美の祝言を祝う宴だ。
 その主役がさっさと席を外していいものだろうか?
 宴を見渡して戸惑う望美に、里は大丈夫と笑った。
「もうすでにただの酒宴と化してますから。お酒があればいいのですよ」
「でも、ヒノエくん…」
 望美の視線の先で、野太い笑い声をあげながら水軍衆がヒノエの杯を酒で溢れさせている。
「別当殿に皆が勝負をかけるのはいつもの事。あのくらいはまだまだ大丈夫」
「あのくらいって……」
 望美に言わせれば、すでに浴びるほど飲んでいるヒノエ。
 確かにしっかりと正気は保っているようだが……。
「海の男は酒を呑んでものまれませんよ。命取りですから。別当殿もご自身の酒量は分かっておられます。それよりも望美さまの方が、これ以上は……」
「……そう思う?」
「ええ。少し酔いを醒まされたほうがよろしいかと」
「わかりました」
 望美は場を崩さぬようそっと立ち上がると、里に支えられながら宴席を後にした。









「ふにゃ……」
 部屋に戻ったとたん、望美はころりんと身体を横にしてしまった。
 立ち上がった時に頭がふらりとしたが、どうやら歩いている間に酔いが回ってしまったらしい。
 お行儀が悪いと思いつつも、身体がだるくて座っていられなかったのだ。
 でも気分は悪くない。ただ身体が火照って、力が抜けただけだ。
 里はそんな望美を見て、楽しそうに笑った。
「どうやら望美さまはお酒はあまり飲めないようですね。白湯、お持ちしましょうか?」
 里は横になった望美の身体が冷えないように、衣をふわりとかけてくれた。
「はい……。お願いします。お母さんが飲めなかったから、遺伝なのかな〜?」
 里が用意してくれた白湯を飲み、また横になり目を閉じる。
「大丈夫ですか?」
 里は心配そうに望美の火照った頬に触れた。
「…冷たくて気持ちいい」
「濡れた布を使われますか?」
 里の心遣いに望美は首を振った。
「大丈夫です。気分は悪くないから………。ふふ…」
「どうされました?」
 淡く切ない微笑みを浮かべた望美の小さな笑い声を拾って、里は優しく問いかけた。
 望美は里を見上げて、頬に当てられた手に自分の手を重ねた。
「里さん、お母さんみたいだなって…」
 望美はそっと呟いて哀しげに微笑んだ。
 閉じた目尻から零れ落ちた涙。
「望美さま……」
 今宵、熊野で一番幸せであるはずの望美。
 誰もが羨む最高の男の花嫁となったばかりで、幸せの真っ只中にいるはずだった。
 小さな頃から夢見ていた、お嫁さん。
 命を懸けて愛した人と誓いをたて、夢を叶えた幸せな夜なのに……。今、思い出されるのは、向こうの世界にいる両親のことばかり…。
 一度、思い出してしまえば、たくさんの優しい記憶が望美の中を駆け抜けていく。
 父の飲むビールをコップ半分ほどもらって顔を紅くしていた母。
 その横で、すぐ酔うから安上がりだねって笑っていた自分。
 ずっと続くと思っていた家族の団欒だった。
 当たり前すぎて、それが失われるなんて思っていなかった。
 この世界に来た時は、絶対に帰るんだと思っていた。
 一言も告げることなく、突然大好きな両親と別れることになるなんて夢にも思っていなかった。







「いってらっしゃい!お父さん、今日は早く帰ってきてね」
 あの日、望美が出勤する父の背に向けて言うと、わかったと手をあげた父。その広い背中が今も目に焼きついている。
「気をつけてね」
 望美が家を出る時に母が毎朝かけてくれるいつもの言葉が、最後の母の思い出になった。







