望美の恋人は有名人。
 しかも過密スケジュールに追われて、デートもままならないくらいに……。






『グリフォン』






 若い世代に人気のロックユニットのボーカリストが、普通の女子高生、春日望美の大切な恋人だった。
 名前はヒノエ。
 その美しい容姿と類稀なる歌声で人々を魅了する彼との恋愛は、望美の考える『普通の恋愛』とはかなり違うものだけれどそれはそれで楽しいものだった。
 もちろん、淋しさや切なさもたくさんあるけれど。
 それ以上に望美に注がれるヒノエの深い愛情を信じて、望美は彼との恋を育んでいた。






「おいしかった〜、ご馳走様」
 季節の素材を使った見た目も美しい夕食を、ヒノエと向き合ってにこにことおいしそうに食べていた望美が、最後の一口を終えると箸を置いて満足そうに手を合わせた。
 望美の自然な礼儀正しい振る舞いに、ヒノエの頬も緩む。
「満足したかい?」
「うん、おいしかった!すごく幸せ!!」
 望美の満面の笑顔につられて、ヒノエもふっと笑みを浮かべた。
 この旅館の料理はたしかにおいしい。
 偉そうな批評などは絶対口にしないけれど、かなり厳しい舌を持つヒノエも満足させてくれる味なのだ。




 ヒノエ自身がおいしいと思わないものを、望美に食べさせるわけがない。
 大切な望美に味合わせる価値があるからこそ、ここに連れてきたのだけれど…。
 それでもこれほどまで望美に手放しで喜ばれると、本当に連れてきて良かったとヒノエまで嬉しくなった。






 スケジュールの都合でしばらく会えなかった望美を、ヒノエが攫うようにここへ連れてきたのは夕方だった。
 隠れ家のような静かな佇まいの旅館。
 ここはヒノエが誰の目も気にしないでいられる、数少ない大切な場所でもある。
 そんな特別な場所だからこそ、ヒノエは望美と一緒に過ごしたくなったのだった。
 





「失礼いたします…」
「……ああ」
 食事が終わったタイミングを見計らったように襖の向こうから声がかかり、ヒノエの返事を待ってすっと襖が開かれた。
「お料理はいかがでしたか?」
 にっこり微笑んだのは、この旅館に到着したときに出迎えてくれた凛とした美しさをもつ女将だった。






 この旅館はヒノエの両親が贔屓にしていて、子供の頃から親に連れられてよく利用していた。
 グリフォンの仕事を始めてからは、一人でよく来ているのでヒノエ自身が常連と言っても過言ではない。
 上品な着物を隙無く着こなした年齢不詳の美しい女将も、ヒノエの幼少時代も知っている。
 だからこそ、この旅館でヒノエは自由でいられるのだった。
 






「とってもおいしかったです!幸せを満喫しました」
「ありがとうございます」
 望美の笑顔と褒め言葉を、心からのものとわかった女将がつられて微笑む。
 そして脇に置いていた盆を捧げ持ち、望美の横まで滑るように歩いてきた。
「どうぞ、デザートです」
 望美の前に置かれたのは、美しい焼き物のお皿に乗せられたデザート。
「…抹茶プリン!おいしそう!!」
 望美は大好きなデザートの登場に、キラキラと瞳を輝かせた。
 白玉と餡子と生クリームで飾られた抹茶プリンは、視覚だけでもおいしそうだ。
 しかし…。






「……あれ?ヒノエくんの分は?」
 お盆に乗っていた抹茶プリンはひとつ。
 望美は訝しげに首を傾げて、女将を見た。
 そんな望美に、女将がにっこりと微笑んで見せる。
「ヒノエ様は、甘いものは苦手ですから」
 昔からの常連ゆえに、ヒノエの食の好みはこの旅館で把握されている。
 望美は知らないが、ヒノエ一人だとデザートは出されないのだ。
 出さなくていいと、以前ヒノエ自身が断ったからだった。
「あ、そうでした……」
 望美は以前ヒノエと食事をした時に、彼から甘いものが苦手だと食後のデザートを貰ったことを思い出した。
「それに、これは春日様へとヒノエ様が料理長に注文されたものですし…」
「へ?」
「女将。よけいな事言うなよ」
 さっさと出て行けと、不機嫌を隠さずにヒノエが手で女将を追い払う仕草を見せる。
 失礼だよ!と望美が睨んで見せても、ヒノエはどこ吹く風だ。
 女将もヒノエのそんな態度に慣れているのか、口元に手を当ててころころと笑った。
「ヒノエ様が照れる姿を初めて見ました」
「………照れる?」
 どこが?とヒノエを見ると、ヒノエは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 どうやらヒノエはこの美貌の女将が苦手なようだった。






