あたたかな午後の日差し。
たわいない会話、優しく流れる時間。
心を込めて淹れてもらったカフェオレは、とても美味しくてあかねの身体を芯から温めてくれる。
ソファに寄りかかって床に直接座ったあかねは、カフェオレボウルを両手で包み込むように持ち、ほう……と息を吐いた。
そのあかねの耳に、頭上からくすくすと軽い笑いが聞こえてくる。
あかねはカフェオレボウルを持ったまま、笑い声の方向へと顔を向けた。
「何かおもしろいことでもありました?」
「いや……」
「じゃあどうして笑ってるんですか?友雅さん?」
「幸せそうだなと思ってね」
ソファにゆったりと身体を預けている友雅は、自分の足元でくつろぐあかねの髪を、くるりと指先に絡めて微笑む。
その表情が少しだけ気だるげなのは寝不足の為だ。
撮影が長引いた友雅が帰宅したのは昼過ぎだった。
疲れた友雅が部屋のドアを開けると、そこにはあかねの明るい微笑が待っていた。
空港でのスクープ騒動をうやむやにする為に、でっち上げたスキャンダルが下火になってから、友雅は出来るだけ時間を作ってあかねと会うようにしていた。
逢えなかった時間を急いで埋めるように……。
今日はあかねが夕方から用事があるので、あまり長い時間一緒にはいられないが、その貴重な時間を友雅の部屋でゆっくりとすごしていた。
すでに友雅の活動時間は24時間以上。かなり限界近いのだが、友雅はあかねに悟られないようにいつもの微笑をたたえている。
あかねが作った軽めの昼食を済ませ、食後の珈琲は友雅が淹れた。
珈琲だけはいつも友雅が淹れる。
そして珈琲があまり得意ではないあかねが、唯一好んでのむカフェオレは友雅が淹れてくれたものだけだった。
「おいしくって幸せですよ。それにこれから、すごく楽しみにしていた舞台観に行くし」
にこにこ、見ているこちらが嬉しくなるような明るい笑顔。
友雅は、中指の第二関節で柔らかくあかねの頬をくすぐるように撫でていく。
「舞台、ね。よく行くのかい?」
「よくって程じゃないけど、たまに」
「あかねはドラマや映画も好きみたいだね?」
「う〜ん、観るのは限られてると思うんだけど……」
「そう?」
友雅の部屋で過ごす時、あかねはたまにドラマを観たがる事があるのだ。
女の子は恋愛ストーリーが好きなものだと笑っていたのだが……。
「ドラマならどれでもいいわけじゃないのかな?」
「はい。面白いものがいいですよ。続きが気になってドキドキするのが。あとは役者さんかな?」
「役者?」
「綺麗とか格好いいとかだけじゃなくて、本当に実力のある人を観るのが好きです。舞台は特に役者さんの個性とか演技力とかが分かりますから。って生意気ですね」
あかねは自分が批評っぽく言ったのを、照れくさそうに小さく舌を出して笑った。
「なかなかあかねの目は厳しそうだ。では、今日の舞台はお気に入りの役者が出演するのかな?」
友雅の問いに、あかねはこっくりと深く頷く。
「はい!今日の主演はすっごく綺麗な女優さんで、初めて舞台を見たとき鳥肌が立つくらい感動したんです。後姿がとても素敵なんです!」
「後姿?」
「ええ。正面は当然、美人だし綺麗です。でもそれよりすごいのは背中!もう、凛とした立ち姿は圧巻です。正面向いて演技している誰よりも存在感があって!!」
「ほう…」
「それからその女優さんと共演する俳優さんも素敵なんですよ。切れがあってアクションとかすっごい迫力で!でも静かな演技がまた似合ってて!!」
キラキラと輝く瞳。
ほんのりと紅色に染まった頬。
それらすべてが、まるで初恋の相手を誰よりも大切にうっとりと語るようで……。
「妬けるね…」
「はい??」
今まで楽しそうにあかねの話を聞いていた友雅が、ポツリとこぼした言葉を、お気に入りの役者について熱く語っていたあかねは一瞬理解出来なかった。
そのため、身を乗り出すようにして友雅に話していたあかねが、不思議そうに首を傾げた。
その邪気のない表情に、友雅が微苦笑を浮かべた。
きっとあかね自身は、自覚していないのだろう。
その俳優の事を語るときに、どれだけ美しく輝く表情をしていたかなど…。
「それほどまでにあかねの気持ちを奪う者が羨ましいよ」
「友雅さん?」
溜息まじりの言葉に、あかねの眉が訝しげに寄せられる。
「君ときたら、何と幸せそうにその役者の事を語るんだろうね?まるで久しぶりに逢う恋人を想っているようだよ?」
「……幸せそう?」
