女性というにはまだ幼さの残る少女を、瀬戸内の海を統べる一族の長が連れ帰ったのは、まだ海に雪が舞っている季節だった。
 その少女は、京を救った龍神の神子だと密かに伝わってきた。
 どれほど尊い神秘的な姫君であろう、と期待した人々の前に現れたのは……。
 尼削ぎよりも短い髪の、人々の好奇の視線に臆する事無く、まっすぐ顔を上げて少年のように無邪気に微笑む、一風変わった少女だった。
 





「花梨さま?」
 屋敷の奥、女主人である花梨のいる部屋の前で、侍女が静かに声を掛けた。
 少し前に一緒に話をしていたのだが、急に気分が悪くなったから少し休むといった花梨をはばかってである。
 しかし奥から返事はない。
 眠っているのだろうか?
 いつもならそのまま引き返すのだが、今はそうはいかなかった。
 第一、先ほど届いた海の知らせを早急に伝えないと、花梨の機嫌が悪くなるのは目に見えている。
「花梨様、失礼いたします」
 侍女は断りを入れてから、部屋の中へと足を踏み入れた。
 人の気配が感じられないくらい静まりかえった部屋。
 否、人の気配が無い。
 嫌な予感に侍女の眉が顰められる。
「花梨様?」
 返事は、ない。
「花梨様!?」
 部屋の隅から隅、そのどこにも花梨の姿がないのに気付き、侍女は悲鳴を上げた。
「誰か!!花梨様がー!!」
 それは久々に屋敷に響き渡った、花梨逃亡を知らせる第一声だった。






「あー、いい天気!お花見日和だ〜」
 柔らかな草の上に腰をおろした花梨は、両手を思いっきり天に向かって突き伸ばすと、その体勢のままゴロンと後に倒れ込んだ。
 視界に入るのは澄み切った青い空と、淡い色した満開の桜の花。
 屋敷から見える近くの高台にある桜の大木に花が咲き出した頃から、ずっとここで花見をしたいと思っていた。
 三分咲き、五分咲き、七分咲きと桜の木がどんどん華やいでくるのを屋敷から見ていた。
 屋敷の近くにも桜はあったけれど、花梨が一番惹かれたのは、この大木だった。
 一番綺麗なときに花見に行くのを楽しみにしていたのだ。
 





 花見に出かける日を考えていた花梨だったが、侍女との会話の中で、明日は雨が降るかもしれないと聞いたとき、すぐにこの桜を見に行こうと決心した。
 海の民は、自然から天気をよむのが上手いから、明日は多分雨が降る。
 そして満開の桜はきっと雨で散ってしまうだろう。
 その前に見たかった。
 本当は、もう少しだけ待つつもりだったのだけれど。






 あれは桜の蕾がほころび始めた頃……。
「出かけるの?」
 一族の頭である翡翠の周りに、部下達が入れ替わり立ち代り訪れるのを見て、何かを察した花梨が尋ねた。
 花梨の勘のよさに微苦笑を浮かべ、翡翠はひょいと肩を竦めて答えた。
「ああ、ちょっとやっかいなことがあったらしくてね」
 まるでそこまで散歩に行くような気軽さで、出掛ける事を告げた翡翠だったが、花梨の表情が固く曇る。
「どのくらいかかる?」
「さあ……。早くても10日、いやそれ以上かな?」
「……ふ〜ん…」
「花梨?」
 いつもならば心配そうに、でも気をつけてと明るい笑顔を向けてくれる花梨の顔が、溜息混じりにがっかりと伏せられる。
 翡翠はそれを訝しく思い、花梨の顔を覗きこんだ。
「どうしたの?」
「……もう少し早く帰ってくるのは、無理?」
「なるべく早くとは思っているけれど、確約は出来ないよ」
「ふ〜ん……」
 花梨の唇が面白くなさそうに尖る。
「花梨?」
 翡翠の探るような声音に、花梨は慌てて顔を上げてにっこりと笑った。
「なんでもない!気をつけて行って来てね、翡翠さん。そして早く帰ってきて」
 いつもの見送りの言葉。
 けれどそれを紡ぐ花梨の表情は、いつも見せる元気が溢れる笑みではなく、どことなく無理した笑顔だった。






