出会いはいつだって突然やってくる。
「忘れ物?どこ?」
あかねが出かける間際、慎からかかってきた電話。
大切な書類を家に忘れたから届けてくれとの内容だった。
あかねは電話を片手に、慎に指示された机の引き出しを開けた。
引き出しの中にあったのは、書類や写真、地図などが入ったクリアケースだった。
「あったよ。これを持っていけばいいの?」
クリアケースを取り上げ、あかねが慎に尋ねる。
『それそれ。すまん、頼めるか?』
電話の向こうで、申し訳なさそうに手を合わせる慎が容易に想像できて、あかねはくすくすと楽しそうに笑った。
「少し寄るところがあるから、すぐは無理だけどいい?」
『少しくらいならかまわないよ。何時ごろになりそうか?』
「え〜っと……」
あかねは時計を見上げ、すばやくこれからの予定を計算してから、慎にだいたいの時間を告げた。
すると慎は、その時間ならスタジオで雑誌用の撮影をしているから、その現場に持って来てくれと指定してきた。
日頃、あかねを撮影現場に呼ぶことはない慎なのに珍しい。
また、それほど重要な物を忘れるもの、慎らしくなかった。
あかねはしっかり者の兄のうっかりミスに苦笑して、それを届ける約束をした。
慎が教えてくれたスタジオは、閑静な住宅街にあった。
お洒落な洋館が丸ごとスタジオとして使われているらしい。
あかねは洋館の門をくぐり、少し開いていたドアから遠慮がちに中を窺った。
「あの、すみません…」
ちょうど通りかかった若い男性に声をかけると、彼はドアから顔を出したあかねをみてにこりと笑った。
「元宮先生の妹さん?」
慎があかねが来ることを行っていたのだろう。
男性は、すぐにあかねを慎の妹だと気付いてくれた。
「はい、兄にこれを」
余計な説明をせずに済んでホッとしたあかね、慎から頼まれたクリアケースを差し出すと、男性は少し困ったように笑って上を指差した。
「直接先生に渡してくれるかな?君が来たら必ず通して、って言われてるんだ」
「兄がですか?」
「そう。直接受け取りたいらしくてね」
「そうなんですか……。あの、兄は?」
てっきり誰かに預ければいいと思っていたあかねが、首を傾げて聞き返す。
仕事中にあかねに会おうとするのは本当に珍しい。
「ああ、先生は二階で撮影しているから」
どうぞ、と彼は一階ホールの正面にある階段を指差した。
二階へ続く階段は広く、まるで何かのお話に出てくるような深い艶のある木で造られた広い階段だった。
二階から一階へ向かって、広がる階段。
その真ん中には深紅のカーペット。
紳士淑女が腕を組んで、笑いさざめきあって降りてきそうだ。
あかねは教えてくれた男性に礼を言って、ゆっくりと階段を昇って行った。
慎が撮影している場所はすぐに分かった。
バルコニーに出て撮影しているらしい。
シャッター音と、モデルとの会話だろうか?
大きく開け放たれたバルコニーへと続く窓から、切れ切れに聞こえてくる慎の声。
撮影の邪魔をせずにどうやってこれを渡そうかと思案していると、アシスタントの一人があかねに気付いてくれた。
彼はあかねに向かってにこりと笑いかけてから、バルコニーに出ている慎に声をかけてくれた。
「先生、妹さんが…」
「お、来たか?すまん、ちょっと休憩!」」
慎の声がしたかと思ったら、本人がひょいとバルコニーから顔を出した。
そしてあかねの姿を見て、軽く驚きを浮かべ、すぐに眩しそうに微笑んだ。
「さすがあかね。浴衣姿も似合うな」
あかねは夏に相応しく、桜色の浴衣を纏っていた。
先日仕立てたばかりの、今日初めて着た浴衣だった。
髪も綺麗にアップして、涼しげなガラスの簪でアクセントをつけた。
あかねは手放しで褒める慎に近づいて、うれしそうな照れ笑いを浮かべた。
「ありがと。でもお兄ちゃん、兄馬鹿だよ?」
「可愛いからいいんだよ。それが先輩のためじゃかったらなぁ…」
「はい、頼まれもの!」
友雅とのことをからかいをこめて愚痴り出しそうになった慎の口を遮って、あかねはクリアケースを慎に押し付けた。
「お、サンキュ。これこれ」
慎はクリアケースを受け取ると、手渡ししろと言った割にあっさりとアシスタントにそれを渡した。
「あかね、ちょっと時間あるか?」
「え?うん、少しなら…」
浴衣の袖から見えないように、少し上に巻いた腕時計で時間を確認する。
それを聞いて、慎があかねの背に手を回してバルコニーへと誘った。
「お兄ちゃん?」
まさに今、撮影をしている場所へと導く慎を、あかねは戸惑いつつ見上げた。
「写真撮ってやるよ。せっかくの新しい浴衣だしな。その上、お前に最高の相手役もいる」
「相手役?」
慎があかねの写真を撮ってくれるのは、子供の頃から当たり前なのだが、相手役とは?
