電車の到着を知らせるベルとアナウンスが駅構内に響く。
 私は、向こうから走りこんでくる電車を見ながら、軽く髪を撫でて整えた。
 どうせ満員電車に乗ったら乱れるけれど、そこはオトメゴコロ。
 いつだって可愛く綺麗でいたいと思う。






 ホームに電車が滑り込んできて、空気音と共にドアが開く。
 私が乗るのは、いつもこの時間のこの場所。
 それは高校に入学した時からで、変えるつもりはない。
 一度だけこの電車に乗りたくなくて、短い期間少し早い電車にしたことはあるけれど……。
 今はこの電車に乗るのが一日の中で、一番嬉しい。






 私は電車に乗り込む人の波に押され、足を絡ませながら前へ進んでいく。
 手に持ったバッグが波に攫われないように、ぎゅっと胸に抱いて……。
 車両の床に足を着いて、押し込まれるみたいに乗り込んだと同時に、横から伸びてきた手が私の二の腕を掴んで、力強く引き寄せた。
 流れる人の波に逆らって引っ張られたから、かなり勢いがよくて私は思わずよろめいてしまう。
 でもその力に抵抗する気のない私の身体は、引っ張られるまますぐに車両の壁に当たった。
 いつものことなのに、まだ慣れない。
 心臓がドキドキしてる……。







「おはよ、望美……」
 私だけに聞こえる、小さいけれどしっかりとした声。
 ドアの横の座席とのコーナーの壁に背をついた私は、上から覗き込むようにして笑う彼を見上げた。
「おはよう……。ヒノエくん」
 私が恥ずかしさでぎこちなく微笑んで挨拶を返すと、ヒノエくんが細い銀フレームの眼鏡の奥でうれしそうに目を細めた。







 朝のラッシュ時、私たちはそれ以上の言葉は交わさない。
 満員電車で不愉快指数MAXな人たちに、更なる不快感を与えたくないから、私たちは通学の短い時間を黙って過ごす。
 ただ傍にいる、それだけでよかった…。
 でも、さすがにずっと見つめ合うのは恥ずかしくて、私はいつもすぐに俯いてしまうのだけれど…。
 ヒノエくんはそんな私の気持ちを分かってくれていて、軽く吐息で苦笑するだけ。
『いつになったら、そのつぶらな瞳でオレを見つめてくれるのかな?』
 ってからかうけれど、きっとずっと無理。
 ヒノエくんの綺麗な顔は、間近で見続けるには心臓に悪いもの。
 好きすぎて、見つめていられないの……。
 だから私は、見つめる代わりにヒノエくんの学生服の袖口をそっと掴む。
 きっと手を握ればもっと喜んでくれるんだろうけど、私の心臓がドキドキしすぎて降りる駅までもたないから……。






 付き合い始めてまだ少し。
 私はいつだってヒノエくんにどきどきしてる。






 朝、一緒にいられる時間は約20分。
 私の通う女子高は、ヒノエくんが通う高校よりも手前の駅にあるから。
 ヒノエくんが通うのは、有名な名門進学校。
 私は校風が自由気ままな女子高に通ってる。







 ヒノエくんはこの沿線でとても有名だ。
 私が通う学校の生徒だって、ヒノエくんを知らない子の方が少ないくらい。
 芸能人よりかっこよくて、女の子にはとても優しいって評判だった。
 あとヒノエくん自身、女の子が大好きだとも。
 ヒノエくんを狙ってる女の子は多いと聞いていた。
 付き合ったことがある子も多くて………。
 ヒノエくんと付き合ったり、友達だったりすることがステイタスのように自慢気に振舞ってる子もいた。






 
 そんなヒノエくんと知り合えるなんて思ってなかった頃は、同じ電車で見かけるだけで、その日一日はいいことがありそうな気がしてた。
 






 それがいつの間にか、ヒノエくんが傍にいるのが当たり前になって………。
 今は毎日、こうやってヒノエくんの体温を感じている。







 車内アナウンスと同時に、電車の速度が落ちる。
 もうすぐ、私が降りる駅に停車する……。
 それが朝の短い逢瀬の終わり。
 私は名残を惜しみながら、そっとヒノエくんの袖口を離した。
 






「望美…」
 私が降りる体勢を整えていると、珍しくヒノエくんが前かがみになって私の耳元に唇を寄せて囁いた。
「何?」
 私はびくっと肩を竦ませ、ヒノエくんと視線を合わせた。
 彼の甘い声は、ただの囁きさえ私には絶大なる効果がある。
 不意に囁かれると、気持ちよりもまず身体が反応してしまう。
 ヒノエくんは、ふわりと笑って私に問いかけるように少しだけ首を傾けた。
「放課後、ヒマ?」
「うん、予定はないけど……」
 私の部活は茶道部で、活動は土曜日の午後だけ。
 だから他の日は、帰宅部のようなものなんだ。
 するとヒノエくんは、小さく笑って悪戯っぽく言った。
「デート、しようか?」
「え?」
 びっくりした。
 ヒノエくんは、結構忙しいみたいで平日の放課後に逢える事なんて、付き合い始めてから一度もなかったから……。
「こっちの駅まで来てくれる?」
「うん、それは大丈夫だけど……」
 たしかにヒノエくんの高校の駅のほうが、色々なお店があるけどいいのかな?
 視線だけで問うと、ヒノエくんは柔らかく目元を和ませた。
「じゃあ、決まり。駅に着いたらメールして」
「…うん」
 私がうなづいたところで、ホームに入った電車はゆっくりと停車した。
 ドアが開く。







「じゃあ、ヒノエくん……」
 いつもの挨拶は、不意に伸びてきたヒノエくんの指先で封じられてしまった。
 入り口へと殺到する人たち。
 当然、私の通う学校の生徒も多いわけで……。
 そんな中、ヒノエくんは私の唇に触れさせた指先を、そのまま自分の唇に当てた。
「今はこれで我慢してあげるよ……。行っておいで……」
 すっと目を眇めて、ヒノエくんはその指先をもう一度、私の唇に押し当てる。
 





 これって………。






 驚きすぎた私は、思わず逃げるように車外へと飛び出してしまった。
 その後ろで閉まるドア……。






 私は慌てて後ろを振り返る。






 電車のドアの長細い窓の向こうで、ヒノエくんが鮮やかに笑った。
 






 私は、そっと唇に触れる………。






 自分の体温とは違うぬくもりが残る唇に…。







 今日の授業は、きっと頭に入らない。











<終>










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