「最悪……」
 ベッドの中で顔の半分まで掛布団を被って、あかねは、はあ……と息を吐いた。
 喉を通り過ぎる呼気の熱さで、まだ熱が高いことを実感する。
 あかねは窓の向こうの、四角く切り取られた青空を恨みがましく見上げた。
 どこまでも澄んだ青い空。
 ぽっかり浮かぶ雲は、穢れのないふわふわな白。
 窓から入ってくる風だって、心地よい春風だ…。
 






 それなのに……。








 あかねは昨夜から熱を出して寝込んでいた。
 昨日の昼くらいから体がだるいなと思っていたのだが、夕方にとうとう発熱してしまったのだ。
 朝になっても下がる気配はない。
 体の節々が痛くて辛い。
 典型的な風邪の症状……。



「よりによって今日じゃなくてもいいのに……」
 あかねは布団に潜って涙声で呟いた。







 本当なら、今頃予定通りに友雅とドライブに出かけているはずだった。
 いつも仕事で忙しい友雅だけれど、無理を承知で京で出会った季節に二人だけで過ごしたいと言ったら、あっさりとスケジュールを空けてくれた。
 年度末から年度始めにかけてのこの時期、日頃に輪をかけて忙しいはずなのに、友雅は笑って素敵な提案だねと承知してくれたのだ。
 きっとその休みを捻出する為に、ハードスケジュールになった部分もあるだろうに……。






 それでもあかねは友雅の優しさに甘えて、久々にゆっくりと出来るデートに備えていた。
 友雅も、一昨日の電話ではとても楽しみにしてくれていた。






 それなのに……。






 壁にかかった柔らかなクリーム色のワンピースが、窓から入ってきた春風に揺れる。
 淡い黄色やグリーン、オレンジの柄が少しだけ入ったそれは、あかねが今日のデートの為に買ったワンピースだ。
 友雅と出会えた幸運を祝う日に着たいと思って、じっくり時間をかけて選んだ。
 何日も前から、このワンピースに似合うミュールもバッグもスプリングコートも決めていた。






 それなのに……。






 あかねは、今日何度目かの深い溜息を吐いた。






 一晩で熱は下がらないと体の調子で分かったあかねは、昨夜のうちに友雅に断りの電話を入れていた。
 誘ったあかねが体調を壊して断るなんて、友雅に申し訳なかった。
 友雅が無理してスケジュールを空けてくれていたのは分かっていたから。





 我儘を言ったのは自分なのに……。
 けれど、友雅はあかねの心配をするばかりで、一切自分の忙しさなど口にしなかった。
 優しい優しい恋人。






 
 自己管理が出来ないなんて最低。






 あかねは泣きたい思いで、ベッドの中で丸くなっていた。






 桜の季節に、奇跡のようにあなたと出会った。
 京という異世界で。






 怨霊との戦いに対する恐怖と、京を救わなければならないプレッシャーで、潰されそうだった日々。
 それを救ってくれたのが友雅だった。






 友雅は決してあかねを甘やかさず、それでいて誰よりも注意深くあかねを見守ってくれていた。
 厳しくも優しい眼差し。
 一歩引いてあかねを見つめるその姿を、無意識に探してしまうようになったのはいつの頃だったろうか?






 
 気付いた時には惹かれていた。
 





 想いが届くなんて思ってなかった。
 彼は誰よりも華やかな大人だったから。






 今でも、友雅に愛される幸せが夢かと思うときがある。
 まだあの戦いの最中で、目が覚めたら隣に友雅がいないんじゃないかと……。






 特にこんな時は不安になる……。






「友雅さん……」
 あかねは布団の中で小さく丸まって、そっと愛しい人の名前を呼んだ。






 逢いたくて。
 逢えない……。






 熱の所為で苦しくて熟睡出来ないあかねが、うとうととしていた時だった。
「あかね、大丈夫?」
 軽いノックの音がしてドアが開き、母親が寝込んでいるあかねを心配して声をかけた。
「ん〜」
 ごそごそと寝返りを打つけれど、まだ意識はゆらゆらと眠りの淵を漂っている感じだった。
 少し寝たからだろうか。先程よりも幾分気分は良くなっていた。
「あかね?」
「うん……。大丈夫…」
 まだまだぼんやりとした感じの返事だが、あかねの母は朝より幾分良くなった娘の声の調子に、ほっと安堵の息を吐いた。
「橘さんがお見舞いに来てくださったわよ」
「えっ!?」
 母親の言葉に、あかねはぱっちりと目を開け掛布団から目だけを覗かせた。
「具合はどうだい?」
 母の横で心配そうにあかねを見つめていたのは、ここにいるはずのない友雅だった。







 お茶の用意をすると申し出た母に、友雅は仕事があるのですぐに失礼するからと申し訳なさそうに心遣いを辞退した。
 それを聞きながら、あかねは再び布団に潜り込んでしまう。