「春日様はプリンがお好きなのでしょう?」
 女将はヒノエの不機嫌などどうでもいいのか、優しく望美に問いかけた。
「え?あ、はい。大好きですよ。ケーキ屋さんでは、必ずプリンを買うくらい好きです」
 今朝も朝ごはん代わりに、昨夜将臣に貰ったプリンを食べた。
 将臣にそれを話したら、「朝からかよ……」とものすごく微妙な顔をされたけれど……。
 女将は望美の答えを聞きながら、にこにこと嬉しそうに頷いた。
「だからでしょうね、今朝方、ヒノエ様から電話があって、『うまいプリンを作ってくれ』って……」
「ヒノエくん……」
 意外な事実に驚いて、望美がヒノエを振り返った。
 望美がプリン好きと知ったのは、夕べの将臣との会話のはずだ。
 昨夜、久しぶりにヒノエが家まで望美に会いに来てくれて、外で立ち話をしていた時に通りかかった将臣。
 コンビニ帰りの将臣が、望美の大好きなプリンを買ってきてくれていて、ヒノエはその時に望美のプリン好きを知った。
 それから手配してくれたなんて……。
 女将を止めるのは無駄と思っているのだろう。ヒノエは不機嫌そうにそっぽをむいてたままだった。






 そんなヒノエを、女将はまるで母親のような慈愛に満ちた目で見つめていた。
「ヒノエ様が女性をお連れするのも初めてで、春日様の為にそんなリクエストまでなさるのですから、それはもう旅館中の噂に……」
「女将が噂にしたんだろうが」
 ぶっきらぼうなヒノエに、女将が笑みを深くする。
「あら?別に私が広めたわけではないですよ?ただ料理長にお願いしただけですから」
「………なんて言ったんですか?」
 溜息ひとつこぼして黙り込んでしまったヒノエのかわりに望美が恐る恐る尋ねると、女将はくすくすと悪戯めいた笑いを洩らした。






「ヒノエ様が、『とにかく彼女が喜ぶうまいプリンを作れ』と希望された、とだけ……」
 ヒノエの伝言を聞いた料理長は、初めて出されたヒノエの要望を叶えようと張り切り、偶然それを聞きつけた従業員の間では、幼いころから常連のヒノエが初めて伴う彼女はどんな方なのかと
話題になったのだ。
 だからだろうか?到着した時の視線の集まりようが気になったのは?
 見られていると思ったけれど、あからさまなものでも悪意に満ちたものでもなかったから、気に留めなかったけれど……。
 望美はここに着いた時に感じた、出迎えてくれた人たちの優しい眼差しを思い出した。
「ただプリンとだけ言えばいいだろうが」
 しかしヒノエは望美が皆の話題に上がったことが気に入らないらしい。
 誰のためなんて必要ないだろう?とヒノエが無言で女将を睨むが、弁慶さえ敵わない百戦錬磨の美人女将ににっこりと微笑み返されるだけ。
「いえいえ、せっかくヒノエ様が大切な方をこちらに連れてみえられるのですから、当旅館も一丸となって……」
「はいはいはいはい。一丸となってオレをおもちゃにするわけだね?もういいから行けよ」
 うんざりだ、と女将を追い払うヒノエの態度に、望美が眉を寄せた。
「ヒノエくん!」
 望美が叱ったって暖簾に腕押し。
 女将は笑みを崩さないまま、望美に向かって軽く頷いた。
「いいのですよ。いつものことです。では、失礼いたしますね」
 女将はテーブルの上の空になった皿を手早く片付けると、くすくすと笑いながら一礼して襖を閉じたのだった。






