私はあなただけを感じてる……。






 いつもの通勤電車。
 車内はちょうど帰宅ラッシュで、朝ほどではないがかなり混み合っていた。
 オフホワイトのスーツにボルドーのキャミソールを合わせたあかねは、つり革につかまって車窓を流れる風景をぼんやりと眺めていた。
 スタンドカラーのジャケットと身体のラインに綺麗にそったタイトスカート。
 肩に掛けたFURLAのベージュのバッグが働く女を感じさせる。





「ねえ、あかね。私、この前からアレがとっても気になるんだけど、何だと思う?」
 電車の中、隣に立っていた同期の由美が肘で軽くあかねを突付いて、中つり広告を目で示した。
「あれ?」
 由美の視線を追ってぶつかったのは、一面がモノクロ写真の広告だった。
 僅かに伏せられた右目だけのアップ。そして『魅惑の目覚め』というキャッチフレーズと日付が入っただけのものだ。
 そのポスターは誰がモデルか分からないだけでなく、男か女かさえも分からなかった。
 そしてこのポスターが初めて街中に現れた時は、まだモデルの瞳は完全に閉じていた。
 それが数日おきに少しずつだが、瞼が上がっていくのである。
 キャッチフレーズどおり目覚めに向けて……。






「すっごい印象的な瞳だよね。なんか色気があるっていうか……。あの目がまっすぐこっちを見た時、なにがあるんだろうって期待しちゃうよ」
 由美が広告を見つめながら、楽しみと笑う。
 あかねはそれに頷いてから、首を傾げた。
「ほんと。でも何のポスターなんだろう?新しいお店かな?」
「う〜ん……。想像つかないや。あかね、あれって男?女?」
「え?」
「ほら、肌とかきっちりメイクで作りこんでるからすごく綺麗じゃない?一見、中性的に見せるようにしてるっていうか……。
瞳のアップで輪郭とかもわからないからさ、どっちにも見えるじゃない?」
「確かに。どっちでもいけるね」
 自然にみえるようにメイクされた肌は、あかね達よりよほど滑らかだ。
 ここまでのアップに耐えられるのはモデルがいいのか、メイクアップアーティストの腕なのか……。
「ねえ、あかねはどっち?」
 興味津々で聞いてくる由美に、あかねが笑って問い返す。
「ん?そういう由美こそどっちだと思うの?」
「う〜ん……、女の人、かなぁ?目の伏せ方とかすごく色っぽいからさ」
「ふーん……」
「あかねは?」
「私は男の人だと思うな」
「そうかなぁ?」
 あかねの意見に、由美が少し不服そうに口を尖らせる。
 どうやら、女性モデル以外では考えられないようだ。
 でもあかねはそんな由美に、少しおどけた口調で言った。
「あの瞳から流れ出るフェロモン感じるんだよね」
「あははは!フェロモン!!それって野生の勘みたい!」
 あかねの答えに、由美が馬鹿ウケして大笑いする。
「あら?由美だって感じたんでしょ?色っぽさを」
 あかねは悪戯っぽく笑い、そのポスターを改めて見上げた。
「あと何日で目覚めるのかな?」
 呟くあかねの視線を追って、由美も深く頷いた。
「早く完全な目覚めを見たいね。一体、誰なんだろう……。そして、何なんだろうね…」
 今はまだ、まどろんでいるかのようなポスターを二人は見つめた。






 セキュリティーには定評のあるオートロックマンション。
 あかねは最近買ったばかりのFURLAのバッグから取り出した鍵で、エントランスホールの自動ドアを開錠する。
 フロア横にある管理人室の警備員に軽く会釈をして挨拶し、あかねはエレベーターのボタンを押した。
 エレベーターの到着を待っている間、柔らかなベージュ色のバッグから携帯を取り出し着信とメールを確認する。
 しかし携帯にはあかねの待っている人からの連絡の履歴は入っていなかった。 
 あかねは溜息をひとつ落とし、エレベーターに乗り込むと最上階のボタンを押した。





