ピンポーン……






 友雅が目を覚ましたのは、部屋の外から微かに聴こえたドアチャイムの音のせいだった。
 目覚めたばかりの気だるい体を肘をついて起こし、友雅はベッドサイドの時計に目をやった。







 デジタル表示は22時を僅かに過ぎていた。
 友雅の部屋の時計は、すべて24時間表示である。
 海外の仕事が多いことと撮影の関係で昼夜逆転もよくあるため、24時間表示でないと昼か夜か把握できず不便なのだ。





 こんな遅い時間にエントランスホールのセキュリティーを抜けて、直接部屋を訪ねてくる者は限られている。
 友雅は、軽く頭を振って眠気の残滓を払うと、気だるげにベッドを降りた。
 






 友雅が寝室から出ると同時に、玄関ドアが開く小さな音がした。
 廊下のオレンジ色の間接照明が、暗い部屋から出てきた友雅の目に刺さる。






「あ、友雅さん……。ごめんなさい、寝てました?」
 玄関から掛けられた申し訳なさそうな澄んだ声。
 友雅は寝乱れた髪を掻き上げながら、僅かに目を細めて笑った。







「お帰り、あかね…」
 





「ごめんなさい、落し物しちゃって。教えてくれてありがとうございます、友雅さん」
 昼過ぎに、舞台を観に行くと出て行ったあかねが、照れくさそうに肩をすくめる。
 友雅は苦笑して、あかねをリビングへと手招いた。





「はい、どうぞ」
 キャビネットの上に置いてあった落し物の手紙を、友雅はあかねへ差し出した。
 あかねは恥ずかしげに友雅を見上げ、それを受け取った。
「ありがとうございます…」
「折角書いたのに渡せなくて残念だったね」
「大丈夫です。今日渡せなくても、送ればいいから…。でも、落としちゃうなんで恥ずかしいな」
「どうして?」
「だって……。俳優さんに一方的に憧れてファンレターまで書いてるんだもん。独りよがりで恥ずかしい」
 ファンレターを貰う立場の友雅は、あかねのその恥じらいがよくわからなかった。
 自分の為に時間を取って、好意で手紙を書いてくれるのはいつもありがたいと思う。
 恥ずかしがることなど何もないのだが……。
「そんなことはないよ。……少し妬けるけどね」
「妬ける?どうしてですか?」
「だって、私はあかねに手紙を貰ったことが数える程しかないからね。ファンレターにいたっては一通も。でもその彼は、あかねからの手紙をたくさんもらってるのだから妬けるじゃないか」
「え〜っと……、それは頼久さんにお手紙を出しちゃダメってことですか?」
「正直、あまり面白くはないけれど、あかねの気持ちを禁じることも出来ないかな」
「………う〜ん」
 あかねは眉根を寄せて唸った。
 そんなあかねの額を、友雅は軽く指先で突いた。
「悩まなくてもいいよ。あかねの好きにしなさい」
「でも、友雅さんは嫌なんですよね?」
「そうだね……。だが正確には違うかな」
「?」
「あかねの手紙を貰える彼が羨ましいのだよ」
 意外な友雅の言葉にあかねは少し驚いてから、くすくすとおかしそうに笑い出した。






