そこはいくつかの店が集まったビルの通路にある店だった。
古めかしいドアの中央には、『グループ、酔っ払いお断り』と書かれたプレートがかかっている。
ドア上部の壁にある小さな看板には店名の『S』とだけしかなく、何の店なのか外からでは分からない。
スナックなどの間にあるので、飲食店だと想像はつくのだが……。
「え…と、友雅さん?」
カクテルを飲んでみたいです、と友雅にねだったのは、前回会った時だった。
それから3週間、友雅が契約しているメゾンの仕事で渡仏していた為、会えなかったのだが、昼にあかねの携帯が鳴った。
「夜、食事に行こう」
帰国の連絡と、デートへの誘い。
あかねは久々に友雅と会えるうれしさに、おめかしをしてうきうきと出かけてきた。
小さな隠れ家的フレンチレストランで食事を済ませ、友雅はあかねにカクテルを飲みに連れて行ってくれると言った。
それで想像したのは、お洒落な落ち着いた雰囲気のカクテルバーだったのだが……。
友雅が案内してくれたのは、お洒落とは言いがたい目立たない路地裏のようなところ。
華やかな友雅のイメージにはちょっとそぐわない気がする。
戸惑いを浮かべるあかねに、友雅は軽く微笑んだ。
「ここならお酒の苦手なあかねにも、好みのカクテルを作ってくれるよ」
友雅はドアを開け、店内に先に入る。
いつもならレディーファーストで先にあかねを促すのだが、あかねが少し不安に思っているのをわかった友雅は、あかねを安心させる為に先に足を踏み入れた。
その優しさに気付いたあかねが、甘えるように友雅の袖を掴み、照明が絞られた店の中に入った。
「わあ……」
目の前に広がった光景に、小さな感嘆の声が唇から零れ落ちる。
古びた店内はカウンターの上も壁も、色々な種類の酒瓶で埋め尽くされていた。
狭い店内はカウンター席しかなく、数も10席ほどだ。
すでに半分は席が埋まっている。
カウンター奥にいた蝶ネクタイの白髪のマスターが、目線だけで友雅に空いている席を示した。
友雅は店の奥の椅子を引き、あかねを座らせてくれた。
「ずいぶんと久しぶりだね」
2人の前におしぼりを置きながら、クラシックな店内にぴったりなシルバーグレイのマスターが友雅に話しかけた。
「忙しくてね…」
「相変わらずだ。それにしても……」
マスターが友雅の隣に座ったあかねにちらりと視線を向ける。
「ん?」
「友雅が女性を連れてくる日が来るとは夢にも思わなかった」
華々しい女性遍歴を持つ友雅に対して、不似合いな言葉。
あかねは意外そうに隣の友雅を見つめた。
友雅が軽く肩をすくめる。
「そうかい?彼女がカクテルを飲みたいと言ったからね」
「ここを思い出してくれてうれしいよ」
マスターが笑いながら、小さなグラスを2人の前に置いた。
「?」
オーダーしていないのに出てきたグラス。
そこに入っているのは……。
「牛乳だよ。胃をアルコールから保護するために、マスターが必ず出すんだ」
そっと友雅が囁いて教えてくれる。
「マスターは酒の味が分からない程の酔っ払いは大嫌いだからね」
確かに友雅が言うように酔っ払いは嫌いなようだった。
入り口のドアにも書いてあったし、カウンター上の小さなメッセージカードには、「お一人様3杯まで」と書かれてある。
それ以上は出さないという意思表示だ。
アルコールを主に扱うお店としては、型破りなのではないだろうか?
「面白〜い。友雅さんは常連さんみたいですね」
「大学の頃からたまに来ているよ。一人で落ち着いて飲めるだろう?」
確かにここだったらファンに取り囲まれるなんてことはないだろう。
高校時代からモデル活動をしていた友雅は、それだけトラブルも多かったらしい。
友雅自身が己の過去を話す事は少ないので、それは兄の慎から聞いた話だった。
メディアに顔を出さない、常連しか知らない隠れ家のような店を友雅が好むのはそのせいだろうか?