 何も、言えなかった。
 こんな運命が待っているなんて知らなかったから。
 








「ごめんなさい……。ちょっとダメだ」
 里の手に母の面影を感じ、望美は溢れる涙を止める事が出来なかった。
 さよならさえ言えなかった。
 自分が選んだ道を見守ってもらうことも出来ない。
 ここまで育ててくれた両親に、感謝の言葉を伝えられない。
 ずっと望美を守ってくれた両親。それなのに、なんて親不孝なのだろう。
「望美さま…」
 戦いに明け暮れていた日々は、命を守る事、大切な人を守る事でいっぱいいっぱいだった。
 それが終わっても、バタバタとしていてあちらのことを思い出す暇がなかった。
 譲が帰る時も、泣いてはいなけいと自制をかけていた。
 でも、今はその自制のたがが外れてる。
 もしかするとお酒のせいかもしれない。
「ごめんなさ、っ…」
 止めようとしても、涙が零れていく。
 里は両親を想って静かに泣く望美の背を慈しむ様にゆっくりと撫でた。
 その優しさが心に染みて、望美はゆっくりと想いを語った。
「お父さんもお母さんも厳しくて優しかった。……すごく大切にしてもらってた。お父さんは「恋人が出来たら見極めてやる!」っていつもふざけてて…。お母さんは「馬鹿言ってると、娘に嫌われるよ」て笑ってた…。お嫁に行く時は、「お世話になりました」て、三つ指ついてお礼を言うはずだったのに…」
「望美さま…」
「逢いたいって何度も思った。怖いと感じるたび、助けてって……。声に出すことは許されなかったけど、心でいつも助けを求めてた。……一番最後まで無条件に私を守ってくれたのは、他の誰でもない、お父さんとお母さんだったから……。それなのに、いつの間かヒノエくんに助けを求めるようになってた」
「………」
「親不孝だよね、自分勝手だよね……。ずっとずっと育ててもらったのに……。逢いたいよぅ……」
 望美は里の手を強く握って、小さく嗚咽を漏らす。
 幼子のように身体を丸めて泣く望美。里はただ、その手を擦ってやることしか出来なかった。










「姫君?」
 身を切るような哀しげな嗚咽。
 聞こえてきた時は空耳かと思った。
 この婚礼の夜に相応しくない、嘆きの声などありえないはずだ。
 しかし、その声をたどって辿り着いたのは、愛しい女の部屋だった。
「別当殿………」
 望美の手を握った里が、部屋に入ってきたヒノエに困惑の表情を見せた。
 望美は里の足元に丸くなって泣いている。
 微かな声で、『逢いたい』と呟きながら…。
「望美?」
「少し酒に酔われたようです…」
「…何故泣いている?」
「……ご両親を思い出されて……」
「ああ……」
 だから『逢いたい』なのか。
 ヒノエは僅かに顔を顰めて、望美の側に膝をついた。
「望美…」
 大きな手で背中を撫でられ、望美が顔を上げる。
「…ヒノエくん」
 望美はヒノエの姿を認めると、泣き濡れた顔のままヒノエの胸に飛び込んだ。
「っと…」
 体当たりをするような勢いの望美を抱きとめ、ヒノエはしがみついてくる彼女を腕の中に抱きこんだ。
「別当殿……」
「ああ、お前はもう下がっていいよ」
「はい……」
 ヒノエは少しだけ酒で目元を紅くしているが、さすがに自分を失うほど呑んではないらしい。
 それを確認して、里は泣き続ける望美をヒノエに託し、一礼して部屋を辞した。








「望美…」
 耳元で名を呼ぶと、望美はぎゅっと腕に力を込めてますますヒノエにしがみ付いた。
「……ごめん、……ごめんね、ヒノエくん」
「どうして謝るんだい?」
「だって……」
 婚礼の夜に、向こうの世界を思い出して一人で泣くなんて……。
 ヒノエは謝り続ける望美を抱きしめ、彼女が落ち着くまで何も言わず、慰めるようにその背をゆっくりと擦った。