「やっぱり間に合わなかったな、翡翠さん……。一緒にお花見したかったのに…」
 風が吹くたびに、はらりはらりと散る薄紅の花びらを見上げながら、花梨は淋しそうに呟いた。
 翡翠が出かけると言った時、思い浮かんだのはこの桜だった。
 満開になったらここまで翡翠に連れてきてもらおうと思っていた。
 そして一緒にのんびりと花見がしたかった。
 でも、翡翠はここにいなくて……。
「……仕方ないよね」
 大きく息をついて、花梨は瞳を閉じた。
 聞こえてくるのは、遠くの潮騒と風でざわめく草の優しい音だけ。
 海から吹く風は少し冷たいけれど、春の日差しが花梨を暖かく包んでくれる。
 でも顔だけは直射日光にあてないように、桜の大木の影を利用して日差しをさけているのだが。
 やはり現代の女の子に、美白は必須なのである。
 ここには便利な日焼け止めはないから、花梨は出来るだけ気をつけていた。
「……眠たい……」
 うららかな春の暖かさが、花梨を眠りに誘う。
 花梨は起き上がるのが面倒で、誘われるまま眠りに落ちていった。






(……ん?)
 心地よい眠りを邪魔する違和感。
(何か変……。何だろう?)
 まだまだ眠りの海を漂う意識は、その違和感の正体が分からない。
 だが、だんだんと胸の辺りで違和感が大きくなって……。
(ん〜……?あれ?……っ!!!!)





 息が出来ないっ!!!!






「っっっ!!ぷはっ!!」
 突然大きな呼吸音がしたと同時に、今まで幸せそうに寝ていた花梨が手足をバタつかせながら一気に飛び起きる。
 はぁはぁと、うつむいて肩で大きく呼吸を繰り返し、何度も何度も思いっきり肺の中に酸素を取り込んでから、花梨は深〜い溜息を吐いた。
「………死ぬかと思った」
 しみじみと呟かれた言葉。
 その花梨の耳に聞こえてきたのは、心地よく吹く風の音と遠くの潮騒、そして抑えた小さな笑い声。
「?」
 花梨は反射的にそれが聞こえる方向へ、クルリと首を回した。
 そこにいたのは……。
「翡翠さん!?」
 花梨の背後、寝転んでいた時ならちょうど頭の上になる位置に膝を着いていたのは、まだ帰ってくるはずがない翡翠だった。
 突然現れた翡翠を花梨は呆然と見つめる。
 翡翠はそんな花梨がますます面白かったのか、口元の笑みを深めた。
「その口は閉じ方を忘れたのかな?」
「あっ…」
 翡翠に言われて、花梨はポカーンと開いていた口を慌てて押さえ、翡翠を睨みつける。
「……そこで何してるんですか?」
「ん?」
「私に、変なことしませんでしたか?」
「変なこと?さあ、覚えが無いな」
 そ知らぬ顔で首を傾げるが、花梨の翡翠に対する不審は消えない。
「………翡翠さん、いつここに来ました?」
 花梨はしかめっ面で翡翠に尋ねた。
「少し前かな?」
「ふ〜ん……。じゃあそれから何をしましたか?」
「花梨の気持ち良さそうな寝顔を見ていたよ」
 花梨の尋問(?)に、翡翠は素直に答えていく。
「それから?」
「あまりに気持ち良さそうに寝息をたてて、私の気配にもまったく気付かないようだったから……」
「から?」
「ほんのちょっと可愛い鼻を抓まんでみたかな?」
「変なことしてるじゃないですかー!!!!」 
 翡翠の悪戯を知って、花梨は大きな声で怒鳴った。
「苦しくって死ぬかと思ったんだから!!」
「そうかい?」
「そうかい?じゃなーい!!」
 いつもながら飄々とした翡翠へ、花梨が仕返しとばかりに飛び掛かる。
「おっと!」
 突然花梨に体当たりされ、さすがの翡翠も体勢を崩してそのまま草の上に仰向けに倒れ込んだ。
 花梨は翡翠の上から彼を見下ろし、してやったりとほくそ笑んだ。
「翡翠さん、どうしてここにいるの?」
「おやおや、それが久しぶりに会った私への挨拶かい?」
「だって、帰ってくるまでもう少しかかると思ってたから……」
「意外と早く済んでね。ご機嫌を損ねてしまった白菊に早く会いたくて、急いで帰ってきたんだよ」
「……本当に?」
「ああ、それなのに君ときたら、私を出迎えてくれるどころか、黙っていなくなったと屋敷の者達が大騒ぎをしている。
あまりにも君らしくて笑ってしまったよ」
 その言葉に、花梨の頬が膨らむ。
「昨日までは大人しくしてました」
「そのようだね。だからこそ、皆も油断していたみたいだが」
 それは抜け出した花梨自身も感じたことであった。
 実にあっさりと屋敷から出られたのだから。
「でも、翡翠さん、よくここが分かりましたね」
「なんとなくね……。花梨はこの桜が気になっていたみたいだから……」
 翡翠の鋭い指摘に驚いて、花梨が眼を丸くする。
「すごい、どうして気付いたんですか?」
「ん?それはね…」
「はい?」
「私が花梨を好きだからだよ?」
「……翡翠さ〜ん」
 甘い告白を蕩けるような微笑と共に、不意打ちで至近距離で囁かれ、花梨は真っ赤に頬を染めて脱力した。
 翡翠の広い胸に、ぽすん…と顔を埋める。
 その花梨の耳に、くすくすと翡翠のご機嫌な笑い声がそれに伴う胸の振動とともに届いた。。