「さて、まずはお嬢さんから作りましょうか。お好みは?」
「え?」
いきなりマスターに尋ねられてあかねが驚き瞬く。
店内にはメニューらしきものはなく、カクテルをよく知らないあかねは何が飲みたいか聞かれて戸惑ってしまう。
その様子に、友雅が小さな笑いを漏らした。
「ここはメニューがないからね。飲みたいもののイメージを言ってごらん。作ってくれるよ」
友雅が横から優しく教えてくれる。
「強くていい?それとも弱いの?」
マスターがあかねが頼みやすいように、誘導してくれる。
「えっと……。あまり飲めないからビールより軽いものがいいです」
マスターの質問に、あかねは考えながら答えていく。
「甘みは?少しあってもいい?ミントは大丈夫?」
「はい」
あかねのリクエストに軽く頷いたマスターが、沢山ある瓶の中から一本を取り上げる。
そして手際よく作ったそれを、青いコースターの上に置いてくれた。
青い足のカクテルグラスには大きな丸い氷が浮いた淡いブルーのカクテルが注がれていた。
「綺麗……」
「味はどうかな?」
促されて恐る恐る一口含んでみる。
瞬間、広がる瑞々しい果実の香り。
「ライチだ…。おいしい……」
「そう。ライチとパイナップルジュースと色づけはミントのお酒」
「凄く飲みやすいです!」
「よかった。友雅は?いつものかい?」
「ああ」
そして出されたのは美しいカッティンググラスに注がれた琥珀色のバーボン。
それをみてあかねが楽しそうにくすくすと笑う
「常連さんだ〜」
「ん?」
「『いつもの』って言って出て来るんだもん。なんか、いいな〜」
「友雅は長いし、好みもはっきりと決まっているからだいたいいつも同じなんだよ」
マスターも笑いながら答えてくれる。
その人好きする笑顔に、あかねの緊張もほぐれていった。
「お店の人に、友雅さんが女性を連れてきた、って驚かれたのは2回目です」
他の客のカクテルを作る為に、マスターが2人のそばから離れた時、あかねは機嫌よく笑いながら友雅にだけ聞こえる小さな声で言った。
「そうだったかい?」
本当に思い出さないのか、友雅があかねの言葉に首を傾げる。
「はい、一回目は高校入学前でした。喫茶店のマスターに」
「ああ……。そんなこともあったねぇ…」
それは友雅と2回目に出会った時だった。
打ち合わせから抜け出していた友雅が、街中で偶然再会したあかねを誘ってくれたのだ。
「あの時、すごくうれしかったのを覚えています。なんだか特別になったような気がして……」
「そう?」
「今もとってもうれしいです。またひとつ友雅さんの事を知りました」
「たいした事ではないのに。あかねは面白いね」
「そうですか?でも友雅さんが大切にしてる場所に連れてきてくれるのは、やっぱりうれしいです」
「意識してではないよ?あかねと行きたいなと思っただけだから」
さらりと告げられた言葉に、あかねの頬がほんのり染まる。
「……さすが友雅さん」
「ん?」
「女殺すの上手いよね」
「なんだい、それは?小生意気な事を言うのはこの唇かい?」
友雅がふっと動いたと思った瞬間、あかねの唇に軽く彼のそれが触れた。
「……友雅さ〜ん?」
真っ赤になって口元を押さえたあかねが、キッと友雅を睨みつける。
しかし友雅は深い笑みを浮かべるだけ。
「もう!!何てことするんですか!」
「可愛い事を言う唇にお仕置きだよ」
軽いウインクと共に悪戯っぽい笑みを浮かべる友雅。
いつもの悪ふざけに、あかねの肩ががっくりと落ちた。
「…友雅さん……」
「ん?」
まったく悪気のない表情で友雅があかねを見つめ返す。
まっすぐにあかねだけを見つめてくれる優しい眼差し。
そんな瞳で見つめられたら、友雅にぶつけようと思った文句の一言さえ、あかねは口にすることができなかった。
「……もういいです」
ちょっとだけ拗ねてしまったあかねが可愛らしくて、友雅が小さく笑う。
「……やっぱり友雅さんはずるいです」
「そう?」
「友雅さんには敵いません。優しいけど意地悪なんだもん」
「そうかな?」
「そうです。絶対意地悪!!でも……」
あかねは身動ぎし椅子に座りなおして、友雅を真正面から見つめた。
「?」
「実は、そんなところも大好きです」
にっこり満面の笑みでストレートな告白。
恥ずかしがりやのあかねにしては意外すぎる大胆さ。
一瞬虚をつかれた友雅が驚きに軽く目を見開き、次には堪らないといったように声をたてて笑い出した。
いつもクールなイメージの友雅の高らかな笑い声に、店内の視線が一斉に集まる。
その様子が、背中を向けているあかねに見えなかったのは、友雅にとっては運がよかったかもしれない。
ギャラリーと化した店内の全員に見せ付けるように、友雅は魅惑の微笑みを浮かべてあかねに告げた。
「私の方こそ敵わないね。…私も大好きだよ、あかね」
友雅のその甘く熱い囁きは、静かな店内にいた全員の耳にはっきりと届いた。
世間では華やかな噂を振りまいていながら、この店には一切女性を伴わなかった友雅。
その彼が愛の告白をした相手であるあかねは、一瞬にしてこの店で最も有名な女性客になってしまった。
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