 
 やがて望美の嗚咽が収まり、呼吸が緩やかになる。
 ヒノエは望美の気持ちが落ち着いたのを知って、そっとその耳元に唇を寄せた。
「……ねぇ、望美?お前は後悔しているのかい?」
「後悔?」
「この世界に残ったことを……」
 ヒノエの問いかけに望美は驚いて、涙に濡れた顔を上げた。
 ヒノエは淡く切ない表情で、望美の涙を唇で吸い取った。
「…ヒノエくん?」
 なぜ突然、ヒノエがそんなことを聞くのか、真意が分からなくて望美は不安げな眼差しを揺らす。
 ヒノエは自分の言葉で表情を強張らせた望美を、安心させるかのようにその頬を優しく撫でた。
「お前の気持ちを疑ってるわけじゃないよ。ただ、聞いておかなきゃいけないと思ってた。………オレは、お前に考える暇を与えなかったからね」
「……考えたよ?」
 妹背山でヒノエの本心を聞いたとき、どうしていいか分からなくて誤魔化してしまったけれど、きっとあの時に自分の心は決まっていた。
 ヒノエが、熊野が一番と望美に告げた瞬間、彼の本気を信じることが出来たから。
 あの日からずっと考えていた。
 ヒノエとの恋の行方を……。
 自分の身の処し方を……。
 そして、望美は選んだ。
「そうかな?冷静に考える暇はなかったと思うけどね。戦いが済んだら、オレはお前を攫ってきた」
「………私は、望んで攫われたんだよ?」
 望美はヒノエの腕の中から身を起こし、涙を拭って彼の前に居住まいを正した。
 泣いたからだろう、さっきまでふわふわしていたけれど、もう酔いは醒めたようだった。
「望美?」
 自分の前に姿勢を正した望美を、ヒノエは訝しげに見た。
 望美も真摯な眼差しでまっすぐにヒノエを見つめ返した。
 ヒノエに誤解されたくなくて、ここでしっかりと話しておかないといけないと思ったから。だから、望美は自分の抱えている思いの一部を口にした。
「謝ったのは、ヒノエくんがいないところで泣いたからだよ?……帰りたかったわけじゃない」
「……後悔してないかい?」
「後悔なんかしてない。私はもう決めたの、この運命をヒノエくんと歩いていくって……」
「そうか…」
 僅かにヒノエがほっと息を吐いたのを、望美は敏感に感じ取った。
 やはりヒノエは心のどこかで、望美を信じきれていないのだろうか?それは少し哀しいけれど、当たり前なのかもしれないとも思った。
 ずっとずっと向こうへ帰るんだと、頑張っていたのは他の誰でもない、望美だから。それを見てきたヒノエが不安に駆られるのは仕方がないのかもしれない。
 でも、望美はヒノエの傍に居ることを選んだ。
 それを信じて欲しい。
 だから、望美は向こうに対する想いを素直に吐露した。
「でもね、向こうを忘れることは絶対にないと思う。私は向こうの世界で生まれて生きていたから……」
「……ああ」
 ヒノエは静かに望美の想いを聴いてくれていた。望美を見つめた瞳を揺るがさずに…。
 望美はヒノエの紅の瞳を見つめ、しっかりとその手を取った。ヒノエの温かなぬくもりが、望美の胸を温めてくれる……。誰よりも優しく……。
「優しかったお母さんもお父さんも忘れられないし、会いたいとも思う。友達とおしゃべりをしたいって思うこともきっとある。寂しくて逢いたくて懐かしくて、きっと泣いちゃうと思うし、向こうでは当たり前の事だけど、ヒノエくんが知らないことを言って不愉快にさせちゃうかもしれない」
「…ああ」
「でもね、後悔だけはしない。生まれてからずっと過ごしていた向こうの世界より、私はヒノエくんと一緒にいることを選んだ。それは、きっと人生最高の決断だって信じてるんだよ。だから、後悔しない」
 強い意志の光を放つ望美の瞳は、ヒノエを惹きつけてやまないもののひとつだ。
 その輝きをヒノエは眩しそうに受け止めた。
「望美……」
「……出来るなら、お父さんとお母さんにヒノエくんを紹介したいんだよ。私が選んだ人はこんなに素敵な人なんだって……」
 望美はヒノエに手を伸ばしてその頬に触れ、その輪郭を確かめるように手を滑らせた。
 ヒノエのぬくもりを感じ穏やかに微笑む望美の瞳から、はらはらと零れ落ちる涙は、灯台の明かりを弾いて美しく煌いた。
 ヒノエは包み込むように望美の手をとり、そっと手のひらに口付けた。
「お前が置いてきた大切なものをオレは忘れない。……オレにとっての一番は熊野だけれど、オレは心からお前を愛すよ……」
「うん……。私も、熊野が一番と正直に言ってくれるヒノエくんが好きだよ。私はそんなヒノエくんを選んだの。きっと時空を越えて、赤い糸が続いてたんだね…」
「望美……」
「大好き、ヒノエくん……」
 言葉だけでは足りないと、望美はヒノエの背を抱きしめた。
 ヒノエは望美の身体を受け止め、しっかりと抱き返してその髪に口付ける。
「……ありがとう、望美。……愛してる、誰よりも……」
「うん……」
 求め合う心のまま、二人はゆっくりと唇を重ねた。













<続>