「毎日、この桜を屋敷から眺めていただろう?だからだよ……」
「……敵わないな、翡翠さんには」
「満開だね…」
 翡翠が眩しそうに目を細めて頭上の桜を見上げた。
「うん……。翡翠さんが今日、帰ってきてくれてよかった……」
「何故?」
「明日雨が降るみたいだから、もう今年の桜は見納めと思ってたの。一緒にお花見したかったけど、無理だったな〜って思って、ここまで来たんだ」
「それでずっとこの桜を気にしてたのかな?」
「そうだよ。翡翠さんと一緒に桜を見たかったの」
 花梨は、翡翠の上からころりと転がり下りて、翡翠の横に並んで空と桜を仰いだ。
「こちらの世界で初めての春だから……」
「……」
「京を走り回っていた頃、紅葉や雪を翡翠さんと一緒に眺めたよね」
 しみじみと懐かしむように、花梨は空を眺めて呟いた。
「ああ、そうだったね…」
「その時に思ったんだ。いろんな季節の綺麗な景色を、ずっと一緒に楽しんでいきたいなって。
春は桜、そして藤の花、夏になったら蛍。そうやって四季折々の景色を一緒に見たいって。それなのに、出かけると聞いたときは、ずごくがっかりして哀しかったんだから!」
「それはすまなかった」
 翡翠の口から、するりと自然に謝罪の言葉が滑り出た。
 花梨がそれを聞いて苦笑する。
「仕方ないって分かってるんだよ?でもね、感情的にはどうして?って思ったりもして。……我儘だよね。私」
「そんな可愛らしい我儘なら、私はうれしいよ?」
「翡翠さんがよくても、周りの皆に迷惑かけちゃうじゃない。桜は今年だけじゃないと分かってるんだけど、初めてだから一緒に見たかったの……。
帰ってきてくれてありがとう…。うれしかったよ…」
「花梨…」
 照れくさそうに微笑む花梨がとても愛しい。
 翡翠はそっと腕を伸ばして花梨を抱きしめようとした。
 その瞬間。
「あっ、まだ言ってなかった!!」
 がばっと音がしそうな勢いで起き上がった花梨が、しまったしまったと言いながらペロッと舌を出す。
「?」
 寝転んだまま見上げてくる翡翠に、花梨はそっと唇を寄せた。
「おかえりなさい、翡翠さん」
「ただいま、花梨…」
 満開の桜の木の下で、二人の影が重なる。





 
 大好きな人と過ごす時間はとても大切だから。
 ひとつひとつの季節を一緒に感じて生きていきたいの……。
 






 ずっと一緒に………。










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