『来てもいいけど、少し遅くなるから先に部屋に入っててくれ。なるべく急いで帰るよ』とメールの返信どおり、望美は持っていたヒノエの部屋の合鍵でセキュリティマンションのエントランスのドアを開く。
深夜に近いこの時間、オレンジ色で明るく照らし出されたロビーは静かで寒々としていた。
望美はロビーに響く自分の足音に追われるように、早足でエレベーターへと乗り込んだ。
まだ住人の帰っていない部屋は暗くて空気がよどみ、どこか淋しい。
望美は部屋の明かりをつけてブーツを脱いだ。
そして当たり前のように並べられた自分用のスリッパに足を差し込み、お邪魔しますと小さく呟いた。
部屋を暖め、お湯を沸かす。
何度も訪れているこの部屋の勝手は分かっている。
テレビで観たヒノエが心配で衝動的に飛び出してきたが、望美ができることなんてたかが知れていた。
それでもヒノエに会いたかった。
きっと自分が安心したいために。
「結局、ヒノエくんの迷惑になってたりしてね…」
ヒノエの部屋のソファでヒノエを待ちながら、色々考えていたらなんだか自分があまりにわがまますぎる気がしてきた。
母の言うとおりだ。
何も出来ないくせに、自分の感情だけでヒノエを振り回してるのかもしれない。
もしヒノエが、部屋で望美が待っているから無理をして早く帰ろうとしていたら?
帰ってきて、本当はすぐに休みたいのに望美に付き合ってくれていたら?
やっぱり来なければよかった?
静かなヒノエの部屋で一人、会いたいと思いながらもこぼれるのは溜息ばかり……。
ガチャリと玄関から聞こえた小さな物音。
音のない静かな部屋に響いたその音を敏感に聞き取った望美は、慌てて玄関へ駆けて行った。
冷たい空気を纏ってするりと滑り込むように入ってきたのは、見慣れないマスク姿のヒノエ。
出迎えながらもどこか戸惑いを隠せず、廊下に立ち尽くす望美に視線をやって、ヒノエは目元を柔らかく緩めた。
「ただいま」
マスク越しのくぐもった声は、少し聞こえづらい。
それでもやっぱりいつもの優しいヒノエの声で……。
「おかえりなさい…」
望美はほっとしながら笑顔で答えた。
靴を脱ぎ部屋に入って一番最初にヒノエがしたこと。
「ヒノエくん?」
ふんわりと広げた腕の中に抱き込まれ、望美が少し戸惑うように身じろいだ。
力を入れて抱きしめているのではない。
ただ軽く望美の背中に腕を回しているだけ。
ことりと頭を望美の肩に預けると、彼女だけの甘い香りがヒノエの鼻腔をくすぐった。
「なんかいいな……」
「ん?何が?」
ヒノエの抱擁に応えるように、望美はそっと彼の腰あたりに腕を回した。
「家に望美がいるのが。初めてじゃないのにな」
「迷惑じゃなかった?」
「まさか。うれしかったよ」
いつもの饒舌なヒノエらしからぬ簡単な言葉。
でも望美の肩から顔を上げ、指先でひっかけるようにマスクを取った表情は何よりもその気持ちを表していた。
いつもは誰もいない暗い部屋に灯りをつけるのは自分だった。
けれど今日は違う。
ドアを開けてこぼれてきたあたたかな空気と明るい光。そして出迎えてくれた優しくて大切な人。
些細なことだけれど、とても幸せな瞬間。
その幸せをもっともっと味わいたいと思う貪欲な心。
一緒に暮らしたい。いつもこうやって出迎えて欲しい。
明確にそう意識したのはこの時が初めてかもしれなかった。
付き合い始めたのは10代の頃。
早いといわれるかもしれないが、もうその頃からヒノエは心の中で漠然と望美との将来を考えていた。
今だけじゃなく、将来を含めて考えること。それは望美にも伝えている。
それを伝えた時、望美は少し驚いて、でもすぐに嬉しそうに笑って頷いてくれた。
いつか近い将来、こうやって当たり前のように望美がヒノエを出迎え、時にヒノエが望美を出迎えることになればいい…。
ヒノエは幸せそうな笑みを刻んで、引き寄せた望美の唇に自分のそれを重ねた。
<終>