大晦日。
テレビでは毎年恒例の紅白歌合戦が賑やかに催されている。
花梨は、お行儀悪くソファに寝転んでテレビから流れてくる映像と歌をぼんやりと聴いていた。
(そういえば、去年はそれどころじゃなかったよね〜。冗談じゃなく命かけてたもん……)
去年の今日は、百鬼夜行と相対していた。
京の平和を取り戻すとか、そんな大それたことは考えてなくて、ただ大好きな人が生きる世界を守りたかった。
皆の叫びを聞きながら龍神を召喚したあの時……。
「あ〜、何か幸せだよね〜」
ポツリと花梨が呟く。
一年前は必死だった。命を懸けていた。
「ほんと、幸せだ〜」
「どうしたんだい?いきなり…」
自分の膝枕で子猫のように懐いて静かにしていた花梨の、唐突な独り言に翡翠はクスリと笑ってその髪を一房摘んだ。
花梨は翡翠の膝でごそごそと寝返りを打って、仰向き真上から覗きこむ翡翠の顔を見つめた。
「去年が信じられないな〜って思ったの」
「あぁ……」
花梨の一言で、彼女が言わんとしている事が分かった男は、苦笑交じりに軽く頷いた。
あの日の出来事は翡翠も覚えている。否、忘れられないのだ。
生まれて初めて愛しいと思った女を、奪われる恐怖。無力な自分への憤り。運命を翻弄する龍神への怒り。
これまでの自分が忘れていた感情が、一気に噴出したあの時。
あのまま、もし誰よりも大切な宝がこの手に戻らなかったならば、いったい自分はどうしていたのだろうか?
けれどその宝は、今はこうしてこの手の中にある。
花梨と共にこちらの世界へ来た翡翠は、当初いろいろ戸惑ったこともあったが、龍神の加護と花梨の細やかなフォローで今ではすっかり馴染んでいた。
もちろん花梨の両親(特に母親)の信頼も得ていて、花梨の外泊も翡翠が相手ならと度々許されていた。
だから年越しも、花梨は自宅で母親と一緒に作ったおせち片手に、翡翠の部屋へと来ていたのだった。
愛しげに花梨の髪をゆったりと梳く翡翠の指を心地よく思いながら、花梨は手を伸ばして彼の肩から零れ落ちた髪を軽く引いた。
「ん?」
「ねぇ、賭け、しません?」
甘えを含んだ瞳で何か企んだ笑顔を翡翠に向ける。
「賭け?唐突だねぇ……」
花梨の申し出に、翡翠は面白そうに眉を上げた。
「今年最後の賭け。そして来年への運試し。どうですか?」
「かまわないよ。賭けの対象は?」
「あれです!あれ!!」
花梨がびしっと指差したのは、歌の合間の出し物で盛り上がる紅白歌合戦。
「紅が勝つか、白が勝つか、二分の一の確率!負けたら勝った方の言う事をひとつだけきくの」
「ふぅん……。面白そうだね。いいよ、賭けよう。花梨はどちらが勝つと思うのかな?」
「私が決めていいんですか?」
「どうぞ」
花梨はほんの少しだけ考えてからきっぱり言った。
「じゃあね、白!絶対白が勝ちます!」
「おやおや、大した自信だね。その根拠はなんだい?」
「私の好きなアーティストが出るから!!!」
寝転がったまま拳を振り上げる花梨。
あまりにも単純すぎる理由に、翡翠は少し呆れてしまった。
「………それだけ?」
「それ以外に理由いります?」
確かに必要ないだろう。
好きなアーティストを応援する。だからその人がいる白が勝つと信じる。
とても短絡的だが、花梨らしいといえば花梨らしい。
もっとも色々考えても、所詮二つに一つ。あまり大差はない。
翡翠は仕方ないと軽く肩を竦めた。
「では、私は紅だね」
「ふふふ、可愛いアイドルや綺麗なアーティストがいっぱいだから、翡翠さんも賭け甲斐があるでしょ?」
悪戯めいた笑みを浮かべて小憎らしい事を言う花梨の鼻を、翡翠は軽く摘んだ。
「にゃっ!」
「面食いな君も、見目麗しい若者なら応援のし甲斐があるだろう?」