「友雅さん、面白い」
「そうかい?」
「うん。友雅さんとはいっぱいメールも電話もしてて、こうやって顔を見て話もしてるのに、手紙も欲しいんですか?」
「おかしいかな?あかねの手紙なら、とても欲しいね。あかねは私の仕事について、あまり話をしないから」
「……お仕事に口を挟まれるのは大嫌いだと聞きましたけど?」
「おや?誰に?慎かい?」
「違います。友雅さんですよ。電話口でいつも誰かに言ってるじゃないですか」
「ああ……」
 あかねが何を指しているか心当たりのある友雅は、なるほどと頷く。
「だから、私は友雅さんのお仕事については何も言わないようにしてるんですけど……」
「私は仕事の選び方に文句を言われるのが嫌いなだけだよ。その他であれば、別にかまわない。特に…」
 友雅は言葉を切ると、あかねが手に持ったままだった封筒を、指先でピンと弾いた。
「こんな手紙をあかねから貰えるのならば、うれしいことこの上ないのだがねぇ…」
「ファンレターですか?」
「そう」
 あかねは友雅の顔を見上げて難しい顔で唸っていたが、やがて溜息と共に軽く首を横に振った。
「ダメです。きっと書けません」
「おや?つれない事をおっしゃるね?どうしてか聞いていいかい?」
「どうしてって……。説明するのは難しいけど、友雅さんにファンレターを書くのは無理ですね」
「……はっきり言われると、さすがに傷つくのだかねぇ?」
 ほんの少しだけ不機嫌になった友雅。
 あかねは自分の言葉が足りなかった事に気付いて、慌てて言い添えた。
「あ、ごめんなさい。友雅さんに書きたくないわけじゃなくて、ファンレターが書けないんです」
「書けない?」
「はい……」
 あかねは困ったような照れたような曖昧な笑みを浮かべ、手に持った頼久への手紙を見下ろした。
「これ。……頼久さんにファンレターを書く時は、ドラマや舞台を見たり歌を聴いたりして、頼久さんに伝えたいって気持ちを溢れるくらい溜めて溜めて、もうダメだって思った時に一気に書くんです。それこそ溜め込んだ気持ちをぶつけるように」
 手紙の向こうに頼久を思い出したのは、あかねの表情がふわりと可愛らしい優しさに染まる。
 その些細な変化に、友雅の胸の奥がちりりと痛んだ。
「……」
「私のファンレターの書き方ってそんな感じなんです。だからもし友雅さんにファンレターを書くのなら、友雅さんとはずっと逢わないで声も聞かないで、雑誌とかCMとかコレクションに出演している友雅さんだけを見て、気持ちを溜め込まないとダメだと思うんです」
「…」
「でも友雅さんに逢えないのは耐えられないと思うから。それにきっと私の気持ちを素直にぶつけて手紙を書いたら、ファンレターじゃなくてラブレターになっちゃいます。だから友雅さんに『ファンレター』を書くのは無理なんです」
 頬を赤らめながら肩をすくめ、小さく舌を出す。
 恋人に『ファンレター』は書けないと、あかねは可愛らしい困惑を見せて笑うのだ。
 そんな仕草さえ愛しくて、友雅はくすくすと笑いながらあかねの体を抱き寄せた。






「あかねは私を喜ばせてくれるねぇ…」
 つまらない男の小さな嫉妬を、たった一言で落ち着かせてくれた少女。
 飾らない本音がなによりも嬉しい。
「別に喜ばせようと思ったわけじゃないんですけど…」
 腕の中で、あかねが頬を染めて友雅を見上げる。
 友雅は口角をほんの少し上げるだけで、あかねの視線を奪ってしまう魅惑の笑みを作り、彼女の目尻にキスを落とした。
「だからだよ。あかねの自然な気持ちがうれしい」
「友雅さん…」
「出来るなら、そのラブレターを受け取りたいものだね」
「……ダメです」
「……ケチ」
 いつもスマートな大人の友雅から出た、ものすごく子供っぽい一言に、あかねはびっくりして目を見開いた。
 そして不本意だとばかりに頬を膨らます。
「ケチって…。お言葉ですけど、ケチなのは友雅さんですよ?私ばっかりに書かせる気ですか?私、友雅さんに一通も!手紙を貰ったことないです!」
 『一通も』の部分に、ものすごく力を入れてあかねが反撃をする。
「そうだったかね?」
 友雅はひょいと肩をすくめて、白々しく首を傾げて見せた。
 しらばっくれる友雅の腕を、あかねが一つ叩いた。
「とぼけないでください。私は何回かだけど手紙を書きましたよ?でも友雅さんは全然。海外からの絵葉書だって一言だけ…。友雅さんこそケチです」
「これは……。ヤブヘビだったかな?」
 初めは友雅があかねからの手紙を求めていたはずなのに、雲行きが怪しくなってきたようだ。
 友雅は小さな恋人の指摘に、楽しそうな苦笑を浮かべた。
「私からの手紙が欲しかったら、友雅さんがまず手紙を下さい。……出来るでしょ?」
 小首を傾げるその姿さえ、友雅には愛しくてならない。
 女に何かを要求されることが、何より煩わしかったのが嘘のようだ。
 あかねから求められると、何でも叶えてやりたくなる。
 まったく友雅らしくない感情だ。
 でもそのらしくない感情さえ、あかねが与えてくれるものだと思うと心地よく感じるのだ。
「………まったく、小憎らしい姫だね」
 あかねにしてやられた友雅は、彼女の小さな頭を腕に包み込みキスを落とした。







 友雅からあかねへ手紙が送られるのは、もう少しだけ先の話……。
 












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