 エレベーターは振動が少なく滑らかに上昇していく。
 途中で止まる事無く目的階で扉を開けたエレベーターから、足を踏み出すとカツンと小気味よいヒールの音が響いた。
 ワンフロアに一部屋しかないこのマンション。
 あかねは一つしかないドアの鍵穴に、鍵を差し込んだ。
 チリン……、とキーホルダー代わりの小さな鈴が揺れて鳴る。
「あれ?」
 ドアを開けた瞬間、鼻腔を擽った芳醇な珈琲の香り。
 あかねは慌てて玄関に入ると、壁に手をついてパンプスのストラップを外しながら部屋の奥へと声をかけた。
「友雅さん?帰ってるの?」
「あかね?」
 あかねはパンプスを脱ぐと、肩から落ちたバッグを掛けなおしつつ足早に珈琲の香りへ向かった。
「友雅さん!おかえりなさい!!」
 ちょうどキッチンからマグカップ片手に出てきた友雅を見つけ、あかねがうれしそうな微笑を浮かべて駆け寄った。
「ただいま。そしておかえり、奥さん…」
 友雅は優しい声音と共に、あかねの唇に軽いキスを落とした。
 





「スケジュール押したんですか?」
 友雅の腰に手を回し、間近で彼を見上げながらあかねが問うた。
 当初の予定では、友雅は昨夜帰宅するはずだったのだ。
 友雅は世界で活躍する日本のモデル界でトップに君臨するモデル。
 仕事の依頼は多いが、えり好みするので有名だった。
 そしてオフをきっちりと確保する為に、過密なスケジュールを平気で組む事でも名を馳せていた。
 今回もかなり海外ロケのスケジュールを詰めたようだったが、それでも部屋に帰ってこれたのは5日ぶりだった。
 友雅はマグカップを片手に、懐いてくるあかねを愛しそうに片手で抱きかえす。
「いや、予定通りだったのだけど、一つ突然仕事が入ってね。連絡できなくてすまない」
 友雅の謝罪にあかねがいいえ、と首を振る。
「友雅さんの仕事が、きっちり時間通りに終わるとは思ってませんから大丈夫です」
 にっこり無邪気に微笑まれて、友雅が言葉に詰まる。
 気に入らなければ、撮影拒否など日常茶飯事の友雅への当てこすりとしか思えない言葉である。
「………胸に刺さるコメントだね」
 痛いところを突かれた友雅は嫌そうに眉を寄せる。
 そんな友雅に、あかねは悪戯っ子のような笑みを見せた。
「そうですか?自覚はあるんですね?」
 友雅が深く息を吐く。
「……だんだんあかねの言動が慎に似てきた気がするよ」
「友雅さんの気のせいです。ちょっと着替えてきますね」
 あかねは懐いていた友雅の側からあっさりと離れ、寝室へ向かう。友雅は空になった腕を見下ろし、あかねの切り替えの早さに苦笑を洩らした。
「あかね、コーヒーは?」
「頂きます!カフェオレでお願いします」
 寝室の奥、ウォークインクローゼットから返ってきた答えに、友雅は軽く頷いてキッチンへと足を向けた。






 友雅があかねお気に入りのカフェオレボウルに、淹れたての珈琲とミルクを注ぐ。
 砂糖は無し。
 年頃の女性は、常にカロリーに気を配っているのだ。
 友雅が出来上がったカフェオレをリビングに持っていくと、デニムとカットソーに着替えたあかねがちょうど入ってきた。