「面食いじゃないもん!」
「おや?そう?」
「違うもん!!」
ムキになって否定する花梨が可愛らしく、翡翠は調子にのって花梨をからかう。
「君が好きなアーティストは、皆とても綺麗な顔立ちをしていると思うけどね」
「それは……、やっぱり格好いいほうがいいじゃない?でも!翡翠さんは確かに格好いいけど、顔で好きになったんじゃないもん!だから面食いなんかじゃない!」
「おや?」
素直な告白に、翡翠は少し驚いて目を見開く。
花梨もうっかり勢い余って余計な言葉を紡いだ口を、両手で慌てて塞いだ。
「嬉しいことを言ってくれるね?だったら何処を好きになってくれたの?」
しかししっかりとそれを耳にした翡翠が、機嫌よく花梨に問いかける。
花梨はむーっと眉を寄せて、ぷいっと顔を逸らした。
「………秘密」
「ん?聞こえないな」
「ひ・み・つ!です!!」
「おやおや、つれないね」
翡翠には言葉とはうらはらに、花梨を追求する気はないようだった。
「ところで花梨?」
「はい?」
「君が勝ったら、何を望むのかな?」
唐突に翡翠に問われ花梨は首を傾げたが、すぐにぱっと顔を輝かせた。
「う〜んっと。翡翠さんと初詣!!」
「……」
花梨の言葉に、先ほどニュースで流れた神社の映像を思い出し、翡翠の顔が嫌そうに顰められる。
「人込みが嫌だって言ってもききませんよ!初詣、一緒に行きましょうね?」
「ずいぶん、自信があるねぇ…」
「あれ?翡翠さんは負ける気ですか?」
「まさか」
「じゃあ、翡翠さんが勝ったら、どうするんですか?」
「私の望みかい?」
「はい!」
「私の望みはね……」
わくわくどきどきと瞳を輝かせる花梨に、翡翠は嫌味なほどにっこりと笑って言った。
「秘密」
「はい〜?」
「結果が出るまで秘密だよ」
「え〜!!ずるい!!」
花梨への意趣返しだろう、悪戯めいたウインクを見せた翡翠に、ずるいずるいと繰り替えし、子供のように足をバタつかせる花梨。
「うるさいねぇ…」
翡翠は溜息を一つ吐くと、自分の膝枕のまま暴れる花梨の頬を包み込んで、その唇を己のそれで塞いだ。
「んんっ…」
柔らかな唇を割り、花梨を翻弄する翡翠。
もっとも花梨も少し驚いただけで、すぐに腕を翡翠の首にまわしたのだった。
密やかなキスの音は、テレビの音楽で掻き消される。
深く浅くお互いを味わい、唇を僅かに離しては笑いながら繰り返される口付け。
やがて二人が満足した頃には、花梨の唇はふっくらと赤く色づいていた。
艶やかな唇を、翡翠の指がそっとなぞる。
「花梨が好きな人が歌うようだよ」
「あっ、本当だ……」
花梨は乱れた髪を掻きあげ、腕を回した翡翠の首を支えに起き上がった。
ギターを抱いて椅子に座った男性アーティストが紡ぐのは、しっとりと切ないラブバラード。
花梨はそれを聴きながら、傍らの翡翠の胸に身を凭せ掛けた。
甘えた花梨の仕草に翡翠が微笑む。
「今日はずいぶんと甘えん坊だね?」
「この歌聴くと甘えたくなるの。へへ、たまにはいいでしょ?」
「いつも、でもいいのだけれどね?私の白菊」
肩を抱かれ耳元で囁かれる美声に、花梨はくすぐったそうに首をすくめた。
それからしばらくは紅白など忘れたように甘い時間を過ごしていた二人だったが、終了時間には花梨が食い入るように画面を見つめていた。
そして……。
「っしゃー!!白、勝利ーー!!!」
勝敗が決した瞬間、花梨の勝鬨の声が部屋に響いた。
先ほどまで腕の中で大人しくしていたのに、ガッツポーズまで作って喜ぶ花梨が面白くて、翡翠はのんびりと少女を眺めていた。
「私の勝ち、ですね。翡翠さん」
くるりと振り返った花梨の口元には勝ち誇った笑みが浮かんでいる。
翡翠は軽く肩を竦めてみせた。
