「お母さん、リビングのテレビ見てもいい?」
ぱたぱたと焦り気味に二階から降りてきた娘に、ニュース番組を観ていた母親は小首を傾げて見せた。
「いいわよ?でも望美、部屋のテレビがどうかしたの?」
許しをもらった望美は、いそいそとリモコンを掴んで両親が見ていたニュースを音楽番組へと変えた。
毎週末に生放送される【ミュージック・ジャンクション】
ヒットチャートを賑わすミュージシャンが出演する人気の音楽番組だ。
望美がチャンネルを合わせると同時に、聞きなれたオープニングの曲が流れてきた。
「今夜はグリフォンが出るの。だから大画面で見たくって」
ほんのり頬を染めて照れくさそうな娘に、母親はくすりと笑った。
「ヒノエくんが出るんだ〜?」
からかいを多分に含んで言うと、望美が照れ隠しの膨れっ面を見せた。
「他にも好きな歌手が出るの!花梨とか!」
花梨は、今一番勢いのあるアイドルだ。
彼女の歌う曲は、カラオケや着うたでも人気が高い。
でも彼女だけが目当てなら、いつもどおり望美は自室で番組を見ているだろう。
わざわざ二階から降りてきて、リビングのTVを見るなんてありえない。
それがわかっているから母親は笑い、ソファーでコーヒーを飲みながら夕刊を読んでいた父親は渋面を作っている。
ヒノエは望美の両親も公認の恋人だ。
何度か望美の家に呼ばれて食事もしたことがある。
芸能界は人気商売で軽薄そうなイメージを持っていた望美の両親も、ヒノエの礼儀正しさと望美に対する誠実さを知りすぐに交際を認めてくれた。
もっともヒノエがどんなに好青年であろうが、望美の父親はおもしろくなかったけれど。
今夜の出演歌手が並んだオープニング。
『グリフォン』の二人はセンターを飾っていた。
『グリフォン』は日本のトップアーティストだ。
そして日本のみならず、世界中にファンがいる。
ボーカルのヒノエ。ギターの弁慶。
二人が作る『グリフォン』の世界は、多くの人を魅了してやまない。
今夜はグリフォンの新たな世界の初披露だった。
「今度の曲はお母さんも好きよ。いつものちょっと激しい曲は好きじゃないけど」
「珍しいね、お母さんがグリフォンの曲を気に入るって」
望美の母はロックのような激しい曲が苦手らしい。
でも今回の冬から春へ、新たな旅立ちをテーマにしたバラードは好みだったらしい。
テレビを見ながら笑いあう母娘を目の端に入れながら、父親は面白くなさそうにふんっと鼻を鳴らした。
番組も中盤に差し掛かった頃、グリフォンの名前がコールされ二人が画面に映し出された。
ヒノエは黒いジャケットで白いシャツ。そのボタンを4つほど外して大きく胸を開け、素肌をシルバーアクセサリーで飾っている。
対して弁慶はきっちりと白いシャツのボタンを留めて、黒いジレと光沢のある明るいグレーのジャケットを着ていた。
司会の女優の質問に答えていく二人。
この中盤に登場するアーティストがその日のメインだ。
新曲に纏わるエピソードなどを、弁慶が語っていた。
「今日は、あまりヒノエくんお話しないのね」
一緒にテレビを見ていた母親が、少し残念そうに呟いた。
やはり娘の彼氏は特別気になるらしい。
確かに受け答えのほとんどは弁慶が担当している。
ヒノエはそれに頷いたり、時折補足するように話すだけだ。
「ん〜、この曲は弁慶さんが作曲したからじゃないかな〜?」
珍しいよねと母に相槌をうちながら、望美はそう結論付けた。
あれ?と思ったのは、曲の一番最初。
ヒノエのアカペラだった。
彼の透明感のあるファルセットで歌い上げる、繊細な響き。
一度聞けば耳に残る美しい旋律は、ヒノエの声で完成するはずだった。
けれど……。
「声が掠れてる……」
僅かに眉宇を寄せ、ぽつりと望美が呟いた。
「そう?」
母はそれに気づかずに首を傾げるだけ。
たぶんグリフォンのファンならば、最初のワンフレーズで気づいたはずだ。
それに高音域だけではなく、スラーなどもいつもの伸びを見せなかった。
「調子、悪いみたい……」
話している声は普通だったし、多少メイクで隠れているにしても、顔色が悪いわけでもなさそうだった。
ほんの僅か、喉の調子が良くないという程度だろう。
でも……。
