確固たる信念を持っている人は素敵だと思う。
 夢を追いかけている姿は眩しくて憧れる。





 
 それが好きな人ならなおさら。
 でもたまにちょっとだけ不満になる。






 だって絶対に一番にはならないから。
 たまには振り返って欲しい……。






 望美の恋人は夢追い人。
 自分の夢を追って、多くの人にたくさんの夢を見せている。






 彼の紡ぐ言葉と奏でる音楽が、ふとした瞬間を彩ってくれる。






 彼の名は『ヒノエ』
 不世出のボーカリストと言われ、日本のみならずアジアでも絶大な人気を誇るロックユニット『グリフォン』の片割れだ。






 普通の女子大生の望美にとっては、ただ一人の恋人なのだけれど……。






 彼は望美だけのヒノエではない。






 ヒノエはいつだって『グリフォン』が、音楽が、ファンが一番だから……。












「いらっしゃいませ」
 メンズショップのドアが開くと、落ち着いた雰囲気の女性が笑顔で出迎えてくれた。
 彼女はこの店の店長でヒノエの担当でもある。
 望美はヒノエが開けてくれたドアをくぐり、店内に入った。






「あら、お久しぶりですね」
 入ってきた客が望美とヒノエだと気づいた店長が、少し砕けた口調で話しかけてきた。
 いつもならそれに軽口で応じるヒノエだが、今日は軽い会釈のみ。
 望美はそんなヒノエをちらりと見て苦笑を浮かべた。
「ごめんなさい。ヒノエくん、ライブツアー中だから声を極力出したくないんだって」
 そう言って、声を封じたヒノエの代わりに店長に断りを入れた。
 すると店長はなるほどと頷いた。
「判りました。でもせっかくヒノエさんと一緒にいるのに春日さんも残念ですね」
 ヒノエと望美の関係を知っている店長の軽いからかいに応え、望美はわざとらしく頬を膨らませて見せた。
「今日の私はヒノエくんの通訳みたいなものですよ?もう、私を何だと思ってるんだか…」
 少し愚痴っぽくなった望美を宥める為か、ヒノエが詫びるようにその肩を叩いた。
「少しは悪いと思ってるの?」
 望美が店の奥に歩いていくヒノエの背中に問いかけるが、振り返ることなく軽く頷く仕草を見せる。
 その飄々とした態度が彼らしいといえば彼らしいが…。
 望美は諦めたように溜息をついた。
 そんな二人を見ていた店長がくすりと笑う。そしてそっと望美の方へと僅かに身体を傾けてこっそり囁いた。
「春日さんに甘えてますね、ヒノエさん」
 しかし望美は、そのコメントに対して不服そうに眉を寄せた。
「声を出さないっていうのに、買い物には行くなんてわがまま言うんですよ?新しい服が欲しいからって」
「それで春日さんが付き合っていると?」
「だって一人だったら、普通に声出しちゃうと思うし」
「優しいですね」
「……そうでもないんだけど」
 店長の好意的な解釈へは、曖昧な苦笑いで返し、望美は誰にも聴こえないように小さく呟いた。






 
 優しいとかじゃない。
 ただヒノエと一緒にいたいだけ。







 数日前のメールのやり取りをしていた時『最近会えないね』と話の流れで送ったメッセージへ、『楽しくなくていいなら会えるけど?』と返して来たのはヒノエだった。
 楽しくないって?と戸惑う望美に、ヒノエは『ライブの合間なのに喉に違和感があるから、声を出さないと思う』と教えてくれた。
 それでもいいなら、との注釈つきだったが、ヒノエに会いたかった望美は会うことを選択したのだった。








 服を見に行きたいと言い出したのはヒノエから。
 ライブや取材、撮影に打ち合わせばかりで忙しかったから、息抜きがてら次のシーズンの服を買いたいと言われ、望美もついでにウィンドショッピングでもとついてきたのだが……。
 行く先々の店で、ヒノエの無言の理由を説明する役回りになってしまった。