小首を傾げるあかねへ、慎は悪戯めいた笑みを浮かべて、バルコニーに向かって声をかけた。
「ああ、頼久!」
「え?」
バルコニーの日陰で、メイクを直していた頼久が、慎に呼ばれて顔を向ける。
そして慎の隣に立つあかねの姿に気付き、その精悍な顔にフワリと笑みを浮かべた。
憧れの人が突然、目の前に現れた驚きに、あかねの動きが一瞬都待った。
「こんにちは。先日はありがとうございました」
慎に連れられたあかねへ頼久が近づいてくると、我に返ったあかねは恥ずかしそうに慎の背に隠れてしまう。
「こら、あかね?」
憧れの人を前に、いつも以上に恥ずかしがるあかねを、慎は苦笑しながら自分の背中の影から前に押し出した。
逃げ場を失ったあかねがほんのりと頬を染め、恥ずかしそうに俯いて頼久の前に立った。
「こんにちは…」
緊張しているのがわかる声で、それでも頼久にしっかりと挨拶する。
好ましい愛らしさに頼久は優しく微笑んだ。
「先日は突然押しかけてすみませんでした。夕食も頂いてしまって…」
「いえ。たいしたものができなくて……。よかったら、また、是非いらしてくださいね」
「そうそう。お前が来るとあかねが喜ぶからな」
「お兄ちゃん!」
頼久のファンであることは、本人にとっくの昔にばれている。
今のように人気が出る前から、あかねは頼久のファンで舞台も毎回観に行っていたし、ファンレターもまめに出しているくらいだ。
頼久も自分を応援してくれ、よく目にするファンの子の顔は覚えていた。
あかねが憧れの俳優である頼久とこうやって話が出来るのは、ひとえにカメラマンの兄、慎のおかげだった。
雑誌の撮影で頼久を撮った慎は、頼久と意気投合し、いきなり家に連れてきたのだ。
慎が突然仕事仲間や友人を連れて帰ってくるのは珍しくないので、あかねもいつものように夕食とおつまみの用意をして待っていたら……。
現れたのは、あかねが憧れてやまない頼久だった。
驚きすぎたあかねの様子をみて、慎が大爆笑。
そしてその日は、あかねを交えて軽い飲み会となったのだが……。
あかねが頼久と話をするのはあの日以来だった。
「頼久。ちょっとだけあかねと一緒に撮ってくれないか?せっかく、あかねが浴衣着てるからさ、撮ってやりたいんだ」
兄馬鹿全開の慎の頼みに、頼久が快く頷いた。
「ああ、別にかまわない。スケジュールも余裕があるしな」
「サンキュ、頼久。…ほら、あかね、ぼーっと見惚れてないで、さっさと用意する」
「用意って!お兄ちゃん!!」
仕事で頼久の撮影をしていた慎の公私混同に慌てたのは、あかねだった。
普段、慎はきっちりと仕事とプライベートな撮影に一線を引く人なのに。
だが、慎は休憩中だからいいんだよと笑って、あかねを頼久の方へ押し出した。
「頼久なら誰かさんと違って、撮られる事に文句を言わないからな。よかったな、あかね」
「お兄ちゃん!………いいんですか?」
記録に残るものを嫌う友雅を引き合いに出して軽口を叩く兄に膨れてみせてから、あかねはおずおずと頼久を見上げた。
そんなあかねに頼久は、大丈夫ですよと快く頷いてくれた。
頼久に対して、あかねはとても控えめだ。
一度だけしか会ったことはないが、ファンレターでは雄弁な彼女も、面と向かっては頼久に気を使っているのが手に取るように分かった。
ファンとして一線を引いているのだ。
確かにあかねはファンの一人だが、友人が大切にしている妹。
馴れ馴れしいのは困るけれど、あまり距離を置かれるのも、どうしていいか分からなくなる。
カメラの前でなら、どんな役も演じて見せる頼久だが、あかねの純粋無垢な瞳の前で戸惑ってしまう。