「ああ、とてもね」
友雅の答えに、あかねが自分の頬に手を添えほんの少しだけ変な顔をする。
友雅は、あかねを促すように軽く眉を上げた。
「同じことをよく友達に言われるんです。『あかねは本当に幸せそうに源頼久の事を話すね』って」
「源頼久?」
「はい。今日の舞台にでる俳優さんです。もう何年もファンなんですよ」
「…………そう」
モデルという職業でありながら、日本の芸能界をほとんど知らない友雅は、初めて聞くその名前に、かすかな不快感を覚えた。
顔も名前も知らないが、とにかく気に入らない。
あかねにあれほど熱いまなざしをさせる男を、友雅は他に知らない。
「中学の頃に観に行った舞台で、頼久さんが端役で出てたんです。まだデビューしたばかりで。その強く鋭い眼差しが、とても印象的でファンになっちゃったんです。それから、ずーっと応援してるんですよ」
「……それは初耳だねぇ…」
「そういえば、友雅さんに話すのは初めてですね。私が見てるドラマはほとんど頼久さんが出演しているやつですよ。友達の間でも大人気!」
「本当にうれしそうだ」
友雅は複雑な表情で唇の端を僅かに上げた。
「はい!あ、メール…」
あかねのバッグから、最新ヒット曲が流れてくる。
メール着信音に気付いたあかねが、バッグを引き寄せ中から携帯を取り出した。
「あ、もう友達が家を出たって。私もそろそろ行かなきゃ!」
届いたメールをチェックしたあかねが、慌てて立ち上がる。
待ち合わせをしている友達を待たせないで落ち合うには、同じ時間くらいに友雅の部屋を出る必要があった。
バタバタとカフェオレボウルを片付けようとするあかねを友雅がそっと引き寄せた。
「友雅さん?」
「置いておきなさい。時間がないんだろう?」
「でも……」
「そのくらい気にしない。ほら、早く用意をしなさい」
あかねの手の中のカフェオレボウルを取り上げ、テーブルに置くと、ハンガーに掛けてあったあかねのコートを取って広げた。
「さあ、どうぞ」
あかねが袖を通しやすいように背中で広げられたコート。
あかねは一瞬驚いて、それから嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
あかねは友雅が持ってくれているコートへ素直に腕を通し、そして置いていたバッグを肩に掛けた。
「それじゃあ、行ってきます!」
「気をつけて。ああ、それから…」
「はい?」
「源頼久とやらに、それ以上心を奪われないと約束しておくれ。そうでないと、私は不安で心がつぶれそうで、このまま君を素直に送り出せないよ」
「…え〜っと……、友雅さん?」
切なげな表情で胸に手を当てて言い募る友雅は、芝居がかっていてどこまでが本気なのかが判断できない。
あかねは戸惑いながら、友雅を見上げた。
「あれほどまで、あかねがうれしそうに彼の話しをするからとても心配なのだよ」
「心配って……。舞台の上の俳優さんですよ?」
一体友雅がどんな心配をしているのかわからないとあかねが笑う。
あかねは頼久を応援しているが、彼にとっては大勢のファンのうちの一人。
個人の認識もされていないはずだし、客席には沢山の人がいるのだ。
そんなところで、友雅が不安に思う何があるというのか…。
「あかねのその可愛らしい瞳で一心に見つめられたら、舞台からでも惹かれてしまうかもしれない。そう思うと…」
「もう!友雅さんったら!」
いつまでも続きそうなくさいセリフに、あかねが少し怒ったふりして笑いながら声を上げた。
友雅も、拳を口元にあてて小さく笑う。
「頼久さんは私がずっと応援してる人です。一方通行ですけど。変な心配しないでください」
「そう?でもあかねがあまりにも嬉しそうに彼のことを話すから、嫉妬で胸が締め付けられるようだよ」
「嫉妬だなんて嘘ばっかり」
「嘘だとは酷いねぇ。目の前で他の男の褒め言葉を聞かされて平静でいられると思うの?」
「褒め言葉って……。どうしてそんなに拘るんですか?第一、私は頼久さんのファンだけど、友雅さんは……」
「私は?」
はっと言葉を切ったあかねに、友雅が楽しそうに問い返す。
「う〜…。友雅さんは!」
うっかり口を滑らせてしまったあかねは、真っ赤になりながら俯き加減で、友雅を上目遣いに見上げた。
そこには、あかねが言葉の続きを口にする期待に満ちた瞳があった。
「はい?」
再度促され、あかねは半ば自棄気味に一気に答えた。
「私の大好きな人です!」