 
 ヒノエは本当に徹底してしゃべらない。
 今回のライブスケジュールが過密なせいか、ほんの少しの違和感でも、ヒノエはいつも以上に過敏になっているようだった。
 ライブの残りはあと3本。
 ファイナルに向けて、コンディションを落とすわけにはいかない。
 






 ということで、望美は今日ヒノエと会ってから彼の声をまったく聞いていなかった。








「これいい色〜」
 メンズの服だから望美が着れるものはなかったが、女性にはない格好良さやシャープさのある服を見るのは楽しかった。
 望美の目を惹いたのはオーガニックコットンのシャツ。
 洗いざらしのような皺加工で、朝焼けのようなグラデーションの暖かみのある色合いのものだった。
 ハンガーを手に取り、そのシャツを眺める望美の背中越しに、ひょいっと腕が伸びてくる。
「ヒノエくん?」
 そしてそのシャツをそのまま自分の身体に当てて見せた。
 朝焼けの色は、ヒノエの赤い髪と白い肌にとてもよく映えて……。
「ヒノエくん、すごく似合うね、その色。ブラックデニムとかよく合いそう」
 望美が思ったまま褒めると、ヒノエは当たり前だろと笑ってみせる。
 しゃべらなくてもヒノエの表情はとても豊かだ。
 まっすぐに望美を見つめてくる眼差しが、ヒノエの心をはっきりと映し出している。








 週の半ばの昼下がり。
 表通りから少し入ったこの店は、若手デザイナーの服を中心としたセレクトショップで知る人ぞ知る店だ。
 それゆえに、丁度今の時間帯は店内にヒノエと望美しかいなかった。
  過度な干渉を嫌うヒノエを知っている店長は、レジカウンターで二人の邪魔をしないように注意を払いながらも仕事をしている。






 服や小物を見ながらのんびりとした時間を楽しんでいた二人だったが、ふとヒノエの顔が顰められ小さな舌打ちが聞こえた。
「ヒノエくん?」
 どうしたのかと問いかけると、ヒノエは嫌そうに表情を曇らせ、持っていたシャツを望美に手渡す。
 そしてデニムの後ポケットから携帯を取り出した。
 ヒノエの携帯はイルミネーションをキラキラと光らせ、低い振動音が着信を告げていた。






 ヒノエが携帯を開き、ディスプレイを確認するとますます眉間の皺が深くなる。
 そして溜息を吐きつつ、その携帯を左耳に当てた。
「もしもし?どうしたんだよ、マネージャー」
 いつもよりも抑えた声だったが、それは確かにヒノエが発した声だった。
 邪魔にならないように店の隅に移動しながら、ヒノエは電話を掛けてきたマネージャーにきちんと応対している。








 望美には掛けられなかったヒノエの言葉。
 でも『グリフォン』に関しては別。
 当たり前だ。
 喉を守るのは歌のため。ライブのため。『グリフォン』のため。








 普段なら店の外に出るのだろうが、他に客もいないからヒノエは隅の壁に向かって携帯で話している。
 そんな彼の背中を見つめていた望美は、腕に掛けていた服を見下ろして、きゅっと唇を噛んだ。
「少し外の空気を吸ってきます。すぐに戻ってきますから、ヒノエくんに心配しないでって伝えてください」
 望美はレジカウンターにヒノエがチョイスしていた服を置き、店長にヒノエへの伝言を残しそっと店を出た。
そして望美はその店の正面にある小さな公園へ歩いていき、木陰に設えられたベンチに腰掛けた。











「だめだなぁ、私……」
 お尻の横に手をついて、前に真っ直ぐ投げ出した足先を見つめる。
 伸びをするように足首を思いっきり伸ばしてから、ふっと力を抜いた。







 今日は聴けるはずのないヒノエの声。
 しかしヒノエは躊躇うことなく、マネージャーからの電話に出た。
 それを耳にしたとたん、自分とグリフォンの差を感じてしまった。
 ヒノエにとって音楽は特別だとわかっている。
 高校を中退してまでこの世界に飛び込んだくらい、ヒノエには音楽が一番大切なのだ。
 それは知っているし、ヒノエからもはっきりと告げられている。







