それは爽やかな初夏の風が、心地よく頬をくすぐるある日のことだった。
「……どうしたんですか?友雅さん」
リビングのソファに座り、じっと自分の左手のひらを見つめていた友雅に、紅茶を持って来たあかねが不思議そうに首を傾げた。
「いや、ちょっとね……」
友雅は珍しく少し照れたような微苦笑を見せ、眺めていた手を軽く握った。
「…もしかして指輪、ですか?」
「ん?……うん、まあ、ね」
歯切れの悪い友雅の返事に、あかねは微笑みながら紅茶を差し出した。
お盆を持ったあかねの左の薬指に、透かし彫のプラチナの指輪が輝いている。
そして、友雅の同じ指にも同じデザインの指輪があった。
桜の花がデザインされた、少し太めのそれ。
あかねがこだわった、大切な季節の想い出の花をあしらった指輪は、友雅の知り合いが希望に合わせて特別にデザインしてくれたものだった。
小さなダイヤとパパラチアがはめ込まれた指輪。
それは一ヶ月ほど前に交わしたばかりの約束の証。
「友雅さん、今までアクセサリーって普段は身につけてなかったから、邪魔になるんでしょ?」
「そういうわけではないけれど…」
「邪魔なら外してもいいですよ」
ティーカップを手に包み込みながら、あっさり、何でもない事のように言ったあかねに、友雅は深く溜息を吐いた。
「つれないねぇ……」
「どうしてですか?別に指輪をしてないからって、友雅さんが私の旦那様であるのは変わらないですよ?」
邪気の無い笑顔を向けるあかねに、友雅が聞き返す。
「私が未婚と間違えられてもいいの?」
「間違えられたら、友雅さんは訂正してくれないんですか?」
「いや。それはないよ」
即座に否定した友雅。
これを身につけている時点で、既婚者であることを隠す気は毛頭ないのはあかねにも分かっている。
「だったらいいじゃないですか。今だって、別に隠しているわけではないし……」
「隠してないけど、誰も気づかないねぇ……。常日頃、これをしているのに」
友雅がひらひらと左手を振って見せると、小さなダイヤがキラリと陽を反射して輝いた。
「どうしてでしょうね?」
あかねはさも不思議そうに小首を傾げた。
今まで散々恋愛スキャンダルをすっぱ抜かれていた友雅なのに……。
「さあ?堂々としていると、返ってマスコミも気付かないのかもしれないねぇ」
「面白いですね」
「そうだね。ところで、あかねはどうなの?指輪をするのは苦手と言っていたけれど」
友雅に問われ、あかねは改めて腕を伸ばし自分の指輪を見つめた。
「う〜ん、もう慣れました。これはあまり飾りも無いから引っかからないし、邪魔にならないもん」
「……そこなんだよ」
友雅は溜息混じりに困ったように呟いた。
「はい?」
「邪魔にならないのが、少し問題」
「何故ですか?」
いつも身につけているものが、どうして邪魔にならないと困るのだろうか?
普通なら、爪が引っかかったりクルクルと回ったりするほうが困るような気がするのだけれど……。
「いや、この前の撮影で、カメラの前に立った時にこれを外すのを忘れていてね。メゾンの新作の撮影だから、身につけるアクセサリーにも制限があって、仕方なく外して近くのスタイリストに預けたんだよ。そうしたら……」
「そうしたら?」
「スタイリストも動き回るものだから、どこかへ落としてしまってね……。あの時は探すのが大変だった」
本当になかなか見つからなかったのだろう。
友雅は肩を落としてしみじみと息を吐いて言った。
「あら、まあ……」
「仕事柄、常に身につけておくことも出来ないし、小さなものだから失くしてしまう可能性も高い。どうしようかと思ってね」
「外してていいですよ?」
やっぱりあっさりと言ってあかねが笑う。
外しておけるものなら、最初からあかねに許しをもらっている。
しかし……。
「それは、嫌なんだよ」
「何故ですか?」
大きな瞳をきょとんとさせて、あかねは友雅に尋ねた。
あまりに淡白なあかねの反応。
どちらかといえば、結婚指輪に拘るのは女性の方だと思っていたのだが……。
あまりに鈍すぎるあかねに、友雅はやれやれと軽く肩を竦める。
「折角あかねと交わした結婚の約束の証だよ?それを外せとは、ずいぶんと冷たいじゃないか」
「冷たいって……。失くしてしまうよりいいじゃないですか」
心外だとばかりに、あかねは眉を寄せた。
「確かに。でもねぇ……」
何かいい案がないかと、再び指輪を見つめて考え込んでしまった友雅。
いつもはずいぶんと大人な彼が、あかねにだけ見せる少し子供っぽい一面。
些細なことだけれど、それにくすぐったいような幸せを感じてしまう。
誰よりも大切にあかねを想ってくれる、優しい友雅。
「いいこと思いつきました!」
「ん?」
ふと思い浮かんだアイデアに、あかねはうれしそうに友雅の手を取った。
そして指先で、問題の結婚指輪をそっと撫でる。
「指輪をチェーンに通してペンダントにするのはどうでしょう?」
「ペンダントにかい?」
意外なアイデアに、友雅が少しだけ驚いた。
言われてみればありがちなことなのだが、友雅にはまったく思いつかなかったことだ。
「はい!私もやっぱり洗い物する時に、気になるんですよ。傷もつくし。どうせならおそろいでペンダントとして身につけませんか?」
「それはいい考えだね」
「じゃあ、明日に私がチェーンを買ってきますね」
あかねのアイデアを素敵だね、と褒めながら受け入れた友雅に、愛妻は満面の笑みを向けた。
「お願いするよ」
そして友雅は、あかねの手を引き寄せて約束の輝きに軽いキスを落としたのだった。
それ以降、2人の結婚指輪はプラチナのボールチェーンに通され、お互いの胸で光っている。
長いチェーンはちょうど心臓の真上に、誓いの指輪を輝かせていた。
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