「そのようだね」
「じゃあ、さっそく初詣に行きましょ?用意して下さい!」
花梨が翡翠の腕を抱きしめるようにしてひっぱり、ソファから立ち上がらせる。
「はいはい。まったく、どうしてあんな人込みに好んで行きたがるのかねぇ……」
「ぐずぐず言わないの!着替えて、着替えて!」
翡翠を寝室に押し込み、自分もバッグに携帯電話などを放り込んで用意をし始めた。
「ねぇ!翡翠さん?」
花梨はコートを着込みながら、寝室で着替えている翡翠に声を掛けた。
「なんだい?」
「翡翠さんが勝ったら、何を望んだの?」
「あぁ……。たわいもない事だよ」
「何?」
「初めて花梨と二人っきりの年越しだからねぇ……。静かに二人でゆっくり過ごしたかっただけだよ。昨日まで仕事で忙しかったからね……」
翡翠の最後の言葉に、コートを羽織っていた花梨の手が止まる。
確かに翡翠は昨日まで仕事だったのだ。
それに12月は年末で忙しかったため、休日も少なかったはずだった。
「……なんだかなぁ……」
花梨は溜息混じりに呟くと、体をソファに投げ出した。
「用意できたよ?花梨?」
部屋から出てきた翡翠は、もう玄関にいると思っていた花梨が、コートの前を留めずソファに座っているのを見て首を傾げた。
「花梨?」
「やめます」
「ん?」
「初詣、行くのやめます」
つい数分前までの勢いは何処へやら、花梨はクッションに懐きながら言った。
花梨の珍しい気まぐれを別に怒る事なく、翡翠はコートを着たまま花梨の隣に座った。
「どうしたの?急に……。初詣行きたいのだろう?」
「う……ん。でも夜が明けてからでいいや。人込みの中で翡翠さんとはぐれちゃったら嫌だもん」
「もしかして、私に気を使ってるのかな?」
「……別に。でもゆっくりしてから、初詣してもいいかな〜って思ったの」
意地っ張りな花梨は認めようとしないが、翡翠が洩らした一言で初詣をやめたのは明白だった。
自然に人を思いやって、その事を負担に思わせまいとする少女。それが花梨だ。
翡翠は花梨の肩を抱き寄せ、指先で優しくその頬を撫でた。
「姫君の思うままに……。ねぇ、花梨?」
翡翠の誘いを正確に受け取り、花梨がキスをねだるように首を逸らせた。
「ん…」
密やかに重なる吐息……。
「運試しかぁ……」
「勝ったからよかったのだろう?」
「……そうでもないかな?」
花梨は情事の余韻がけだるく残る体を、翡翠の裸の胸についた腕で起こし、間近から翡翠の整った顔を見下ろして溜息をついた。
「どうして?」
「今年一年を暗示してそうじゃないですか」
「勝つのが気に入らないのかい?」
「じゃなくって。一応勝つんだけど、翡翠さん相手だと最終的に勝った気がしないの。結局、翡翠さんの望むとおりになるのかな〜って」
「そう?」
「やっぱり翡翠さんには勝てないのかな?」
「だが、私も花梨には弱いのだけれどね」
「…本当?」
微笑を含んだ疑わしげな眼差しが翡翠に向けられる。
翡翠は心外だと言わんばかりに肩をすくめた。
その仕草に花梨が笑って翡翠の肩に額を乗せた。
「うそばっかり…」
「本当だよ?私は花梨に弱いからね」
「信じられないよ。いつも私がいいようにからかわれて振り回されてる気がするもん」
「でも、嫌じゃないだろう?」
「………やっぱり翡翠さんの望むとおりになるみたい。今年も」
花梨の諦め口調に、翡翠が喉の奥で笑った。
「今年もよろしく。花梨」
「お手柔らかにお願いします。翡翠さん」
花梨から贈られた今年初めてのキスは、軽い軽い、でも深い想いの込められた羽のようなキスだった。
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