 すぐに行ってしまうなら来てくれなくていいのに。
 友雅に去られる淋しさは、来てもらえない淋しさよりも深いから……。
 こんなに弱っている時は、友雅に甘えてしまいたくなる。
 忙しいとわかっているから、子供じみた我儘なんて言いたくないのに……。
 だから、あかねは友雅と顔を合わせないように身を隠してしまった。







 母が遠慮して部屋を出て行くと、友雅がベッドに近づいてくる気配がした。
「あかね?」
 ぽん、と軽く布団越しに友雅の手があかねの頭に置かれる。
 それでもあかねは動かない。






「気分はどう?白雪?」
「………白雪なんかじゃないもん」
 友雅が見舞いにきてくれてうれしいのに、あかねは布団に潜ったまま不貞腐れていた。
 そんなあかねを友雅が仕方ないねと笑って、もう一度ポンっと軽く布団の繭を叩いた。
「あかね?顔を見せておくれ?君から連絡を貰って、ずっと心配で胸がつぶれそうだったんだよ……」
 トーンを少し落として切なく訴える友雅。
 拗ねて隠れてしまっているあかねを宥めるように、友雅は丸くなった繭を優しく撫でていた。






 やがて……。
 じっとしていた繭がもぞもぞと動き出し、ひょっこり布団の端から目元までが覗いた。
 少し熱で潤んだ瞳が、布団の陰から恥ずかしそうに友雅を見ている。
「ああ、やっと出てきてくれたね?」
「……うつりますよ?」
 ちょっとだけ怒ったように言うと、友雅はふわりと表情を柔らかくした。
「それであかねがすぐに良くなるならかまわないよ?」
「…ダメです。忙しいんでしょ?」
 本当なら、今日はドライブのはずだった。
 お弁当を持って、咲き始めたばかりの桜を探しに行くと約束していた。
  







 でも……。







「すまないね……。そばに居てあげられなくて」
「いいです。それにそんなに酷くないし…」
 すっと伸ばされた手。
 それがあかねの額に触れた。
「……熱が高いね。きつくない?」
「……少し。でも大丈夫」
 あかねの額は少しだけ汗ばんで、内側から発せられる熱の所為で熱かった。
 それでも友雅に心配かけまいと、苦しさを隠して微笑むいじらしさが愛しい。
 友雅はあかねの額に張り付いた前髪を、長い指先でそっと払うと綺麗に笑んでみせた。
「お見舞いを持って来たよ」
「お見舞い?」
 あかねが不思議そうに首を傾げる。
 お見舞いの定番といえば、食べやすく滋養のあるものか、お花。
 でも友雅はそのどれも持っていなかった。
 唯一持っていたのは、手提げの大きな紙袋……。
 友雅は、きょとんとしているあかねに笑いかけて、その紙袋から『お見舞い』を取り出した。







「わぁ……」
 白い紙袋から現れたのは、鮮やかなアプリコットオレンジのハーフコート。
 部屋の中が一気に華やかになったほど、美しい発色のオレンジ色。
 裏地はオレンジベージュに黒に近いダークグリーンのドット柄だった。
 友雅は横になったままのあかねが見やすいように広げて腕に掛けた。
「綺麗だろう?これを目にした時、あかねに似合うと思ってね……」
「素敵!着てみたい!」
 春らしいコートに心躍らせて、ごそごそ起き上がろうとしたあかねを、友雅が苦笑いしながら止めた。
「まだ駄目だよ。あかね。熱が下がってからね」
「え〜」
 顔を顰めて残念がるあかねを再び横にさせ、肩まできっちりと上掛けを引き上げてやる。
「ふふふ。これを着たくて、早くよくなりたくなっただろう?」
「はい」
 女の子は、風邪をひいてもおしゃれには目がない。
 先ほどまでとは違う、あかねの明るい返事に友雅は満足そうに頷いた。
「病は気からというからね。あかねの心が元気になれば、体もすぐに元気になるよ」
「……友雅さん」
「早くよくおなり。よくなったら約束のドライブに行こう」
「え?でも友雅さん、忙しいって……」
 友雅は悪戯めいた顔で、あかねの額を突付いた。
「休みのはずの今日にどうして仕事してると思っているの?あかねが治ったらいつでも休めるようにだよ」
「友雅さん……」
「私の時間はいつだってあかねの為にあるのだからね。早くこれを着て見せておくれ?」
「うん……。ありがとう、友雅さん。………大好き」
 友雅に気持ちを伝えたとたん、恥ずかしくなったあかねは、顔を染めてまたもや布団のなかに潜り込んでしまった。
 布団から覗いているのは、頭の先と乱れた髪だけ。
 相変わらず恥ずかしがり屋の恋人に、友雅は蕩けるような甘い笑みを浮かべた。





「私も、愛しているよ」
 囁きはキスと共に、ちょっとだけ覗いた頭の先に落とされた。












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