 彼の本気がわかるからこそ、望美も『グリフォン』を最優先させるヒノエを応援してきた。






 でも……。





 やっぱり淋しくなる。
 ヒノエは優しい。そして望美に惜しみない愛情を示してくれる。






 けれど、ふとした瞬間に迷い無く『グリフォン』がすべてにおいて優先されるのがわかると切なくなる。







 望美にはヒノエが一番だけれど、ヒノエは……。






 今日、ヒノエはたった一言さえも望美にはくれなかった。
 望美、とあの優しい声で名前を呼んでくれることもなかった。







 でも『グリフォン』は違う。
 





「敵うわけないのにね……」
 溜息ひとつ零して、望美はがっくりと項垂れた。





 グリフォンを優先するヒノエに怒ったわけではない。
 だた少しだけもやもやとした気持ちが湧き上がって来ただけ。





 
 ヒノエの電話が終わった頃を見計らって店に戻ろう。
 それまでほんのちょっとの時間で、このやるせない気持ちを落ち着けて……。







 そう考えてぼんやりしていた望美は、いきなり膝の上に置いたバッグから伝わってきた振動に驚いた。
 メールを受信した振動だ。
 もしかしたら、店から出た望美を探してヒノエが送ってきたのかもしれない。
 それとも友達かも。
 でも今はどちらであってもメールを見る気がせず、望美は項垂れたまま自分の揺れる長い髪の毛先を見つめていた。






 サァ…っと通り過ぎていく風が心地よくて、望美はそっと目を閉じた。





 

 ざりっと土を踏みしめる音がすぐ近くで聞こえ、望美は俯いたまま閉じていた瞼を上げた。
 その目線の先にあったのは男物の靴。
 それから伸びる足を辿るようにゆっくり視線を上げていくと、腕を組んで少し困惑の表情を浮かべたヒノエが立っていた。







「ヒノエくん……」
 望美が呆然とヒノエを見上げると、ヒノエはほっと安堵の息を吐き、その大きな手で望美の頭を遠慮なくぐしゃりと掻き回した。
「ちょっ、髪が乱れるって」
 望美が抗議の声を上げると、ヒノエはすぐに手を放し望美の横にどすんと腰を下ろした。
「探しに来てくれなくても、もう少ししたら戻ったのに……」
 あと少しだけ時間が欲しかった。頭を冷やす時間を。
 力なく呟いた望美の言葉は、ヒノエのわざとらしい大きな溜息に掻き消された、
 驚いてヒノエを見ると、彼はちょっと怒ったような顔で『どうしたんだ?』と望美に問いかけてきているようだった。
「……なんでもない……、じゃ納得しない?」
 誤魔化そうとしたとたん、ヒノエの眼差しが鋭さを増し、望美は曖昧に言い逃れることが出来ないのを知った。
 心の奥まで見透かすような真っ直ぐな視線に気圧されて、望美は困り顔になってしまう。
 しばらくヒノエが諦めないかと待っていたが、どうやらヒノエが納得出来るような理由を言わなければ許してくれないらしい。
 望美はふっと淡く笑んで、視線を落とした。
「……こんなこと言っちゃいけないんだけど…、言わないとダメかな?」
 望美が言いにくそうに問いかけると、ヒノエは深く頷いた。
 







 携帯を切って店内を振り返った時、望美の姿が消えていた。
 足元の棚にある小物でも見ているのかと思ったが、そんなに広くない店内のどこにもいないとわかった時、ヒノエの鼓動が跳ね上がった。
 ヒノエが望美を探す仕草に気づいた店長が、すぐに望美の行方を教えてくれなかったら、彼女の名を呼びながら外へ駆け出していたかもしれない。
 自分の喉のことなど考えもせず、焦りだけで……。
 