 テーブルの上に残されたのは、温かいお茶が二つと望美の抹茶プリン。







「えっと…、ヒノエくん」
 女将が立ち去った後、望美はごそごそと居住まいを正して、ヒノエに向き直った。
「ん?」
「ありがとう…」
 望美の礼に、ヒノエの機嫌も上昇する。
 望美の行動ひとつで左右される気分に、我ながら単純だとヒノエは思った。
「どういたしまして」
 ヒノエが食べなよ、と手で合図すると、望美は幸せそうに頷いてスプーンを構えた。
「いただきます」
 幸せそうにぱくんと、一口。
「ん〜〜〜〜っ!おいひい!!」
 ほっぺたを抱えて全身でおいしさを表す望美の可愛らしさに、ヒノエも相好を崩す。
「それはよかった」
「すごくおいしいよ〜。甘さ控えめで、でも餡子の甘さが抹茶とよく合ってて!うわ〜ん、幸せ」
 本当に幸せそうに食べるものだから、その表情を見ているヒノエにも幸せが伝わってくる。
 おいしく食事が出来る望美は、周りまで幸せにするのだろうか?
 そして望美は食べ方も綺麗だった。
 幼いころからきちんと仕付けられていたのだろう。無理のない自然な仕草で綺麗に食べる。
 ヒノエは改めて知った望美の一面を好ましく感じていた。
「望美の好きなもの、そういえばあまり知らないな」
 今にも踊り出しそうなくらい上機嫌でスプーンを口に運ぶ望美を見ながら、ヒノエがポツリとつぶやいた。
 それを拾って、望美がう〜ん?と首を傾げる。
「ん〜、そうかな?でも、私もヒノエくんの好み、把握できてない…。でも、ま、いっか……」
「いいのか?寂しいなぁ」
 望美らしいといえばそれまでだが、至極あっさりとした態度の望美にヒノエが苦く笑った。
 しかし望美が笑いながら違うよっと軽く首を振る。
「そういう意味じゃなくって。教えあうより、少しずつお互いを知っていくほうが楽しいじゃない?」
「……そうだね」
 確かにそうかもしれない。
 改まって教えあうより、少しずつ相手の色々なことを発見していくのは、まるで宝探しのようだ。
 時間はかかるかもしれないけれど、一緒に長い時間を過ごすのだと、望美も無意識に思っているからこそ出てくる考えだった。
 それに気づいたヒノエの表情が、穏やかに緩んだ。
 







「ねえ、ヒノエくん。味見してみない?」
 ヒノエは甘いものが苦手と知っている望美が、何を思ったのかいきなりヒノエに抹茶プリンの皿を差し出した。
「……甘いの苦手」
 整った美しい顔をしかめて、ヒノエがプリンの皿を押し返す。
「でも、せっかくヒノエくんが注文してくれたんだし、一口くらいどんな味か。ね?」
「…いや、いい」
「え〜、甘さ控えめだよ?」
 望美らしからぬ押しの強さ。
 ヒノエは嫌そうに溜息をついた。
「どうしても食わせたいのか?」
「うん。一応、ヒノエくんの甘さの許容範囲を知っておこうと思って」
 にこにこ、にこにこ、ヒノエが嫌がれば嫌がるほど、望美の笑顔が楽しそうになってくる。
 どうやらいつものヒノエとは違う反応が、望美は嬉しいようだった。
 抹茶プリンをだしに、ヒノエにじゃれている望美は、きっとちょっとやそっとじゃ諦めないだろう。
 新しいおもちゃを見つけた子供のように。
 ヒノエは楽しそうにはしゃぐ望美を見て、大きく息を吐いた。
「……じゃあ、食べさせてくれるなら」
「え?」
 ……今、なんとおっしゃいましたか?
 頭の中に残った言葉を分析して、望美の動きが止まる。
「望美が、オレに、食べさせてくれるなら、食べるよ」
 これ以上望美にからかわれてなるものかと、ヒノエは望美に反撃を開始した。
「う、ええ!?」
 真っ赤になって、プリン片手に思い切り引いてしまった望美。
「なんだよ、その嫌そうな顔は」
 望美のあからさまな反応を見て、ヒノエの眉間に不機嫌もあらわな皺がよった。
「い、嫌だもん」
「……はっきり言うね?」
「だって、恥ずかしい……」
「ここにはオレと望美しかいないのに?」
 にやりと、悪戯っ子のように笑うヒノエに、ちょっとカチンときて。
 いつもからかわれてばかりの悔しさを、望美は思い出した。
 せっかくヒノエの弱点を見つけたのに……。
 望美は手元の抹茶プリンに視線を落とし、ふっと何かを思いついた。
 ………楽しいかもしれない。
 望美はきらりと閃いた自分の思いつきが面白くて、ついついにやけそうになる頬を引き締め、わざと仕方ないなと唇を尖らせた。
 成功するまで、ヒノエにばれたらダメだから…。
「……じゃあ、一口食べさせてあげるから、食べて」
 しぶしぶと見せかけて、望美はヒノエを促した。
「ん…」
 素直に開けられたヒノエの口。
 こんなに無防備でいいんだろうか?と思いながらも、望美は笑いを堪えてスプーンに乗せたプリンをヒノエの口に入れた。
 とたん…。