「どうぞ」
「ありがとうございます」
 友雅から差し出されたカフェオレボウルを両手で包み込むようにして受け取ったあかねが、うれしそうにそれを口に運ぶ。
「おいしい!やっぱり友雅さんが淹れるほうがおいしいんですよね。どうしてかなぁ?」
 首をかしげながら、あかねはソファに座った友雅の隣に腰をおろした。
「あかねへの愛情が入っているからかな?」
「じゃあ一休みしたら、お返しに愛情たっぷりのお夕食を用意しますね」
「それは楽しみだ。でも急がなくていいからね…」
「友雅さん、お腹すいてません?」
「打ち合わせの時に、少し食べたからまだ大丈夫だよ」
 そう言って友雅はソファの背に広げた腕と身体を預け、少し首を反らして瞳を閉じた。
 その横顔に微かな疲労の色が見える。






 あかねはカフェオレボウルをテーブルに置くと、彼の方へ少し向き直り、友雅の頬に乱れかかった髪を指先でそっと払った。
「疲れました?」
 ゆるく波打つ長い髪をゆっくりと梳くと、友雅は瞳を閉じたまま気持ち良さそうに口の端を僅かに上げた。
「少しね…。あかねの顔を見られなかったせいかな?」
 いつもの軽い言い回し。でも少しだけ元気が無い。
 あかねは静かに息をついた。
「また無理したんじゃないですか?もう少しゆとりのあるスケジュールを組めばいいのに……」
「あかねが一緒なら、バカンスも兼ねてのんびり仕事できるけど?」
「それは無理です!」
 友雅の誘いに対するあかねの答えは速攻だった。
 特に最近仕事が忙しいし……、と呟くあかねはすっかり社会人の顔だ。
 一人前の女性として働くあかねの姿は輝いているが、友雅はごく稀に学生時代の甘えを含んだ頼りなさを懐かしく思う。
「つれないねぇ……」
 友雅は溜息とともに薄っすらと瞼を上げて、あかねを流し見た。
 その艶めいた眼差しに、あかねの鼓動がドキリと跳ねる。
 そしてふと脳裏に浮かんだのは……。





「ああ……。あのポスター、やっぱり友雅さんだ……」





 疑問ではない、確信。
 目にした瞬間、あかねの鼓動を跳ね上げたあの瞳は……。
「友雅さんしかありえない……。あのポスター」
「ポスター?」
 あかねの呟きに、友雅が訝しげに眉宇を寄せた。
 あかねは友雅の疑問に頷いて答える。
「うん。最近見かける目元だけアップのポスター。『魅惑の目覚め』ってキャッチコピーが入ってるだけのなんだけど、あのモデルって友雅さんだよね?」
「……さあ?」
 友雅は少しだけ首を傾げて考えるそぶりをみせてから、あかねの問いかけを曖昧に流した。
 だがあかねは即座に首を横に振る。
「誤魔化そうとしてもダメ!絶対友雅さんだもん!」
「どうしてそう思うの?」
 絶対の自信。
 あかねの力強い反論に、友雅が面白そうに聞いた。
「私が感じたんだもん。あ、これは友雅さんだって。私が友雅さんを見間違うはずはないわ」
「おや、すごい自信だね?意外と間違っているかもしれないよ?」
「そうかな?じゃあ、友雅さんに質問」
「ん?」
 まるで学生のように顔の横に手を上げたあかねは、友雅に先を促されてから口を開いた。
「友雅さんは、たくさんの人のなかで私を見つけられない?」
「いいや、あかねだけは分かるよ」
 一瞬たりとも迷わず、友雅がきっぱりと言い切る。
 それにあかねはにっこりと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「だったら、それと同じ。私も友雅さんだけは分かるの。その私が感じたの、あれは友雅さんの目だって」
「……」
「どんな風に感じたか、なんて聞かないでね?これは私だけの感覚だから。見慣れてるとかそんなのじゃない、何かなの。あのモデル、友雅さんだよね?」
 もう一度、あかねは友雅の目を見つめてしっかりと尋ねた。
 だが……。
 友雅は軽く口元に笑みを浮かべただけで、あかねを見つめるばかりだ。
 否定も肯定もしない。
 あかねは、呆れたように眉を上げてわざとらしい溜息を吐いた。
「不真面目に見えても、真面目なんですね。相変わらず仕事については黙秘ですか?」
「ふふふ、君の仕事に守秘義務があるように、私達にも色々とあるのだよ」
「もし私が間違ってたら否定はしますか?」
「いいや?否定すれば、それについて答えが出てしまう。私に出来るのはただ沈黙することだけだよ」