 探さなくてもいいとの伝言を馬鹿正直に受け取ることは出来なかった。
 なぜなら、望美がヒノエの気づかないうちにいなくなるなんて今までなかったから。
 何かあったとしか思えなかった。
 





 そして慌てて外へ出て見つけた望美は、たったひとりで公園のベンチに座り、淋しそうで今にも泣き出してしまうのではないかという切ない表情を浮かべていた。







「ちょっと淋しかったのかな?」
 疑問系なのは、自分の今の気持ちをうまく表現する言葉が見つからなかったから。
「さっき、マネージャーさんからの電話受けてるヒノエくん見たら、今日は名前呼んでもらってないなと、改めて思っちゃって」
 望美が考えながら自分の気持ちを吐露していくと、だんだんヒノエの表情が曇ってくる。
 ヒノエの反応は望美の予想通りで、余計申し訳なく思ってしまった。
 望美が素直に心を伝えれば、ヒノエはグリフォンと望美の間で罪悪感を抱いてしまう。
 そんな顔をさせたいわけじゃないのに……。
「あ、でも気にしないで。無理しちゃったら大変だもん」
 声を出そうと息を吸い込んだヒノエを牽制するように、望美はヒノエの口元を手で覆った。
 淋しいといいながらも自分を気遣う望美へ、ヒノエは申し訳なさそうに目を伏せ、それからゆっくりと身体を倒してきた。
「え?え?ヒノエくん?」
 焦る望美はお構いなしで、ヒノエは彼女の肩にコトンと頭を落とした。
 頬に触れるヒノエの髪。
 望美は唐突なヒノエの行動に苦笑しながら、その頭を抱きかかえるようにしてさらさらとした髪に細い指を差し込んだ。
「どうしたの?ヒノエくん?」
「………ごめん、望美…」
「ヒノエくん…」
 吐息に乗せた小さな声。
 側にいる望美にしか聴こえない微かな囁き。伏せているヒノエの表情はわからない。
 ヒノエに名前を呼ばれるだけで跳ね上がる鼓動。
 どうしてこんなにもヒノエが好きなんだろう?
「甘えてるな、オレ……」
「そんなことないよ」
 指先でヒノエの髪を梳きながら、望美が小さく笑う。
 触れた温もりが、何よりもうれしかったから。
「好きだよ…、望美…」
 ぽつりと呟かれた言葉。
 ありきたりな単語なのに、それだけで望美の心の奥が温かくなる。
「………知ってる」
 でも返したのは可愛くない強気なセリフ。
 ホントにずるいと思う。そして悔しい。
 言葉に出来ないもやもやが、たった一言、ヒノエが名を呼んでくれただけで晴れていってしまった。
 







 少ししてヒノエが望美から離れる素振りを見せたので、望美は髪を撫でていた手を放した。
 肩に懐いていたヒノエが頭を浮かすと、その重さから解放される。
 その軽さが少しだけさみしい。
 顔を上げたヒノエと間近で視線が合う。
 その瞳がニッと悪戯めいた光を浮かべた。
 望美の脳裏に嫌な予感が過ぎったが、もう次の瞬間には掠めるように唇を奪われていた。
「……ヒノエく〜ん?」
 真っ赤になって唇を押さえる望美へヒノエはしてやったりの顔で笑い、見せ付けるように軽く親指で自分の唇を拭った。
 再び、声を封じてしまったヒノエは何も言わない。
 望美は呆れ返って肩を落とした。








 なんだかヒノエの声ひとつでいいように振り回されている気がする。
 そしてヒノエはたった一言で望美の気持ちを浮上させてしまった。
 






 敵わないと思う。
 それから、こんなにもヒノエが好きなんだとも思い知る。
 





 立ち上がったヒノエが、手を差し延べて誘ってくる。






 言葉よりも雄弁な瞳で、望美だけを見つめて………。















<終>











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