「〜〜望美っ!」
 ヒノエが口を押さえて、盛大に顔を顰める。
 いつもクールでかっこいいヒノエの情けない顔に、望美は声を上げて笑った。
「わ〜い、ひっかかった〜。甘いでしょ〜?餡子と生クリームの山盛りトッピング!!」
「お前!」
 ヒノエの反応にきゃあきゃあと声を上げて、望美が喜ぶ。
 いつもヒノエに驚かされて翻弄されるのは望美だから、こんな簡単な悪戯にひっかかってくれて嬉しい。
「おっかし〜!ヒノエくんって、ホントに甘いもの苦手なんだ〜」
「望美……、お前な…」
 まんまと望美の悪戯に引っかかってしまったヒノエが、がっくりと肩を落とす。
 口の中いっぱいの甘さが頭に響くようだ……。
「ヒノエくんの弱点見つけて、ちょっとうれしい〜」
 ヒノエは甘さにやられた、不機嫌な顔で勝ったと喜ぶ望美をちらりと流し見た。






「……言っとくけど、甘いもの全部が苦手なわけじゃないぜ?」
「え?うそ??大丈夫なものもあるの?」
「あ〜、甘っ……。大丈夫っていうか、好きな甘いものはあるな」
 顔を顰めたままお茶を流し込み、甘さをお茶の渋みで和らげたヒノエがほっと息をついた。
「え?何?何?」
 笑いながらもプリンを食べ終わった望美の興味は、ヒノエの好きなものにうつったらしい。
 お菓子作りはあまりやったことがないけど、ヒノエの好きなものなら作ってみようかな?なんて考えてみる。
「知りたい?」
「うん。教えて?…えっ!?」
 頷いた瞬間、望美はヒノエに腕を取られてぐっと引っ張り寄せられた。
「ヒノ…っん」
 勢いでぶつかるようにヒノエの腕に収まった望美が、びっくりして声を上げる前にそれはヒノエの唇で奪われてしまった。






 突然のキスに驚いて、望美はヒノエの胸を押し返すが、彼の力の強さは緩まない。
「ふっ…ん…」
 零れ落ちる吐息。
 頤を抱え込まれて、ヒノエの熱い口付けから逃れることが出来ない。
 ヒノエは望美の舌に己のそれを絡めて、熱く深いキスを楽しんだ。
 望美の口腔内に、僅かに残る抹茶の香りと甘さがヒノエにも感じられる。
 先ほど望美の悪戯で口に放り込まれた甘味と同じはずなのに、望美から味わう同じはずのそれは、キスというフィルターを通して、違う甘さでヒノエを楽しませてくれた。
 ヒノエのキスに酔わされ、望美の身体から抵抗の意思が消えていく。
 まるでキスをねだるように、望美の腕がヒノエの首に回された。
 ヒノエは望美の求めに応じて、何度も甘く望美の唇をついばんで唇で噛む。
「……サイコーの甘さだね」
「…え?」
 吐息混じりに落とされた呟き。
 望美はキスで息を乱しながら、潤んだ瞳でヒノエを見上げた。
 望美の間近で、ヒノエがにやりと笑う。
「お前、聞いただろ?俺の好きな甘いもの……」
「え?…………え?…………もしかして……?」
「お前と交わすキス以上に甘くて、大好きなものなんてないけど?」
 ウインクつきで答えられ、望美がやられたっとむくれた。
 どうしてこう、この男は……。
「〜〜〜〜食べ物のこと!!」
「望美を食っていい?」
「………ばかっ!!」
 悪びれる様子の無いヒノエのセリフに、望美は真っ赤になってその肩を拳で叩いた。







 どうしたって結局ヒノエには勝てないと思いながら……。










<終>





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