年端のいかない少女の自分に向けられる憧れの瞳に、頼久は心を乱される。
そんな自分の未熟さに苦笑いしながら、頼久はあかねを誘って慎のカメラの前に立った。
ドキドキする。
隣にずっと憧れていた人が立っていて、あかねに微笑み掛けてくれる。
一方通行の憧れだと思っていた。
大勢のファンの中の一人で、あかね個人として頼久に認識されることはないと思っていた。
それが……。
「あかね!顔が引き攣ってるぞ!」
笑いながらからかってくる兄を、あかねが頼久に見えないように睨み付ける。
その度に切られるシャッター。
そんな兄弟のやり取りを、頼久が笑いながら見ている。
夢のような時間は一瞬で過ぎ去ってしまう……。
「ラスト一枚!」
「あかねさん」
「はい?」
慎のラストコールと同時に、頼久が小さな声であかねを呼ぶ。
反射的に、あかねは隣の頼久を見上げた。
その瞬間、切られたシャッター。
「ほら、終り。可愛く取れたぞー」
「ありがとうございます、頼久さん」
あかねは改めて頼久に向き合うと、ぺこりと頭を下げた。
「どういたしまして。また、舞台を観に来てください」
「はい!絶対行きます」
あかねは満面の笑顔で、しっかりと頷いたのだった。
「あかね?」
訝しげに声をかけられ、あかねははっと顔を上げた。
「……友雅さん」
「どうしたの?上の空のようだけど?」
友雅とあかねは連れ立って、花火を見るために会場まで歩いていた。
あかねが浴衣を着たのは、友雅と逢うためだった。
大好きな恋人に、いつもとちがうお洒落をした自分を見てほしかったから。
綺麗だよ、似合うよ、って褒めてほしくて……。
友雅はあかねをみて、蕩けるように甘い笑顔で「これ以上、私を夢中にさせてどうするの?」と囁いてくれた。
それなのに……。
いつもなら会えなかった日の印象深い出来事を、友雅にうれしそうに話すあかねが、今日は静かだ。
慣れない下駄を気遣って、普段よりゆっくりとした歩調で歩いていた友雅が心配そうにあかねを見下ろしていた。
「…なんでもないです」
あかねは曖昧な笑みを浮かべて、友雅の腕にぎゅっとしがみ付いた。
「あかね?」
恥ずかしがりやな恋人の積極的な行動に、友雅は少しの驚きを浮かべた。
優しい眼差しであかねだけを見てくれる人。
大好きで大好きで、いつだってドキドキして……。
逢えなければ淋しくて、声を聴きたくなる。
逢えたらうれしくて、離れたくなくなる。
それなのに……。
今日はいつもと違うドキドキがあかねの中に残っていた。
友雅と出会う前から、ずっとずっと憧れていた頼久と過ごした少しだけの時間が、あかねの意識を友雅だけに向けさせない。
友雅はこの花火の為に、忙しいスケジュールの都合をつけてくれた。
大切にされていると分かっている。
けれど、あかねの心にあるのは、友雅への恋心と頼久に出会えた喜び……。
恋人と逢っていながら、他の男性の事を考えるなんて……。
「本当に……。どうしたのかな、あかねは?……私はうれしいけれどね」
腕に抱きつくあかねを優しく見下ろし、友雅が笑う。
あかねは自分の気持ちに後ろめたさを感じ、友雅を見返すことが出来ずに、ただ彼の腕のぬくもりを自分に刻み付けるようにしっかりと抱きついていた。
夏の日の出会いは、僅かな危険の香り……。
後日渡された慎によって切り取られた一瞬は、まるで頼久とあかねが見詰め合っているようだった。
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