「友雅さん!今度、パリに行くのっていつからでした?」
 キッチンでコーヒーを淹れてくれている友雅へ、あかねが首を伸ばして尋ねた。
「来月初旬だと思ったけどね……。そこに手帳がないかな?」
 手が離せないのだろう。
 キッチンからは友雅の少し大きめの声が聞こえる。
「黒い手帳ならありますよ?」
「ああ、それだよ。それを見てごらん、スケジュールが書いてあるから」
「……見ていいんですか?ヤバイ事書いてません?」
 あかねのふざけた言い様に、友雅が声を上げて笑う。
「スケジュールしか書いてないよ」
「なーんだ、面白くない」
 あかねは笑いながら、許可をもらった手帳をぱらぱらとめくる。
「ご期待に添えなくて悪かったね。今度は何か仕掛けておこうか?」
「…………友雅さん、容赦なく私を騙しそうだからダメです」
 あかねは嫌そうに顔を顰め、声のトーンを落とした。
「おや?そうなの?腕によりをかけて仕掛けてあげようと思ったんだけどね………」
「結構です!あ……、来月3日からですね」
 ぱらぱらと手帳をめくると、かなり先までぎっしりとスケジュールが詰まっている。
 国内に留まらずヨーロッパやアメリカでの予定も多い。
 それを見ながら、やっぱり友雅は世界的なモデルなんだなと、あかねは再確認してしまった。
 あかねは友雅のスケジュールが書き込まれた手帳を、手持ち無沙汰から何気なく捲っていてふとそれに気づいた。
「あ……」
 慌てて口元を押さえたが、あかねの唇からこぼれた小さな声は、キッチンの友雅にまでは届かなかった。
 あかねはそっと友雅を伺い、まだ戻ってくる気配がないのを確認すると、傍に置いてあった自分のバッグを引き寄せたのだった。







「手帳、見せてもらいました。忙しそうですね?」
 自分のコーヒーとあかねのカフェオレを持ってきた友雅は、あかねにカップを渡すと、
彼女の隣に腰をおろした。
「まあね。オファーがあるのはありがたいよ。まだまだやっていけると思うからね」
「……まだまだって…」
 友雅は引く手数多のカリスマモデルなのに。
 謙遜にもほどがあると、あかねが苦笑する。
 けれど、友雅は軽く肩をすくめた。
「この世界はシビアだよ。オーディションで落ちることも多いし……」
「えっ!?友雅さんがオーディション落ちるんですか?って、オーディション受けるんですか!?」
 思いもよらなかった事実を聞いて、あかねは驚いて目を見開いた。
「当たり前だよ。ショーのオーディションは受けるよ。もちろんメゾンからオファーもあるけれど」
「………意外でした」
 友雅には黙って座っていても仕事が来るというイメージがあった。
 だからこそ、気に入らない仕事を断っても許されるのだとも……。
 しかしそんなに甘くないと、友雅は苦笑する。
「そう?ショーにはイメージがあるからね。そのイメージに合うモデルで、服を最高に魅せる技術を持っていれば、新人でも採用される。反対に、デザイナーのイメージに合わなければ、どんなベテランでも採用してもらえない」
「そうなんだ……」
「あかねはショーを見たことなかったね?」
「うん……。だって場違いでしょ?」
 ちょっと拗ねて、あかねは自分の姿を見下ろした。
 高級なブランド物なんてまだまだ手の届かない小娘な自分。
 それなのに、あの洗練されたコレクションになんて行けはしない。
 しかし友雅は優しくあかねの手を取った。
「そんなことはないよ。……東コレが行きにくいのなら、パリコレを見に行くかい?期間の後半のショーなら、一緒に行く時間を取れるかもしれないよ?」
「……グローバルな範囲で誘わないでください。受験生にそんな暇、ありませんから!」
 あかねの細い指に手のひらを軽く叩かれきっちりしっかり断られて、友雅は残念、と笑ったのだった。