グリフォンの歌が終わってCMに切り替わった時、画面を見つめて考え込んでいた望美が何かを決断した表情で母親に向き直った。
「お母さん、私、これからヒノエくんところに行く」
行っていい?という確認ではない、すでに行くと決めている。
娘の真っ直ぐなゆるぎない視線に、母親はわざとらしく呆れ返ってみせた。
「何時だと思ってるの?それにヒノエくんは今TV局で歌ってたじゃない。これ、生放送でしょう?番組だってまだ続くし、馬鹿なこと言わないの」
至極最もな母親の言葉に、聞き耳を立てていた父親が黙って頷いてみせた。
でもそこであっさり引き下がるくらいなら、最初から聞いたりしない。
「心配なの!」
「望美がテレビを通して分かったことなら、きっとマネージャーさんも分かってるわよ。あなたが行っていつ帰ってくるかわからない彼を待つの?それが深夜だったら迷惑になるだけよ!」
「そりゃ、迷惑になるかもしれないけど、ヒノエくん無理するから」
「だったらあなたが無理させてどうするの。部屋に望美がいたらヒノエくん気を遣うんじゃないの?」
「でも行く!」
「……望美、あなた言ってることが支離滅裂よ?心配だから会いに行くのがすべていいことだとは、お母さん思わないけど?」
「でも!」
「いい加減になさい!」
ぴしゃりと窘められ、望美が悔しそうに唇を噛み締める。
わかっているのだ、望美にだって。
今から急にヒノエに会いに行っても、何も出来ないことは。
それでも調子の振るわないヒノエが大丈夫なのか、この目でちゃんと確認したかった。
ここ最近は二人の時間が会わなくて、メールや電話のやり取りばかりだったのもその想いに拍車をかけていた。
黙り込んだままぐっと潤んだ瞳だけで訴えてくる娘としばらく睨みあった母親は、やがて根負けしたように天を仰いだ。
「……納得しないなら、あなたの気が済むようにしなさい」
「お母さん!」
「ただし!」
母親の許しがもらえたと顔を輝かせた望美に向かって、彼女はすっと人差し指を立てて言った。
「ヒノエくんに連絡して、一時間後までにOKの返事が来たらいいわ。それ以降は認めませんよ!」
「母さんは甘すぎる」
「なによ、娘に何も言えない意気地なしに文句言われる筋合いはないわよ」
ぼそりとつぶやいた不服に、情け容赦ない切り替えしを受け、父親は顔を顰めた。
「こんな時間に男の家に行くなど非常識だ」
「どうせ言ってもあの子はきかないわよ。頑固さは誰かさん似なんだから」
「お前か?」
「自覚がないって手に負えないわ。それにもう成人してるんですから、二人を信用してあげましょう」
同じ女性として似たような経験をしてきた母親は、父親よりも達観していた。
「マネージャー、今夜はもう終わりだよな?」
生放送が終わり楽屋に戻ったヒノエは、衣装から私服に着替えた後、携帯をぽちぽちと操作しながら荷物の整理をしていたマネージャーに尋ねた。
相方の弁慶は他の打ち合わせがあり、すでにTV局を出ている。
「ええ。これで終わりよ。どうしたの?」
「いや、なんかバレたっぽいからさ」
「もしかして喉のこと?」
「ああ」
メールでも打ってるのだろう。ヒノエは携帯ディスプレイから目を離さずすばやく指を動かしている。
誰に何がばれたか。詳しく聞かなくても、マネージャーとして長い時間ヒノエと一緒にいる彼女にはわかっていた。
しかしそれをはっきり口にする馬鹿ではない。
いくら楽屋とはいえ、いつ誰が入ってくるか分からないからだ。
「ばれるわよ。FCのほうにも大量に心配のメールが入ってきてますからね」
「やっぱりわかりやすかったか……」
「そうね、今回の曲の高音域が掠れてたから…。低音だけだったらわからなかったと思うけど。とにかく、これ以上悪くさせないでね」
「わかってるよ」
ヒノエはそう答えつつ、携帯をバッグに放り込んで持っていたマスクを耳にかけた。
「あー、うっとうしい」
「乾燥対策よ。喉が本調子になるまで我慢して」
「わかってるさ。体調管理が万全じゃない自分が情けないな……」
ヒノエはそう呟いて肩を落とした。
母親から告げられた1時間のタイムリミットぎりぎりでヒノエからOKの返事をもらった望美は、記録的な速さで家を飛び出していった。
<続>