 確かに友雅の言うとおりだった。
 否定も肯定も、結果が出るのに変わりは無い。
 あかねはつまらなさそうに唇を尖らせたが、ふと何かを思いついたのか、きらりと瞳を輝かせた。
「……わかりました。じゃあ、もし私の予想が当たってたら、友雅さんを見つけられたご褒美もらえます?」
 どうして突然、ご褒美なんて話になるのか分からなかったが、あかねにしてはとても珍しい提案に、友雅が快く頷いた。
「いいよ。何がいいのかな?」
 欲しいものでもあるのだろうか、と思いながら友雅が尋ねると返ってきたのは予想もしない答えだった。






「今度、労組の青年部でバーベキューやるんですって。家族も連れてきなさいってことだから、友雅さんもスケジュールの都合がつくようだったら参加してください」
「組合……。そうか、あかねのところは大きな会社だったね」
「組合がある程度にはね。この手の行事には友雅さんいつも不参加だから、たまには出てください。旦那様?」
 おどけて友雅を呼ぶあかねに、友雅が蕩けるほど甘い笑顔を向ける。
 そう、普段の彼からは考えられない優しい笑みを。
「そんなこと交換条件じゃなくてもいいのに。愛しい奥さんのお願いなら、何としても叶えてあげるよ」
「『何としても』はやめてください。ちゃんとスケジュール調整がつくなら!です。これ以上鷹通さんに迷惑をかけないでください。鷹通さんの優しさに甘えてばかりじゃダメなんですから」
 ご褒美をくれというわりには、相変わらず気遣いを忘れないあかね。
 友雅はやれやれと首をすくめた。
「私には鷹通よりあかねが大事なのだがねぇ……」
「もう、友雅さんったら」
「第一、鷹通が優しいものか。あの人当たりのいい笑顔で騙されているよ、あかね」
「そうですか?」
 あかねのイメージの鷹通は友雅に振り回されながら、友雅が納得する仕事とスケジュールを組み立てている苦労人だ。
 いつもいつも迷惑をかけていて申し訳ないのに、鷹通はあかねの前でいつも柔らかく微笑んでいる。
 そして昔から、とても優しい心遣いをあかねにみせてくれていた。
 しかし友雅に対してはどうやら違うらしい。
「ああ、事務所一切れ者でやり手だからね」
「なるほど!!だから友雅さんの担当なんですね!?」
 納得、とあかねが手を打つ。
「……どういう意味かな?」
「深い意味はありません」
 にーっこり小悪魔のような可愛い笑顔で微笑まれては、友雅も苦く笑うしかない。
「……まったく」






「さて、じゃあご飯の支度をしようかな」
 話はここまでと、あかねがひとつ背伸びをして立ち上がった。
 友雅のマグカップと自分のカフェオレボウルを持ち、あかねは夕食の準備をするべくキッチンへと消えていった。
 その華奢な背中を見送り、友雅が一つ息を吐く。





「スケジュール調整か……。また鷹通が目くじらを立てるのだろうねぇ……」





 しかし鷹通の怒りも嫌味も、あかねの笑顔に敵うものではない。
 友雅は口元に微かな笑みを浮かべ瞳を閉じた。






『友雅さんだけは分かるの』
 まっすぐな瞳。そして想い。
 あかねに向けられるその想いが友雅の心を暖かくしてくれる。
 誰よりも何よりも大切な、友雅の宝物。
「私も、君だけは分かるよ……。あかね……」







 私はいつもあなたを感じてる……。
 あなただけを……。










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