 友雅は自分のスケジュールを、今でも手帳に書き込むようにしている。
 自分の手で紙に書き込む方が頭の中に残るし、何よりもデータ消失などのトラブルの心配がない。
 また、昔から使い慣れているという理由もあった。
 友雅は撮影の途中に、この後のスケジュールを確認するために手帳を開いた。
 ぱらぱらとページを捲っていたとき、ふと目に入ったカラフルな色。
 友雅は手を止めて捲ったページを戻る。
「…これは…」
 手を止めさせたものの正体を見て、彼は思わずふっ…と笑みをこぼしてしまった。
『楽しそうね?』
『また君かい?シルビア…』
 友雅が腰掛けていた椅子の背凭れに手をついて、後ろから顔を覗き込んできた美女に友雅は苦笑を漏らす。
 このブランドで長期契約しているのは、現在友雅とシルビアだけのため絡みの撮影が多い。
 今回もふたりでの撮影だから、シルビアがいて当然なのだが…。
『もっと若い子がよかった?』
 シルビアはその冷たいほど整った美貌で、甘く責めるように友雅の髪に指を絡めた。
 友雅はシルビアに好きにさせながら、顔を上げて背後のシルビアを流し見た。
『……もっと優しい子がいいね』
『あら?私ほど優しい女はいないと思うけど?……綺麗に別れてあげたでしょ?あなたと…』
『シルビア…』
 冗談めかして過去のことを持ち出され、友雅はなんともいえない複雑な表情を浮かべた。
 彼女は根に持つ女ではないから、純粋に友雅に対する嫌がらせなのだろうけれど……。
『何?これ……。写真?』
『ああ。可愛い悪戯をされたみたいだね』
 必要事項しか書かれていないシンプルな手帳に貼られた、異質な存在のファンシーなプリクラ。その中であかねが友達とポーズをつけて笑ってる。
『もしかして噂のハニー?』
『そうだよ』
『ふ〜ん。本当に可愛らしいこと。どちら?』
『右側の髪の短い子だよ。素敵な子だろう?』
『惚気ないで。……好みが変わったわね』
 シルビアは友雅から手帳を取り上げて、小さなプリクラの中で弾けるような輝きをみせるあかねに見入った。
 これまでの友雅が付き合った数多くの女性の中でシルビアが知っているのは、いわゆる美女。
 誰が見ても文句のつけようのない美しい女性ばかりだったのだ。
 それなのに友雅の手帳の小さな写真の中で生き生きと笑っているのは、特別目立つわけではない、まだあどけさの残る少女。
 可愛らしいけれど、友雅の相手としては子供過ぎる。
『私の好みね……』
 シルビアの指摘に友雅がふっと笑った。
『それにしてもこの日に悪戯って、彼女の誕生日かなにか?』
『いや……。違うよ。でも、大切な日だね』
『へぇ…。あなたが記念日?珍しい』
 ちらりとからかうように見るのは、付き合っていた時に一切記念日なんて思い出さない薄情な男だったからだ。
 優しいけれど冷たい男。
 それは友雅と付き合った女か口を揃えて言う事実だ。
 その友雅が甘い笑顔で≪大切な日≫なんて平気で口にする。
 シルビアにはそれこそが信じられなかった。
 友雅はシルビアから手帳を取り上げ、ぱたんと音を立てて閉じた。
『彼女と過ごす日は、いつだって記念日だけれどね』
『……』
 シルビアは呆れた顔で首を振りつつ溜息を吐いて身体を起こすと、もう友雅へのコメントも残さずに立ち去って行った。








「エアメール!」
 学校から帰ってきたあかねがポストを覗くと、見慣れぬスタンプが押されたはがきが一枚、ポストの底にくっつくようにあった。
 あかねは大きな瞳を輝かせてそのはがきを取り上げた。
「わぁ!綺麗!!」
 宝石箱をひっくり返したような美しい夜景。
 ここはどこだろうとあかねは裏を返した。
「上海か、すごいねー」
 宛名はあかねへ。
 そして送り主はもちろん友雅だ。
 どうやら仕事先の上海で投函したらしい。
 あかねはくすりと笑って指先で、そのはがきを弾いた。
「気がついたんですね、友雅さん」
 こっそりと貼ったプリクラ。
 その意味に気づくかどうかなんて関係はなかった。
 ただ、あかね自身の自己満足でちょっと悪戯しただけだった。
 でも友雅は、きちんとあかねの気持ちに気づいてくれたのだ。
 あかねはそのはがきを愛しげに、胸に抱きしめた。
「大好きです。友雅さん……」
 まだ海の向こうにいる友雅に届けと、あかねは祈りを込めた。







≪素敵な笑顔をありがとう
 君と出逢った日に君の笑顔
 すばらしい贈り物だね
 その笑顔でまた出迎えておくれ≫














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