「よく出来ました」
上機嫌にくすくすと笑う友雅とは対照的に、あかねは恥ずかしさに真っ赤になりながら唇を尖らせる。
友雅はそんなあかねの頬を包み込むように右手を当て、輪郭を指先で撫でながら顔を上げさせた。
「…友雅さん?」
うっすらと無意識の誘いをのせ、少しだけ開いた果実のような唇。
友雅はすっと目を細めて薄い笑みを浮かべると、ゆっくり上体を屈めた。
「ん……」
軽くぶつかるような少しだけ粗野なキス。
それでもぬくもりと優しさはいつもと同じで……。
すぐに離れていった唇が、ほんの少しだけ淋しくて、あかねはそれを追いかけるように踵を上げた。
もう一度、あかねから触れて離れた唇。友雅がそれにまた答えて…。
何度もお互いを追いかけて、啄ばむようなキスを繰り返す。
やがてどちらからともなく、小さな笑いが零れた。
「そろそろ行かなきゃ。友達が待ってるから」
「気をつけて行っておいで。虫除けのおまじないも済んだしね」
悪戯めいた表情で軽くウインクを見せる友雅。
あかねはつい失笑してしまった。
「虫除けって…。友雅さん冗談ばっかり!じゃあ、行ってきます!」
満面の笑みで、あかねは友雅に手を振って玄関から元気に出て行った。
心底楽しみな舞台なのだろう。
足取りは軽く弾むようだ。
友雅は、わずかに複雑な気持ちを抱えてあかねの背中を見送った。
あかねがいなくなると、部屋が静かになっただけでなく温度さえ下がった気がする。
「重症だな…」
友雅はぽつりとひとりごちて、日が差し込むリビングに戻った。
先ほどまでは感じていなかった撮影の疲れと睡魔が、身体を重くしていくようだ。
「少し休むか…」
欠伸混じり溜息を吐きつつ、テーブルの上を片付けようとした友雅は、床に落ちているそれに気付いた。
淡い紫色の、綺麗なグラデーションで染められた和紙の封筒。
「?」
友雅は、足元のそれを拾い上げた。
リターンアドレスはあかねの住所と名前。
そして宛名は……。
「『源頼久』ねぇ……」
送り先の住所はない。
きっとこれは今日の舞台で渡すはずのファンレターだろう。
先ほど、友達からのメールで携帯を取り出した時に、バッグから零れ落ちたようだ。
友雅は、人差し指と中指に挟んだそれを静かな眼差しで見つめた。
丁寧に書かれた宛名。美しい封筒。そして封筒からかすかに感じる春の香り。
それだけで、あかねがこれを書く為にどんなに心を込めたか想像できてしまう。
手紙に香り付けをするとは、なんとも可愛らしい心遣いだ。
「ファンレターね……。まったく、とんだダークホースかな?」
見たこともない男。
あかねが一方的にファンなだけの男なのに……。
友雅があかねからもらった事のないファンレターを当たり前に受け取る男。
それを考えるだけで、胸の奥に暗い苛立ちが湧き上がる。
先ほども、大人の余裕で本心を冗談に隠して、あかねの心を確かめた。
そうせずにはいられないほど、その俳優に対するあかねの想いが深く感じられたから。
あかねが愛しい。
愛しいからこそ、自分の自由にならない彼女の心がもどかしい。
本当ならば、自分以外の男を見つめることさえ許したくはない。
そこまで考えて、友雅は軽く首を振った。
まるでどこまでも落ちていきそうな思考を振り払うように。
「らしくない……。本当に重症だ…」
そう呟いて、友雅は自嘲した。
人気俳優と一介の女子高生に接点などないはずだ。
友雅はそう自分に言い聞かせる。
過剰な束縛は、あかねの心を遠くさせるかもしれない。
しかし彼は友雅よりも長い期間、あかねを惹き付け見つめられ続けている。
「まったく。気に入らないねぇ……」
友雅は苦笑を浮かべ、手に持っていたあかねのファンレターを壁際のキャビネットの上に置いた。
そしてあかねに落し物がある旨を、メールで端的に伝えた。
こうしておけば、舞台帰りにでも、あかねが取りに来るだろう。
本当ならば、このまま焼き捨てたいくらいなのだが。
しかし大人の見栄と駆け引きが、友雅に余裕のある男を演じさせる。
メールを送信してから、友雅はそれをソファに放り投げた。
友雅は疲労のせいか、いつもよりもマイナスに働く思考にうんざりして、身体を休ませる為にリビングをあとにした。
残された携帯があかねからのメール受信を知らせても、それを確認する気にはなれなかった。
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